秋茜行合の空よく晴れて     水口 弥生

秋茜行合の空よく晴れて     水口 弥生 『季のことば』  「行合の空」とはなんとも雅で素敵な言葉を見つけたものである。夏から秋へと移り変わる頃の空は暑気と涼気が行き交ひ、入れ替わる。地平に近いところには未だ夏の入道雲が湧いているが、上空には綿のようなあるいは鱗のような秋の雲が見える。そういった様子を昔の人は行合の空と言ったのである。  『古今集』巻三「夏歌」の最後に載っている「夏と秋と行きかふそらの通路(かよひぢ)はかたへすずしき風やふくらん」という平安前期の歌人凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の歌が元になり、以後、「行合の空」は数々の詩歌、俳諧に詠まれるようになった。行く夏と来る秋がすれ違う空の道の片側にはさぞや涼しい風の吹いていることだろうなあと、暑さにげんなりしている躬恒さんの姿が見えるようだ。  だが「行合の空」は歳時記には載っていない。あまりにも古色蒼然としていると見做されたのか、あるいは夏と秋のどちらに分類するかの決着がつかないせいだろうか。  しかし、夏秋の境目の微妙なところを衝いた「行合の空」という言葉に惹かれた俳人は多く、俳諧時代から現代まで結構詠まれている。蕪村の弟子の高橋東皋に「夏と秋と行き交ふ空や流星」というとても良い句がある。弥生さんの句も「秋茜」すなわち赤蜻蛉という人気のある秋の季語を添わせて「行合の空」を詠んでいる。このように二季に亘ってしまうが故に歳時記に載せきれない不思議な「季のことば」を用いる場合、夏にするか秋にするかは、その場の状況と詠…

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身に入むや類想類句といふ奈落  廣田 可升

身に入むや類想類句といふ奈落  廣田 可升 『この一句』  俳句を長年作ってくれば、「類想類句」という落とし穴にはまってしまうことがある。初心者のころは、何がなんでも五七五に従って句にしようとして、出来上がったものが他人の作品と似ていることなど気づかない。ところが俳句に慣れてくると、「はて、これは以前に誰かに詠まれたのではないか」と気になるものである。  手練れの作者がこの境地におちいり、「身に入む」ほどのうすら寒さを覚えたようだ。類想といい、類句といい、筆者もふくめ‟俳句作りの壁”を前に悩む人は多い。それを奈落に落ちたようだと作者は詠んだ。類想類句と一口に言うけれど、その定義はありやなしや。類句は、読めば大抵の俳句愛好家すぐ分かるほどの単純さがある。「あの有名句とよく似ているね」と。いっぽう、類想(ちょっと驚き。この言葉は辞書にない)はどうだろうか。この句は同じような発想だから、類想だと決めつけられないのではないか。俳人は森羅万象に感じて俳句を作る。同じ発想になるのは避けられない。日経俳句会では毎回百句を超える投句があり、兼題には同じ発想で作られた句がいくつも並ぶ。そのなかで、この句は他より優れているという評価が下され高点を得る。  乱暴に私見を言わせてもらえれば、類想と類句が一つに重なるとまずいということになるのではないかと思う。和歌連歌の世界でも、先人の余情・用語を取り入れた本歌取りがあるとも思う。 (葉 24.09.28.)

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身に入むや組立トイレ講習会   大澤 水牛

身に入むや組立トイレ講習会   大澤 水牛 『合評会から』(酔吟会) 三薬 災害大国に生きる老人としては、これは他人事ではない。古めかしい季語に、現代風物をうまく組み合わせました。 春陽子 きっと作者自身が講習会に参加されたのでしょう。そう思うと、この句がぐっと臨場感を増し、身に入むが伝わって来ます。 光迷 地元の町内会では非常事態に備える策として組立てトイレや食料、水などを保管しています。災害続きで備えは怠れませんね。 木葉 南海トラフ地震などが注目される今、時宜を得た句。「組立トイレ」には特に老人の切実さを連想させます。 青水 この逸話が持つ切実さと可笑しみ。それが過不足なく納まり、会場のざわめきや作者の心情までもが浮き上がってきました。           *       *       *  水牛歳時記には、『秋風がひんやりして来ると、人は誰しももののあはれを感じるようになる。こうした秋のもの思いを誘うような、肌に沁み通って来るような感じを言うのが「身に入む」という季語』とある。掲句は、その「身に入む」という雅な季語に、「トイレ」という俗ではあるが切実なモノを取り合わせ、読者をはっとさせる。特に高齢者にとっては「組立トイレ」の使い方などの情報は極めて現実的な話題だ。  仏教の教えに「いま、ここ、われ」という言葉がある。俳句でも同様に「いま、ここ、われ」が重要と説く俳人がいる。この句は「組立トイレ講習会」を受講した作者の「いま、ここ、われ」を詠み込んだ、優れた現代俳…

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庭の鉢居間にあふれる厄日かな  中村 迷哲

庭の鉢居間にあふれる厄日かな  中村 迷哲 『合評会から』(番町喜楽会) 的中 いまちょうど台風シーズンですが、台風が来る前に庭の鉢を居間に移すというのは、とてもリアリティがあって、なおかつ微笑ましい光景です。 白山 台風が来るのに備えて鉢を避難させる。狭い部屋がなおさら狭くなりますが、しようがないですね。 二堂 台風シーズン、鉢を家の中に避難させることも多くなります。 てる夫 荒天対策で貴重な鉢物を屋内に取り込んだ。その数、半端じゃあない。天気回復までの辛抱とはいえ、なんともご苦労様です。 幻水 我が家もベランダですが、妻が同じことをしています。           *       *       *  作者によると、御父上が菊作りが趣味で「台風来襲となると家族総出で鉢を家の中へ入れさせられ、居間にまであふれてしまいました」ということだった。菊作りは春の「根分」に始まり、大輪菊の場合は初夏仲夏の挿し芽、大鉢への植え替え、脇芽摘み、支柱立て等々、一年中手間がかかる。台風シーズンは蕾が着く頃合いで極めて大事な時期でもある。天気予報を聞きながら、いよいよとなれば屋内に取り込む。奥さんはじめ子供達まで総動員だ。  私は小菊しか作っていないから屋内にまで入れずに済んでいるが、それでも植木棚の鉢を下に下ろし囲いをする。それを詠んだ『植木鉢せっせと下ろす厄日前』を同じ句会に出したのだが、「居間にあふれる」の迫力には到底敵せず、無残な返り討ち。 (水 24.09.24.)

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廃農家ぐるり囲んで曼殊沙華   徳永 木葉

廃農家ぐるり囲んで曼殊沙華   徳永 木葉 『季のことば』  曼殊沙華は彼岸花の別称。ヒガンバナ科の多年生植物で、秋のお彼岸の頃に川の土手や田の畦、墓地などで真っ赤な花を咲かせることから彼岸花の名がある。水牛歳時記によれば、曼殊沙華は法華経に由来する名前で、天上に咲く赤い花を意味する。寺の裏庭や墓地でよく見かけるのはその由来によるようだ。また球根に有毒成分があり、ネズミやモグラの害獣避けとして、水田の畦にもよく植えられた。紅い花が田の縁を彩る景観は、秋の農村の風物詩のひとつである。  掲句は曼殊沙華が、廃業した農家を取り囲むように群生している様を詠んでいる。古びた藁葺屋根の農家と曼殊沙華の紅い色がマッチして、風景画家・向井潤吉の絵を思わせる景である。しかし曼殊沙華をめぐる歴史と農村の現実を句に重ねると、心象風景はかなり違ってくる。  曼殊沙華は生命力が強く、球根を埋めておけば、日影や水気の多い場所でもどんどん増える。球根は澱粉を多く含むので、飢饉の時は水に何度もさらして毒を除き、救荒食物としたという。田の畦や農家の周りに植えられた曼殊沙華には、そんな悲しい歴史がある。  さらに「廃農家」の措辞からは、荒れた田園がイメージされる。畦の手入れをする人もなく、曼殊沙華は広がり放題。家の裏に植えられた曼殊沙華が表にまで進出し、今や崩れかけた家をぐるりと取り囲んでいるのであろう。離農が相次ぎ、荒れ果てていく現代農村の光景と捉えると、咲き盛る曼殊沙華が、「死人花」「幽霊花」とも見えてこないだ…

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曼珠沙華ここにカルメン立たせたし 堤てる夫

曼珠沙華ここにカルメン立たせたし 堤てる夫 『合評会から』(番町喜楽会) 光迷 曼殊沙華の赤にカルメンの赤。カルメンは曼殊沙華を口にくわえるのだろうか。そういう光景を想像する楽しさのある句です。 水兎 分かります!埼玉の巾着田に何年か前に行ったのですが、コスプレイヤーで溢れていました。絶景の一つですね。 青水 堤さんがこんな句を詠むんだ!           *       *       *  彼岸花という秋彼岸の季節にふさわしい名前のほか、曼殊沙華には死人花、幽霊花などの怖ろしい別名がある。季語には採り入られていないようだが、地獄花と極め付きの異称がありなんとも言い難い秋の花だ。鱗茎が有毒ゆえに悪名が付いたともみられるが、でんぷん質を多く含み晒して食せば飢饉時には役立つという。  炎のような紅蓮の花は美しい。今風に言えばネットに「映える」花である。作者は目の前の曼殊沙華の群生に、そこにカルメンを立たせたら絵になるだろうと思ったのだろう。カルメンが唇にくわえフラメンコを踊れば、ドン・ホセならずとも男を狂わせるにちがいない。曼殊沙華に対する長老たる作者のイメージがこの句を作らせ、句友に意外な思いを抱かせた。この世のものとも思えない、真っ赤な曼殊沙華は一筋縄にはいかない花だ。 (葉 24.09.20.)

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母の裾ぎゅっとにぎりて秋日傘  山口斗詩子

母の裾ぎゅっとにぎりて秋日傘  山口斗詩子 『この一句』  一読、情景がありありと浮かんだ。日傘を差したお母さんの裾を、しっかり握っている幼い女の子、という図が。実はその光景にぴったりの絵画がある。小倉遊亀という日本画家の「径(こみち)」という作品だ。下手な説明をするより「小倉遊亀 径」で検索してもらった方が早いが、あえて言うと、日傘をさした白い服の母親の直ぐ後ろを、おかっぱ頭の女の子が、やはり日傘を差して歩いている。さらにその子の真後ろをやや首の長い柴犬のような毛並みの犬が付き従う、という母子と犬が横一列に並んだ構図の絵だ。一目、温かで気持が安らぐ愛に満ちた作品だ。明るく温かく楽しいもの。草にも木にも雲にも動物にも通じ合う愛の心、生きることの喜びを感じ合う健やかさ。そんな想いに満ちた世界を描きたかった、と小倉遊亀。実はこの絵、中国の龍門石窟の仏像を観た時の感懐を元に描かれたそうだ。  句会で迷哲さんが触れたように、モネの有名な絵画「散歩、日傘をさす女性」も脳裏によぎったが、モデルが日本人ということもあり「径」の方が親近感が湧く。西洋画と日本画の違いはあるが、いずれにしても、景が浮かぶというのは俳句表現における重要な要素の一つで、採る決め手でもあったりする。掲句は、選者それぞれが自分なりの映像を思い描いて、高く評価された。上記二つの絵画にはどちらも描かれてないが、「ぎゅっとにぎりて」がなんともリアルで愛らしい。 (双 24.09.18.)

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残り物チャーハンにして厄日過ぐ  星川水兎

残り物チャーハンにして厄日過ぐ  星川水兎 『この一句』  厄日とは二百十日のことで、台風の襲来の多い9月1日ごろにあたる。今年は暦通りに台風10号が来て、一週間にわたって日本列島を迷走、各地に被害をもたらした。進路予報が気になって眠れぬ夜を過ごした人も多かったのではなかろうか。  大型台風はひとたび上陸すると、作物や家々をなぎ倒し、押し流す。その猛威の前に人間は無力であり、通り過ぎるのをじっと待つしかない。そんな台風の日、掲句の作者は何とチャーハンを作って軽やかにやり過ごしている。台風10号に振り回されただけに、掲句の明るさ、ユーモアに共感した人が多く、9月の番町喜楽会では二百十日の兼題句で最高点を得た。  台風で家に閉じ込められて買い物にも行けず、残り物で食事を作って過ごした経験は誰にでもある。それをチャーハンと具体的に詠んだところに、生活感と可笑しみがある。圧倒的な自然の力に、庶民の暮らしの象徴ともいえるチャーハンをぶつける。意表を突く取合せが軽妙さを生んでいる。  地球温暖化による海水温の上昇で、台風は年々巨大化している。最大風速67メートル以上のスーパー台風も、日本近海で発生している。気象庁の統計では日本列島に上陸した台風の数は8月と9月が最も多い。家の補強や非常食の用意も怠れないが、残り物のチャーハンで災厄をやり過ごす心の余裕を見習いたい。 (迷 24.09.16.)

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稲光タワマン墓のごとく立ち   須藤 光迷

稲光タワマン墓のごとく立ち   須藤 光迷 『この一句』  一読して光景があざやかに浮かび、強い印象を残す句である。現代都市の象徴ともいえるタワーマンションが墓標のようだという比喩がぴったりで、季語の稲光と相まって、叙景句にとどまらない思想性を感じさせる。句会でも「何かストーリーがあるような気がする」(千虎)、「現代文明への批評にも通じる」(木葉)など句の背後に思いを致した人が多く、高点を得て二席となった。  タワーマンションに法的定義はないが、一般に高さ60メートル(20階建)以上の超高層マンションをさす。50年ほど前に最初は郊外に登場したが、建築基準法の改正で都心部にも相次いで建設されるようになった。首都圏には全国の半数の790棟があり、臨海部の勝どきや武蔵小杉など、50階を超えるタワマンが林立する光景は、テレビにもよく登場する。  今や平均価格が1億円をはるかに超すタワマンの購入者は、共稼ぎの高所得ファミリー層が多いと言われる。住んでいる人は眺望と都心暮らしを満喫しているだろうが、コンクリートに囲まれた超高層階での生活、防災面の課題など、傍から見るとどこか不安がつきまとう。「大地震でタワマンがバタバタ倒れる夢を見るが、何年か先の東京の実景かもしれない」(水牛)という予知夢も、あながち杞憂とは言い切れないであろう。  作者は切れ味鋭い時事句を得意とする。バベルの塔の神話ではないが、掲句は人々がタワマンに感じる根源的な違和感、不安感を、稲光に浮かぶ墓標に見立てることで、イメージ…

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庭先に干されしおまる曼珠沙華  斉山 満智

庭先に干されしおまる曼珠沙華  斉山 満智 『この一句』  「おまる」とは乳幼児や病人用の室内便器。健康成人だけの家庭には無縁のものだが、乳児や寝たきり老人を抱える家には必需品だ。おまるは有史以来重要な家庭用品として生き続けてきたものなのだが、「不浄のもの」として常に日陰に押しやられてきた。こうして俳句に詠まれることなど滅多に無いことで、この句はその点でも特筆大書すべきものである。  古代日本語で排便することを「まる」と言い、時にはその落下物のことも言っていた。排尿は「ゆまる」と言うのだが、いかにもという感じである。『源氏物語』などで想像する奈良平安の大内裏や貴族館は実に優雅だが、実際は極めて不便な暮らしを強いられていた。その最たるものが「用足し」である。今のように自由自在に水道配管して必要箇所にトイレを設けるというわけにはいかない。屋敷内でもぐんと離れた所に設けられる。十二単をまとった御婦人方は間に合わないこともしばしばだったに違いない。というわけで「おまる」は大昔からの必需品だった。  さてこの句の鑑賞だが、私は一読、この「おまる」は乳幼児用のものではなく寝たきり老人のものではないかと思った。ただ食べて、排泄するだけの日々。真っ白なおまるが真っ青な秋空に干されている。その主人公が遠からず行く浄土を飾るという曼珠沙華があかあかと陽に映えている。 (水 24.09.12.)

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