古本をメルカリに出し梅雨に入る 高橋ヲブラダ

古本をメルカリに出し梅雨に入る 高橋ヲブラダ 『合評会から』(日経俳句会) 愉里 うちの娘は、会社のフロア整理で本を全部処分するということがあり、娘は捨てられずに家に持ち帰っては、メルカリに出品したりしています。 青水 「梅雨に入る」という季語が生きていると思います。半年間の時間経過とエピソードが上手くはまっていると感じました。 水牛 家人から「一体どうするつもり」と言われています。時々、段ボールに詰めてブックオフに送っています。この句は「梅雨に入る」という季語がぴったりで、ひとまず清々したという気分が良く出ています。 光迷 古本整理は終活への一歩ですかね。それにしてもメルカリとは良い選択ですね。 可升 「出し」と「入る」がちょっとうるさいと感じました。「古本をメルカリに出す梅雨入かな」とか、動詞を一つにして欲しかったですね。           *       *       *  世はフリーマーケット全盛。メルカリやらブックオフやらに要らなくなった物を売りに出し、必要な人が購入する。SDGSの精神からいえばまことに結構なことだが、筆者は本は部屋に積んだまま。再読することはほとんどないのだがなぜか愛着があり「死んだら処分してくれ」と家族に言っている。梅雨を前にフリマできれいさっぱりしようという、いかにも当世風の句だ。 (葉 24.06.30.)

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ラムネ抜く昭和の音の響きあり  加藤 明生

ラムネ抜く昭和の音の響きあり  加藤 明生 『合評会から』(日経俳句会) 実千代 昭和生まれは昭和に弱いので頂きました(笑)。 春陽子 駄菓子屋の婆さんが皺くちゃの手でラムネの栓を抜いてくれました。あれはやはり昭和の音ですよね。昭和の響きと言い切って大成功です。 豆乳 ラムネは栓の抜き方にも、飲み方にもコツが要ります。まさに昭和の思い出。懐かしいです。 操 ラムネは昭和そのもの。懐かしさに浸る。           *       *       *  なるほどなあ「昭和の音」とはうまいなあと思った。合評会でも異口同音にこの言葉が良かったとの評。とにかく懐かしい。  ラムネは明治時代、欧米人が持ち込んだ清涼飲料水だ。英語のlemonade(レモネード)を当時の日本人の“耳から英語”で「ラムネ」と聞き覚えた名前が定着した。もともとはイギリス人が発明した、炭酸水を注ぎ込むと炭酸ガスの圧力でビー玉が持ち上がり瓶の口をふさぐ玉詰瓶がミソ。封入するのは砂糖とクエン酸とレモン香料を溶かした水で、玉詰瓶に入れて炭酸ガスを入れる。明治5年には日本人が製法を学び、ラムネ瓶を作り、大流行した。今では発祥のイギリスやアメリカではラムネ瓶を製造するメーカーが無くなり、日本の特産品になっている。それも中小企業の事業機会確保のための商品の一つに指定され、大企業がラムネを製造することは法律で禁じられているというから面白い。日本にやって来るガイジンさんたちが珍しがって大喜びしている。 (水 24.06.…

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万緑を笠に照り映え斎王代    岡松 卓也

万緑を笠に照り映え斎王代    岡松 卓也 『おかめはちもく』  斎王代とは初夏の京都を彩る葵祭のヒロインのこと。平安の昔には内親王が「斎王」として加茂神社に奉仕したが、葵祭が戦後に復興された時に、京都に縁のある未婚女性が代理として選ばれるようになったという。葵祭ではその斎王代が京都御所から下鴨神社を経由して上加茂神社まで行列する。きらびやかな衣装を着けた女官や公家に先導され、輿に乗った斎王代が進む光景は、まさに平安絵巻である。  掲句は兼題の万緑を取合せ、斎王代を描く。京都の歴史と風情を詠み込んだところが気に入って点を入れたが、他に採った人はいなかった。点が伸びなかったのは、細かい点で句にあいまいさが残ったからではなかろうか。  「照り映える」は光を受けて美しく輝くという意味の自動詞である。笠に照り映えているのは、神社の緑であろうから、助詞は主格を表す「万緑の」でなければ意味が通らない。さらに「笠」も分かりにくい。葵祭の女官や斎王代は笠を被っていない。斎王代のすぐ前を行く花が飾られた「浮流傘」か、斎王代の金属製の髪飾りを指しているとも考えられるが、はっきりしない。  わずか17音の短詩である俳句では、助詞ひとつで意味が違ってくることがある。例えば「万緑の映える花傘斎王代」とか「唐衣に万緑映える斎王代」など、葵祭の景をより分かりやすく伝える言葉を選んだほうが良かったのではないか。 (迷 24.06.26.)

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夕まずめ網うつ老父夏の川    池内 的中

夕まずめ網うつ老父夏の川    池内 的中 『季のことば』  「夏の川」は朝・昼・晩で大きく印象を変えるが、ことに夕方は趣一入である。この句について番町喜楽会6月句会の合評会では「夕暮れ迫る夏の川で投網漁の老夫の姿が浮かぶ。モノクロ景色の風情」(てる夫)、「老父と言っても矍鑠とした人物が浮かびます。夕陽を浴びて投網を打つ姿は一幅の絵です」(迷哲)、「恥ずかしながら夕まずめという言葉をはじめて知りました。夕方薄闇の中はよく釣れるのだそうですね。老父が涼をとりつつ、のんびり魚を獲っている様子の句。何だかとても良いなあと採りました」(斗詩子)と、賛辞が相次いだ。  「夕まずめ」という言葉が効いている。これは漁師や釣師が言い出して一般化した言葉だそうだが、日没前後の一時間ばかり、魚が気負い立って餌によく食いつく頃合いである。夏の夕まずめの川漁は気分が良さそうだ。  作者の言によれば、「小学校六年。父の転勤により松山で一年間過ごした時に、重信川(しげのぶがわ、愛媛県)で網をうつ老夫の姿を見た経験からこの句ができました。西日に向かって網を打っているので、後ろ姿の影しか見えないのですが、とてものどかに感じました。老夫としようか、老父にしようか考えたのですが、後姿を眺める息子(少年)を配して老父としました」。  「老夫」も誰かの父親、「老父」が自分の父親でなくとも一向に差し支えない。 (水 24.06.24.)

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老木も若木もすべて柿若葉    中村 迷哲

老木も若木もすべて柿若葉    中村 迷哲 『季のことば』  「柿若葉」も“得する季語“のひとつではなかろうか。初夏の瑞々しさがこの一語にこもっていて、多くを語る必要がないように思える。色自体が明るい薄緑で椿の葉にも似た艶があるが、椿とは逆に柔らか味がある。柿の名産地ではこの時季、家ごとの庭が柿若葉におおわれ匂うような景色であろう。むかし乗った第三セクター線の両側は柿の木を持つ家が延々と続き、若葉のいまを想像するさえ気分が晴れる。  柿の葉といえば柿の葉鮨を連想する。もとは奈良、和歌山、加賀地方などの郷土料理だが、いまや全国区並みの知名度がある。鯖、鮭、小海老やさまざまな具材と酢飯を柿の葉で包んでおり一口で頬張れる。柿の葉には殺菌作用があるうえ、香りも手伝って弁当に良し、酒のつまみに良し。柿の木は果実のみならず葉も利用できる。中国、韓国、日本特産の果樹だったのだが、現在では生産量は中国に次いでスペインが2位と聞いて驚いた。欧州では「kaki」と日本語がそのままなのも面白い。  柿若葉の気持ち良さを詠む掲句は、表面的な意味以上のものが隠されているように思うのだが……。青年が元気溌剌なのは当然のこととして、老いたる柿の木も同じように瑞々しい若葉を付けているという。人生には老いも若きもないとの寓意があると言えば穿ちすぎだろうか。 (葉 24.06.22.)

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少女らの素足のびやか夏の川  山口 斗詩子

少女らの素足のびやか夏の川  山口 斗詩子 『合評会から』(番町喜楽会) 白山 素晴らしい足だったのだろうと思います。 幻水 今の子供たちは昔と違い足長で、すらっとした足をしている。特に女の子にそれが言える。観察のこまやかさと、のびやかな素足と夏の川という、取り合わせの良さに一票。 光迷 「素足のびやか」がいいですね。いまの青少年は手足がすらっとしていて、羨ましい限り。体操やフィギュアスケートの選手が一例でしょうが、昭和世代のずんぐりむっくりとは大違い。 作者 子供たちがズボンやスカートをめくり素足をにょきっと出して川ではしゃぐ様子は、自分の子供の頃の記憶も(あんなに綺麗でのびやかだったんだなあと)呼び覚まされ、つい微笑んでしまいます。           *       *       *  少女らが夏川にじゃぶじゃぶと踏み込んで行く様子を描き、まるで自分も一緒になって、その気持ち良さを味わっているように思えてくる句だ。作者はお気の毒にこのところ足腰に不調を抱え、ご不自由なさっていらっしゃるとのことだが、上記の「自句自解」からもわかるように、明るさを失っていない。こういうのびのびとした気分の句が出て来るのを見ると、こちらもすっかり嬉しくなる。 (水 24.06.20.)

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十薬や漬物石の捨て置かれ    星川 水兎

十薬や漬物石の捨て置かれ    星川 水兎 『季のことば』  十薬がドクダミの事だとは知識としては知っていたが、俳句を始める前はあくまでも「毒だみ」というおどろおどろしい名前で認識していた。毒があるわけではなく、干して乾燥し煎じたものは、食あたりや胃腸病に効き利尿作用もあるという。また、外用薬として腫物など皮膚病にも有用とされる。日当たりの悪いジメジメした場所を好み、繁殖力が強く、地表部を摘んでも地下茎が残っていればどんどん増える。匂いが独特で嫌われる要因となっているが、葉を潰したり引き抜いたりしない限り、生えているだけでは鼻を近づけてもさして異臭はしない。6月のこの時期は、白い十文字の愛らしい花(正確には苞という葉の一種)をつける。  その日の句会で、兼題の十薬に29の出句があった。そのほとんどが「十薬の日陰ひそかに独り占め(迷哲)」や「十薬の慎ましやかに庭の隅(幻水)」などの一物仕立ての句が多かった。  掲句はその中で数少ない取り合わせの句で、十薬と漬物石(それも「捨て置かれた」)が、付かず離れず微妙に響き合っている。「捨てられた」であれば主がいない廃屋も考えられるが、「捨て置かれた」の措辞からは、単に出番がないので置きっぱなしになっている程度だと覗える。その石の周りには十薬が結構生えているのだろう。とはいえ、住人が庭の手入れをサボっているのではない。私もそうだが、花が咲いてる間は妙に抜くのを躊躇らわれるのだ。 (双 24.06.18.)

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十薬や初転勤の一軒家      田中 白山

十薬や初転勤の一軒家      田中 白山 『合評会から』(番町喜楽会) 的中 父親が転勤族だったので、引越し翌朝の雰囲気をリアルに思い出します。初転勤の社宅がとても古く、庭も手入れがされていない。そこに十薬が咲き誇っている。自分の経験に重なって、この句を採りました。 水馬 私の場合は転勤ではありませんでしたが、鹿児島県庁に入庁し、結婚して入った官舎のぼろさ加減を見てカミさんに泣かれたことを思い出しました。 百子 新しい土地での勤務と十薬、なんだか妙に合っていますね。 木葉 初転勤の住まいが古い一軒家。十薬が咲くとその思い出がよみがえる。 作者 自分の俳句は説明してはいけないと、俳句を始めた時に先生からきつく言われていましたので「自句自解」はやめときます。           *       *       *  こういう句を見せられれば誰だってその時の事情やいきさつを聞きたいと思う。こういう時こそ「自句自解」が欲しいのだが、作者は、「一旦投句した後はくだくだしい説明は不必要」というストイックな姿勢を貫く。わずか十七音字の俳句は言い足りないことがたくさんある。芭蕉ですら長い前書や俳文を連ねて一句したためている。たとえば「ものいへば唇寒し秋の風」という句などは教訓めいていて、これが俳聖と言われる人の句かと呆れるような駄句だが、これも「『ものいはでただ花をみる友もがな』(余計なことは言わずにただじっと花を見る友がほしいものよ)といふは何某鶴亀が句なり、わが草庵の座右にかきつける…

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天秤の揺れに任せて金魚売り   野田 冷峰

天秤の揺れに任せて金魚売り   野田 冷峰 『季のことば』  季語は「金魚売」である。角川俳句大歳時記によれば、金魚を入れた浅い桶を天秤棒で担ぎ、「金魚えー、金魚」と声を引いて売り歩く姿は、江戸中期以降の夏の風物詩であった。令和の今はまず見かけないが、金魚のふれ売りは明治以降、昭和まで続いたようだ。昭和40年代までは全国で千人以上の金魚売り師がいたという記事もある(2015年・週刊ポスト)。  50代以上には、幼い頃に金魚売を見たという人が結構いるのではないか。句会では「昔見た景です」(二堂)、「子どもの頃、おじさんがリヤカーを引いて売りに来てました」(朗)など、昔を思い出して採った人が多かった。  掲句が金魚売を彷彿とさせるのは、中七の「揺れに任せて」の働きにある。天秤に振り分けた桶は歩みにつれて上下左右に揺れる。上手く受け流さないと、大きく弾んで水と金魚が飛び出してしまう。揺れに逆らわず、ゆったりと声を引きながら売り歩く姿が、中七から浮かんでくる。  江戸時代は季節ごとにいろんな種類の商品を、行商人が担いで売り歩いた。夏の季語となっているものだけでも、金魚売のほか蛍売、風鈴売、水売、蚊帳売などたくさんある。江戸市民は行商のふれ声で季節の変化を知り、暮らしを営み、風情を楽しんだ。いずれも今では失われてしまったが、作者は記憶の中の光景を五七五に詠みとめ、ノスタルジーを形にして共感を得た。 (迷 24.06.14.)

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明易の夫婦は寡黙散歩道    高井 百子

明易の夫婦は寡黙散歩道    高井 百子 『季のことば』  年寄り夫婦の目覚めは早い。ことに梅雨入り前の6月初め頃の晴れた日は午前4時頃にはもうぼーっと明るくなる。日課の早朝散歩にも精が出る。こうした場面では断然、妻が主導権を握る。「さあ行きましょう」と無精を極め込む亭主を急き立てる。  この句は年寄りの多い番町喜楽会の6月例会で人気を呼んだ句だが、「早朝にご夫妻でウォーキングをされているのでしょう。散策でなく、ただ淡々と日課をこなしている感じで、寡黙という言葉が上手いと思いました」(愉里)、「私も朝早く歩いていますが夫婦二人連れはどういうわけか寡黙です」(白山)といった句評が寄せられた。そうなのだ、二人とも黙って歩いているのだ。  作者によると、「早朝散歩で目にする夫婦が二人ともいつも不機嫌そうで、ウオーキングがただの義務みたいなので」句にしたという。むっつり押し黙ったままひたすら歩むとは、端から見ればむしろ滑稽な感じに映る。  しかし、これが当然とも言える。二人とも喧嘩しているわけではなく、何か不満があるわけでもない。長年連れ添った夫婦、もう話すこともあまり無い。話さなくとも相手が何を考えているのか大概分かる。自ずから「寡黙な散歩」となるのだ。 (水 24.06.12.)

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