ヴィトン下げあの娘降り立つ盆の駅 杉山三薬

ヴィトン下げあの娘降り立つ盆の駅 杉山三薬 『この一句』  盆と正月は日本人最大の年中行事だ。仏壇を前に先祖を敬い感謝するお盆に比べ、国中が清新の気につつまれる正月はうきうきする。盆はどうしても抹香くさく、墓参りの習慣も核家族化が行き着いた昨今、途絶えがちになっているようだ。「親戚もいまやちりぢり盂蘭盆会 大澤水牛」と嘆息するように、家族や親類が一堂に集う盆行事はほぼなくなった。伯父伯母、その子たちは今どうしているのだろうかと思うばかり。  そんななか、故郷の実家に帰って盆の行事に加わろうなどという、掲句の娘さんなどは立派な心掛けの持ち主である。ただし、勤め先が一斉盆休みでやることもなく仕方なく帰郷したのかもしれず、句の本意はどちらか分からないが。  とにかく若い女性あこがれのヴィトンのバッグを下げ、駅に降り立つ娘の姿がある。高校卒業後、故郷を離れ都会の学校を出てどこか会社に就職したのか。まずは娘の”現在地”が気になる。ヴィトンもボストンバッグほどの大きさになるとずいぶんと値が張る。それを持てるほどの収入があるのは間違いない。意気揚々と下車したのか、人目をしのぶように降り立ったのかも気になる。どこかに隠れたドラマがあるような句である。いささか古い話で恐縮だが、『カルメン故郷に帰る』という高峰秀子演じる、日本初の総天然色映画を思い出した。「妄想が過ぎるよ」と作者に怒られそうではあるが、「ヴィトン」と「あの娘(こ)」が妄想をかきたてる。 (葉 24.08.31.)

続きを読む

柴犬の耳ピンと立つ秋の声     斉山 満智

柴犬の耳ピンと立つ秋の声     斉山 満智 『季のことば』  秋の声とは「澄んだ空気の中に、繊細になった聴覚が捉えた秋の気配をいう」(角川俳句大歳時記)。風音、葉擦れの音、投句の水音、虫の音などが例示される。水牛歳時記は「秋を感じさせる心に響く物音であり、実際に耳で聴く場合もあれば、何か聞こえてくるような気がすることもある。広く秋の気分ととった方が良いようだ」と解説している。  明確な声・音ではなく、気配や気分なので、句作にあたっては秋を感じさせる風景、物音、状況などを詠むことになる。掲句は犬の耳という意外なものを登場させ、その動きに秋の声を感じ取っている。句会では点が伸びなかったが、そのユニークな取り合わせが目を引いた。  犬は毛に覆われているため汗で熱を下げることが出来ず、暑さに弱い。最近の猛暑では日陰で寝ていることが多く、柴犬の特徴である三角の立ち耳も垂れ気味である。作者はその耳が久しぶりにピンと立ったのに目をとめた。愛犬が何かに気づき、気力を取り戻した様子に、秋の気配を感じたのである。散歩をせがまれたのかも知れない。犬にいつも気を配っている愛犬家だから気づいた視点であろう。  犬の聴力は人間の4倍といわれ、人には聞こえない低い音や遠くの音を聴くことが出来る。もしかするとこの柴犬は、本当に秋の声を聴き取ったのではないかと考えると、愛犬家ならずとも愉快になってくる。 (迷 24.08.29.)

続きを読む

白桃やアダムもイヴも知らぬ味  玉田春陽子

白桃やアダムもイヴも知らぬ味  玉田春陽子 『この一句』  夏から秋にかけ、さまざまな果物が出回り食卓を賑わせる。西瓜、桃、葡萄、メロンを主役にチェリー、スモモやザクロなどの脇役も顔を見せる。それぞれ一番好きなものを堪能していることだろう。熱暑で弱った胃腸の負担にならず、また水分の補給にもなるから、この夏はことに果物が重宝される。あまり食べ過ぎないことが肝要なのは大方承知。最近は栽培農家が糖度の高さを競うようにしているので、過度の糖分摂取は糖尿病になる心配がありそうだ。  作者はいま白桃に舌鼓を打っている。桃どころ山梨では、桃は皮を剝かずそのままかぶりつくそうだが、その経験のない筆者にはその妙味は想像できない。瑞々しく柔らかい果肉は歯にやさしく、甘い汁が喉の奥に吸い込まれる。「ああ美味い」と声にならぬ声が聞こえて来そうだ。作者が思わず思い浮かべたのは、アダムとイヴの物語。蛇に唆され禁断の林檎の実を食べてしまって、エデンの園を追われたあの話。枝もたわわに実る林檎の未知の味に、心のブレーキがかからなかった。寓意は人間の性を表して不変の真理を語っている。  禁断の謂われもなく心のままに食べられる白桃。「この美味さはアダムもイヴも知らんめい!」と悦に入っている作者の顔が見える。機知にとんだ句だと高点を得た。 (葉 24.08.27.)

続きを読む

卒寿への最後の坂の残暑かな   田中 白山

卒寿への最後の坂の残暑かな   田中 白山 『この一句』  「俳句は自分史」と言う俳人がいる。自句を振り返ると、作った当時のことが甦るという人も多い。人生の節目節目の一コマを、短詩に託して書き記す行為は自らの生きた証でもある。節目でなくとも構わないが、作者にとって特別な出来事の方が説得力が増す。掲句は、晩年の自分史上大きな節目である卒寿を目前にした作者の一句。  「卒寿」は「卒」の俗字、「卆」に由来する90歳のお祝い。「還暦(60歳)」や「古希(70歳)」は、中国由来の節目だが、「喜寿(77歳)」「傘寿(80歳)」「米寿(88歳)」「白寿(99歳)」などの「寿」がついた長寿祝いは、日本独自の命名という。昭和9年生まれの作者は今年で満90歳。日本人男性の平均寿命(約81歳)を大きく超え、文字通り長寿のお祝いまであと少し。その登り坂の最後の数歩の所で、残暑が立ちはだかっている、という。立秋を過ぎてもなお連日の猛暑、作者の切実な思いが伝わる。  作者が誰か、ある程度想像できたとはいえ、句会では断トツの一番人気だった。「同年代として共感していただきました(幻水)」、「十年に一度の暑さだそうです。頑張って越えてください(愉里)」、「ご立派です、頑張って、まだまだ大丈夫!(満智)」、「卒寿までとは言わず、白寿まで(百子)」、などと多くの句友からエールを送られた。本当におめでとうございます。 (双 24.08.25.)

続きを読む

夕立はゲリラ豪雨と名前変え   工藤 静舟

夕立はゲリラ豪雨と名前変え   工藤 静舟 『季のことば』  「夕立」と来れば、炎暑の一天にわかにかき曇り、ざっと降り出す広重の名画のような情景を思い浮かべる。さっと上がった後は埃っぽさがきれいさっぱり洗い流され、涼しくなり、皆生き返った気分になる。これぞ夏の景物というわけで季語になる。  しかし「ゲリラ豪雨」では風情も情緒も無い。どこそこのガード下道路が冠水、自動車が沈んで運転していた人が溺死、あるいは「田圃の様子を見に行ったウチの人が帰って来ない」などと大騒ぎになったりする。  ゲリラ豪雨も入道雲(積乱雲)が降らせる点では夕立と同じだが、局地的にいきなり発生するところがいかにも不意打ちの感じなので「ゲリラ」と呼ばれるようになった。2000年代に入ってから目立つようになった気象異変で、ことにこの数年頻繁に発生するようになった。わずか数キロ四方の小範囲の集中降雨で、短時間に大量の雨を降らせる。ヒートアイランド現象とか、地球温暖化に伴うあれこれの気象異変のもたらすもので、現在の気象予報技術ではとても予測できない、まさにゲリラそのものの驟雨である。  この句は伝統的な俳句の詠み方からすれば一寸異色で、川柳めいてもいるが、そこが「ゲリラ豪雨」という句材と合わさって今日的な感じを醸し出している。 (水 24.08.23.)

続きを読む

古のラガー揃ひて冷素麺    池村 実千代

古のラガー揃ひて冷素麺    池村 実千代 『この一句』  老年のラガーマンが打ち揃って冷素麺を食べているという、場面を想像するだけで愉快になる句である。句会では「昔のラガー仲間が素麵をまん中に出して、懐かしがって喋りながら食べている」、「古つわものどもが、どんぶり鉢で素麵を食べている」など、元気の良い老年ラガーを思い浮かべた人が多く、7月の日経俳句会の兼題句で二席となった。  老いたりとはいえラグビーで鍛えた大男たちが、細い素麺をつるつると啜る。その大小の対比が面白みを生んでいる。さらに、現役の頃は肉やご飯をがっつり食べていたラガーが、今は素麺で済ますという今昔の落差も、句に可笑しみをもたらしている。  作者は息子二人をラガーマンに育て上げた〝孟母〟である。夏は合宿所に、冬は競技場に足を運び、料理や弁当を作るなど息子たちを応援してきた。句会での作者の弁によれば、今でも菅平の合宿所に顔を出すことがあり、昔の学生ラガーが、今や監督や指導者になって十人ぐらい集まって来る。みんなでラーメンやカレーを食べて、試合に出て行く情景を詠んだとのこと。  「古のラガー」は大げさで、「往年の」ぐらいでどうかとの指摘があった。しかし数十年にわたってラグビーに関わってきた作者にとって、若き時代は「いにしえ」であるという。「古のラガー」という措辞には、作者自身の懐旧の念も込められているのである。 (迷 24.08.21.)

続きを読む

夕立晴れ傘のチャンバラ帰り道  岡田 鷹洋

夕立晴れ傘のチャンバラ帰り道  岡田 鷹洋 『合評会から』(酔吟会) 道子 夕立が上がって晴れ晴れとした空の下でチャンバラごっこ。かつて自分もやった懐かしさのある句です。 三代 昭和の風景ですね。私の小学生の頃もこんな元気な男の子たちがいました。チャンバラがいい。懐かしい情景が立ち上ってきます。今の子たちはやらないんでしょうね。 水馬 私も小学校の帰りにチャンバラをよくやりました。その光景をそのまま詠んだ。 三薬 私は夕立に走り出す子供達を句にしようとしましたが、断念しました。雨が止んでからの光景を捉えた、この句に負けました。昔はこんな子供達ばっかりでした。 青水 ろくなおもちゃもない世界では、あらゆるものが遊び道具となる。ああ俺たちはたぶん、昭和の物不足と言う古き良き時代を愉しんだに違いない。そう思いました。 愉里 いまの子供はチャンバラなんか知らないですね。           *       *       *  何の説明もいらない句である。同じような句が既にたくさん詠まれているかもしれない。それでも句会に出てくると取ってしまう。ましてや熟年同士の句会、往時追懐の念はことさらである。 (水 24.08.19.)

続きを読む

広島や炎暑にゆがむアスファルト 嵐田 双歩

広島や炎暑にゆがむアスファルト 嵐田 双歩 
 『この一句』 
  原爆の「爆」の字すら使われていない句だが、誰もが八月六日のことに思い至る句である。同じように、原爆の「爆」の字も使わずに、原爆を詠んだ句に西東三鬼の「広島や卵食ふ時口ひらく」がある。口はモノを食べるためだけの器官ではなく、モノを語るための器官でもある。「卵食ふ時口ひらく」は、原爆の惨状を口をひらいて語ることなどできないことを寓意している。  一方、双歩氏の句。炎暑であれば、どこの土地にあってもアスファルトは歪んだり、陽炎が立って見えることがある。しかし、それが広島の炎暑である時、「ゆがむ」はつねならぬ光景を想起させることになる。西東三鬼の句や、掲句は、原爆の直接被害者ではない私たちが、原爆のことを詠むにあたっての、ほど良い、かと言って切実さを失わない、ぎりぎりの立ち位置を示しているように思う。  最近、朝のテレビドラマのヒロインの相手役が「総力戦研究所」に在籍したことがあり、日本必敗を予測したにも拘らず、何もできなかったと悔いるシーンが話題になっている。開戦回避はともかく、七月二六日に発表されたポツダム宣言が即時受諾されたなら、原爆は落とされなかったのではないかという思いは、繰り返し湧いて来る。もちろん歴史にタラもレバもないことは百も承知の上である。「はて?、ガザやウクライナはどう決着させるのだろう」と思わざるを得ない。 (可 24.08.17.)

続きを読む

素麺にあれもこれもと季を重ね  高橋ヲブラダ

素麺にあれもこれもと季を重ね  高橋ヲブラダ 『この一句』  句会では「よく解らない句」という人が多くて、これを取ったのは私一人だった。「あれもこれもと季を重ね」たというのは、冷素麺に思いつくままの薬味を色々掛けたのだろうと解釈して、私と同じような食いしん坊がいるなと面白がったのである。しかし、あとで読み返しているうちに、自分の解釈が合っているのかどうかが分からなくなってきた。  でもまあ、俳句は投句したら最後、読み手があれこれ解釈するのは自由勝手で、時には作者の作句意図とは違う意味合いに取られて、それが定着してしまうことさえある。ここは私の解釈で押し通すとしよう。  素麺は冠婚葬祭の膳に出される格式ある食品で、春夏秋冬時期を問わないから季語に取り立てられなかった。しかし江戸時代も末になると、夏場に冷たい井戸水で冷やした素麺をもてはやすようになり、「冷素麺」が夏の季語になった。それが今ではどこの家庭も夏場になれば至極当たり前に素麺をつるつるやるから、「素麺」だけで夏の句として扱われることになった。  それとともに自称素麺通が続出し、ネットでは変わり素麺や薬味の数々が紹介されている。刻み葱、青紫蘇、茗荷、海苔あたりは定番だが、おろし生姜、わさび、唐辛子、大根おろし、ナンプラー、白胡麻、刻みニラ、錦糸卵、梅干、明太子、シーチキンと目が回りそうだ。「季重ね」もいいところだが、素麺好きには「さて今日は何素麺にしようか」という楽しみともなる。 (水 24.08.15.)

続きを読む

三文字の暖簾くぐりて泥鰌鍋   中野 枕流

三文字の暖簾くぐりて泥鰌鍋   中野 枕流 『合評会から』(日経俳句会) 迷哲 浅草界隈に泥鰌屋が何軒かあり、暖簾に泥鰌を染め抜いている。それが夏の風にはためいて客を呼んでいるようで、そういう光景が浮かんだので頂きました。 水牛 「三文字の暖簾くぐり」っていうのが、何てったってうまいね。これで採りました。 水馬 暖簾には“どぜう”と書いてあるんでしょうね。面白い句。 阿猿 「三文字の暖簾」という表現から想像が広がる。           *       *       *  作者は「どぜう」の暖簾がかかる、浅草の「駒形」にでも入るのだろうか。鰻もめっきり高くなって、庶民には文字通り高根の花。鰻に比べれば泥鰌はまだまだ手が届く。刻み葱をたっぷり載せた鉄鍋を、箱七輪に置けばグツグツといい匂い。甘辛の泥鰌を口にふくみ、ビールや冷酒を迎え入れれば鍋のお代わり必至。ことに駒形は畳の入込みで江戸情緒をしのばせる。浅草界隈、鰻にはまる外国人客が増えたとのことだが、はたして泥鰌鍋は受け入れられるだろうか。姿そのままの「まる」はちょっと疑問符がつく。  余談が過ぎたが、この句は「鍋焼と決めて暖簾くぐり入る 西山泊雲」を思わせて食欲をそそる。泥鰌料理は「どぜう」でなければ雰囲気がでない。平仮名表記を意味する「三文字」が大いに効いている。 (葉 24.08.13.)

続きを読む