ぶらんこや静かなゆらぎやみの中 久保 道子
ぶらんこや静かなゆらぎやみの中 久保 道子
『この一句』
作者は合評会で「黒沢明監督の『生きる』を思い浮かべて詠みました。『ゴンドラの唄』が耳に残っています」と述べていたが、まさにあの名画の志村喬が浮かんで来る。ただ私にはあの名画はさて置き、「闇夜のブランコ」に妙に惹かれるところがあり、この句を見るなり二重丸を付けた。私も駆け出し記者の昭和三十年代半ば、深夜、家の下の公園のぶらんこで息を整えてから家に帰るのが慣いだったのだ。
何か事件が起こると、捜査担当者や、鍵を握っている人物の自宅に毎晩押し掛けてはあれこれ聞き出そうとする。これを「夜討」という。しかし、先方には守秘義務があるから喋ることはできない。だから夜討は概ね成果なしで終わる。翌晩もまたその翌晩もそれを繰り返す。
そのうちに「あんたも大変だなあ、そうして毎晩通って来て」などと言われたら効き目が現れた証拠。自分なりに調べて組み立てた仮説を物言わぬ仏像にお経を唱えるように一方的に喋る。「そりゃ面白い話だね」と言われているうちは核心を突いていない。相手がむっつり黙ってしまったら脈がある。そこでキーポイントの質問を次々にぶつける。そして、「何某、明日参考人として引きますか」。相手はイエス・ノーを言えないから、表情を窺う。黙っていれば「イエス」だ。
しかしここまで漕ぎ着けるのは並大抵ではない。大概は空振りで、真っ暗闇の公園のブランコに座り、他社のライバルが何か掴んでいはしないかなどと疑心暗鬼に苛まれる。しかし、ぶらんこにゆっ…