蜃気楼まがひの世なり愉しまん 金田 青水
蜃気楼まがひの世なり愉しまん 金田 青水
『この一句』
蜃気楼といえば、富山湾が有名だ。とりわけ魚津が出現の頻度が高い所とされる。立山連峰などからの雪解け水が注ぎ、海面と大気の温度差によって太陽光線が屈折、海上はるかに街や船などが幻視されるからだ。蜃気楼とは面白い言葉だが、元を辿れば「大蛤が気を吐いて築いた楼閣のこと」とか。砂漠に現れる幻のオアシスも蜃気楼のひとつだと。
どんなに追い駆けても手に取れない蜃気楼…。作者はこの世の中を、その蜃気楼まがいだと規定する。だったら、どうするのか。厭うのではなく、むしろ愉しもうというのだ。「人間五十年、下天の内にくらぶれば、夢幻の如くなり」という一節が頭に浮かんだが、まがいの世を楽しもうという姿勢には意表を突かれるとともに頷けるものがあった。
いまや人生は五十年どころか百年の時代。古希は何ら稀なものでなく、喜寿や傘寿も通過点のようだ。一方、政治や経済をみれば、実よりも虚というか、まがいもの横行の感が深い。最近急速に力を増しているAIなるものが、そこに拍車をかける可能性は極めて高い。世の中は蜃気楼まがいという見方が、一段と真に迫ってくる。
(光 24.05.12.)