長考の閉じては開く扇かな    廣田 可升

長考の閉じては開く扇かな    廣田 可升 『この一句』  一読して将棋の対局をよく見ている人の句であろうと思った。棋戦の対局は、昔は関係者以外は見ることが出来ず、新聞や雑誌の観戦記で様子を知るだけだった。ところが近年はテレビの専門チャンネルやインターネット動画で中継され、駒の動きはもとより棋士の動きをリアルタイムで観戦できる。  藤井八冠の登場で将棋人気はとみに高まり、各棋戦の中継は視聴率を稼いでいる。女性ファンも増え、藤井八冠がおやつにどんなスイーツを食べ、何を飲んだかまで注目を集める。中継動画を見ていると、棋士が長考に沈んだ時のしぐさや表情が面白い。腕組みをして盤面を見つめる人、天井を仰ぐ人、しきりにお茶を飲む人など様々である。  そんな長考の場では、棋士の持つ白扇の動きも目につく。顔を扇いだり、握りしめたり、掲句のように閉じたり開いたり。盤面の読みに没入している時の無意識の動きであるが故に、棋士の心理が扇に表れているように感じられる。掲句の「閉じては開く」の言い回しは、思考回路を行きつ戻りつしながら、数百手に及ぶ駒の変化を読み比べている脳内を表してるのではなかろうか。  囲碁の棋士も白扇を持つが、羽織袴で正座して対局に臨む将棋の棋士にこそふさわしいように思う。句には将棋という言葉も人物像も出てこないが、長考と扇という二つの要素を組合せることで、対局の様子を鮮やかに描き出している。 (迷 24.05.31.)

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葛餅の武骨な色も味も江戸    水口 弥生

葛餅の武骨な色も味も江戸    水口 弥生 『合評会から』(日経俳句会) 三薬 西は吉野、東は亀戸天神が代表か。東の葛餅は本物の葛じゃあないのをくず餅と言い放っている。関東の武骨な色味、良いんじゃないでしょうか。 浩志 あまり葛餅のことは知らないんで。だから逆に惹かれたというのが正直なところです。 操 葛餅が醸し出す様子が的確に表現されている。 青水 ボクは皆さんとは少し違う解釈をしました。作者は上方の人で、吉野葛を誇る上方目線で、東国・江戸の小麦粉葛餅を見ている。その辛辣な視線がピリリと利いていて、そこが気に入って頂きました。           *       *       *  江戸の葛餅は、亀戸天神、川崎大師、池上本門寺、目黒不動など寺社の精進料理の主役である麩を作る際に大量に出る小麦澱粉(正麩=しょうふ)で作った餅。正麩は糊の原料にしかならなかったのを、煮詰めているうちに水分が蒸発して固まってしまったのを食べたら食べられるということで、門前茶屋で黄粉と蜜をまぶして出したら人気を呼んで名物になった。葛粉とは全く関係ないのだが、関西の上品な葛餅にあやかって〝 僭称〟した。色は黒ずみ、饐えた匂いと酸味がする、本元の葛餅とは似ても似つかぬ食物だが、気取らない素朴な味になんとも言えない良さがある。この句はそういう江戸葛餅を「武骨な色も味も江戸」と「これこそ江戸なのよ」と開き直ったように言ったところがとても面白い。 (水 24.05.30.)

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嫉み合ふ式部と納言卯波立つ   徳永 木葉

嫉み合ふ式部と納言卯波立つ   徳永 木葉 『この一句』  日経俳句会では月例会のほかに、酔吟会という別の句会を開いている。月例会は、やむを得ない事情による欠席での投句・選句を認めていて、事前投句で参加しやすい形式でもあり毎回40人近い出句者で賑わっている。一方、酔吟会は出席者のみによる出句、清記、披講という本来の句会を踏襲していて、活き活きとしている。兼題のほか席題を設けたり、選句の中に特選句を入れたりと新趣向もあり、とても魅力的な句会だ。  席題は、結社の主宰や句会を司る指導者が出すのが普通だが、日経俳句会はあくまでも互選による和やかな句会なので、次回の席題出題者は参加者のくじ引きで決めている。5月例会の席題は「嫉妬」。「嫉み」「妬み」「焼き餅」「ジェラシー」も可だ。前回の水牛さんの席題「あっかんべー」にも度肝を抜かれたが、今回のも驚いた。あまりにも詩心を感じにくい言葉だからだ。作句には苦労したが、15分足らずの短時間で果たしてどんな句が出てくるのかと楽しみにしていたら、掲句にびっくり。NHKの大河ドラマ「光る君へ」をベースに、雅な世界を今の話題として提示したのだ。よくもまあ、即興でここまで完成度の高い句を詠んだものだと感服し、特選に推した。  ところが、作者が席題の出題者だと分かり、二度びっくり。高点を得た作者から「この句が出来たので席題を『嫉妬』にした」と種明かしをされ、三度目のびっくり。この手口、参考にはなるが、必ずしも上手くいくとは限らない。自信満々で出した句が返り討ち…

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幕あいに扇子波立つ演舞場    中村 迷哲

幕あいに扇子波立つ演舞場    中村 迷哲 『合評会から』(番町喜楽会) 春陽子 最近は冷暖房がしっかりしていて、こういう風景が少ないかもしれません。「演舞場」という言葉がぴったりはまっています。 白山 どこの劇場でも見られた懐かしい光景ですね。今は冷房が効いていて少し違うかもしれません。 愉里 幕間の瞬間を捉えていて、他の扇子の句にはない、斬新さを感じました。 満智 客席も華やかな演舞場の雰囲気が伝わります。 二堂 幕あいのざわめきをうまく表現しています。           *       *       *  たしかに、冷暖房の効いたいまの劇場では見られない光景かも知れない。しかし、前半の舞台のクライマックスを息を詰めて見ていた観客が、幕が降りたことでホッとして思わず扇子を取り出した光景は、いまでもありそうに思える。冷房の効果とは別の、芝居の熱気を冷ます効果が扇子にはあるように思う。  演舞場とは、新橋演舞場のことだろう。いまは松竹の劇場であるが、元は京都祇園の歌舞練場などに倣って建てられた花柳界の劇場らしい。「演舞場」という言葉が最後に置かれたことで、とても引き締まった雰囲気のある句になっている。 (可 24.05.27.)

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薫風に妬みそねみを吹き流し    大澤 水牛

薫風に妬みそねみを吹き流し    大澤 水牛 『合評会から』(酔吟会) 三薬 嫉妬の席題に対して、当日隅田川畔の薫風を持って来たのが、お手柄。あの風の前には嫉妬など、小せえ小せえ。ただ、下五の吹き流しが、鯉のぼりの印象が出てしまうので、やや惜しまれる。 青水 果たして季語と席題がマッチしているのかどうか。悩んだ末に、ええい、ままよと一票。自句の「夜濯ぎや嫉妬軽々流したり」と比べても、どっちもどっちだと思った。 愉里 席題の句で、「式部と納言卯波立つ」の句とこちらの二句を選んで、こちらを特選としました。嫉妬というドロドロとした言葉に、季語の薫風をつけてさらっと詠んでいるのがすごいと思いました。           *       *       *  川柳めいた席題「嫉妬」に出席者は面食らったようで、出題した筆者はにんまり。この句の肝は季語の「薫風」にあると思う。当日まさに薫風が吹く深川芭蕉記念館での句会。作者が自句自解するように、即席句に窮すれば目の前の風景をくっ付けて詠むに如かずという思いから、「薫風」と「吹き流し」に行き着いた。ドロドロした席題にさらりと、しかも軽く、気持ちの良い句になった。下五の「吹き流し」が季語名詞であり鯉のぼりの印象を持たれるとの指摘もあるが、「吹き流す」とせずあえて「吹き流し」と余韻を持たせたものとみたい。 (葉 24.05.25.)

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母の手に似る手の皺や衣替    高井 百子

母の手に似る手の皺や衣替    高井 百子 『合評会から』(日経俳句会) 青水 季語との取り合わせに無理がなく、しっくりいっています。 てる夫 母の人生に自分の来し方を重ね回想にふけった。 愉里 自分の手を眺めて、皺が出て来たなというところ辺りから母親の思い出につながって行く。この句は本当にうまいなあと思いました。 実千代 手の皺って似るんですよね。私も自分の手を見るたびに母を思い出します。衣替の季語とよく合っています。 弥生 季語との相乗効果で細かい心情が読み取れる。 健史 季語まで読み進んだとき、じわっと来ます。 三代 母もこうして衣更をしていたなあ、という思いが伝わる。 卓也 思いがけない瞬間に来し方を重ねる観察眼の細やかさ。 水馬 衣替の時の女性らしい気付きが良い感じだと思います。 豆乳 しみじみとした情感が伝わる、優しい句です。 枕流 自分の手が母と似ていることにふと気付く様子が良いなあと思いました。 芳之 お母様の記憶がふとよみがえる瞬間をうまく表現されています。           *       *       *  年取るにつれて手の皺や鏡に映る顔が亡き父母に似て来るという詠み方は沢山あり、それこそ手垢のついた詠み方なのだが、衣替と取り合わせて詠んだことによって蘇生させた。句会で圧倒的な票を集めたのもむべなるかな。 (水 24.05.24.)

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病窓に光のはねる五月かな    横井 定利

病窓に光のはねる五月かな    横井 定利  『この一句』  「病室の窓に当たる光がはねるようになってきた。ああ、五月だなあ」というこの句、「光のはねる」の措辞を賞賛する声が次々と上がった。「あまり見ない表現だけど、五月という季節がきらきら窓の外で輝いている」(迷哲)「いかにも五月です。病室にある人が見ている光の眩しさ、その喜びが心に迫る」(弥生)。「病院の暗さを跳ね飛ばしている」(三代)。「五月の陽光が窓から入って来る。退院も間近」(静舟)等々。  生老病死は人生そのものであり、俳句の重要なテーマの一つ。老いを自覚する高齢者が多い句会では、自らの来し方行く末を想い、五七五に託す作品が一定数ある。今回の句会でも以下のように揃い踏みだった。  「葉桜にわれ生まれをり幸あれと 池村実千代」(生)  「葉桜や老には老の矜恃あり 須藤光迷」(老)  「点滴の刻む命や五月闇 岡田鷹洋」(病)  「葉桜や父母兄弟みな逝きし 大沢反平」(死)  掲句は「病」の句だが、作者の気持は明るい五月の戸外へ向いていて、病気にまつわる暗さがない。静舟さんの言うように、退院が近いのかもしれない。深刻な話を明るく詠うのは難しいと思うが、この句は「五月」の季語がよく働いて爽やかだ。 (双 24.05.22.)

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初鰹シュート決めたる脹脛    谷川 水馬

初鰹シュート決めたる脹脛    谷川 水馬 『この一句』  番町喜楽会の5月の兼題である「初鰹」の選句表には、料理する様子から始まり、盛り付けた皿、地酒との取合せなど、食材としての鰹を詠んだ句がずらりと並んだ。鰹が日本人の食卓に古くから登場し、好まれてきた歴史が選句表に表れているように感じた。  そんな中で異彩を放ったのが掲句である。上五に初鰹と置いて、いきなりシュートが出てきたのには驚いた。下五の脹脛まで読み進んで、シュートを決めた筋肉隆々とした脹脛と、丸く太った縞模様の鰹の姿を取合せた句だと初めて分かった。  初鰹の句と言えば江戸時代の山口素堂の「目には青葉山郭公はつ鰹」が良く知られるが、こちらは意図的に初夏の季語を三つ重ね、瑞々しさを詠んだ句である。これに対しサッカーを取合せた掲句は飛び離れているように見えるが、鰹の姿と選手の脹脛を思い浮かべると、イメージは重なってくる。「シュート決めたる」の中七が、鰹からいったん意識を遠ざけた上で、下五で脹脛の画像に落着させる。なぞなぞ風の句の展開も工夫されている。  鰹は生まれてから死ぬまで泳ぎ続ける。体の組成を見ると、水分を除くと大半がタンパク質であり、いわば全身を筋肉として大海原を群遊している。サッカー選手も練習・試合と四六時中ピッチを走り回っている。太ももや脹脛は筋肉が盛り上がり、弾丸シュートを生み出す。近年はたくさんの日本人選手がサッカーの本場のヨーロッパや南米のチームで大活躍している。足の筋肉を頼りに世界を駆けまわるその姿は、…

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若葉風監視カメラの見え隠れ  玉田 春陽子

若葉風監視カメラの見え隠れ  玉田 春陽子 『この一句』  若葉、若葉風、柿若葉、若葉雨と、初夏の清々しさを表す季語として気分がいい。「若葉して御めの雫ぬぐはばや」「ざぶざぶと白壁洗ふわか葉かな」――それぞれ芭蕉、一茶の句は句想こそ違え、この時季の余情を若葉にゆだねた感じがする。雨の中の若葉もわびしさ、暗さを想起させず五月の瑞々しさを感じる。  この瑞々しい若葉風に「監視カメラ」という物騒な物をぶつけたのがこの句だ。中国、ロシアなど独裁国家の専売特許と思っていた監視カメラだが、いつのまにか我が日本の街中をカバーし始めた。多くは「防犯カメラ」と名を変えていて、犯罪解決の強力な武器となっている。加えて、あらゆる車にドライブレコーダーが搭載される時代になったため、犯罪者が逃げ遂せる確率は極めて少なくなった。最近の事件では、デパートから純金茶碗を盗んだ犯人の足取りはすべて掴まれていたという。悪事はできないものだと思えば街中のカメラの効用は大きい。ただ、独裁国家のように国民を監視する用法だけは御免蒙りたい。  あらためて「若葉風のなかの監視カメラ」。公園か並木道か、心地よい風を感じてふと見上げると、樹間からくだんのカメラが目についた。誰かに監視されているようで気持ちいいものではない。若葉風の「正」と監視カメラの「負」、十分計算された一句と思う。 (葉 24.05.19.)

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香ぐはしき扇の微風隣りより   前島 幻水

香ぐはしき扇の微風隣りより   前島 幻水 『合評会から』(番町喜楽会) 可升 「隣りより扇子の風のおすそ分け」という句を作ったのですが、4月の連句の会に「隣りよりたけのこ飯のおすそ分け」という句が出たので引っ込めました。こちらの句の方がずっといいので、出さなくて良かったと思っています。 双歩 電車とかで、品の良さそうなおばさまの隣だと確かにありそうですね。(原句の「香ぐわしき」の表記に対して)「かぐはしき」もしくは「香しき」ならもっと良かった。 百子 そんなことってありますよね。お隣のご婦人が使う扇子の風に乗って白檀?の香りがすうーっと。繊細な景ですね。           *       *       *  とても感じのいい句だ。ただ双歩さんご指摘の通り、こういう古風な言葉の場合は、「香ぐわしき」ではなく、旧仮名で「香ぐはしき」にした方がいいなあと思ったら、作者も「実は投句してから「は」にした方が良かったと後悔しました。「香ぐはしき」に改めます」と言って掲句の形になった。今や文語・旧仮名にこだわらなくてもいいのではないかという意見が多くなっている。確かに時事を詠んだり、カタカナ語の出る句では現代仮名遣いの方がすっきりする。一方、こうした優雅な句の場合は文語旧仮名が似合う。「や」「かな」「けり」など切字を用いた句も旧仮名の方がいい。しばらくは新旧併存で行くことになろう。ただし、一句の中で「新旧仮名遣いごちゃ混ぜ」だけはやめてほしい。 (水 24.05.18.)

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