病む身には痛き色なり紅つつじ  藤野十三妹

病む身には痛き色なり紅つつじ  藤野十三妹 『この一句』  「療養俳句」と呼ばれるジャンルがある。戦後まもなく、結核病棟に病む俳人が詠んだ一連の句がそうだという。ストレプトマイシンという結核特効薬が、まだ国内に浸透しきっていないころのことである。石田波郷を代表に野澤節子、石橋秀野、岸田稚魚らの俳人の名を上げられる。波郷はとくに『借命』の名の句集を出している。「綿虫やそこは屍の出行く門」を詠み、節子は「冬の日や臥して見あぐる琴の丈」、秀野は「短夜の看護り給ふも縁かな」など、琴線に触れる句を残す。またハンセン病の村越化石もいて、閉ざされた空間での長期療養生活は、俳人たちに病床俳句への大きな動機付けとなっていたようだ。  掲句の作者はもちろん結核ではないだろう。現在軽くないという病気を患っていると聞く。外見は蒲柳の質のようだから丈夫の人とは言えない。まして三、四年前に連れ添った夫を亡くされ独り身なので、病気の毎日はもの想う時間が多いことだろう。目の前に燃えるような紅つつじを見たとき、心身ともに健康な人のようにただ一途に「美しい」と感動に浸れない。燃え盛る紅色が今の自分には目に痛い。目に痛いだけではない、病身かつ孤独の身には心の奥まで真紅が突き刺さるという。「病む身には痛き色なり」とは、目にも心にも刺激がちょっと強すぎると言いつつ、紅つつじ自体を忌避しているわけではない。紅つつじの本来の美を、常ならぬ身ながら賛美しているのだ。 (葉 24.04.30.)

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満開の桜車内をどよめかす    植村 方円

満開の桜車内をどよめかす    植村 方円 『合評会から』(日経俳句会) 双歩 車窓から突然に桜が目に入った瞬間のどよめきが聞こえてきそうです。特急とか速い電車は無理でしょうが、なかなかリアルだなと思いました。 三代 満開の桜を間近に電車が走るときのざわめき。あるあるです。 早苗 桜をスターのようにとらえた表現が面白いです。 百子 沈黙集団の車内。車窓に広がる桜に皆感動して皆声を上げたのですね。満開の桜は人々の感性を呼び起こします。 十三妹 (歩くのが難儀で)長いこと電車やバスに乗ることがないので、その光景が羨ましい。 戸無広 桜のトンネルに差し掛かったときの車内の様子、動きが感じられます。           *       *      *  ローカル線では、沿線の菜の花や紫陽花、紅葉などが魅力の観光名所が多い。桜もその一つ。満開の桜のトンネルの中を一、二両編成の電車がトコトコ走る光景が目に浮かぶ。旅雑誌の表紙などで見たことがある。そんな車内では、乗客は期待している分、桜が車窓に映ると「おーっ」と歓声が上がるに違いない。いかにもありそうなシーンを上手く掬い取った句と評価した。  一方、水牛さんは「満開の桜と言っておいて、車内をどよめかすと続けるのは、どうも叙述的に繋ぎが悪い」と言い、「誰かが桜の枝を電車内に持ち込んだのかと思った」そうだ。言われてみれば、そうかそんな捉え方もあるのかと気付かされた。短詩型の俳句では、言いたいことが正しく伝わるとは限らない。とはいえ、作…

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会いたいと言うだけの人春の塵  斉山 満智

会いたいと言うだけの人春の塵  斉山 満智 『この一句』  一読して「こんな奴いるいる」と大笑いしながら点を入れた。「今度ぜひ会いましょう」などと言うだけの口先男の軽さと、春の風に舞い上がる塵がマッチして、諧謔味漂う句となっている。4月の番町喜楽会で最高点句のひとつとなり、我が意を得た思いだった。  春は風の強い日が多く、とかく埃や塵が立ちやすいので「春の塵」は、わざわざ季語に立てられている。春一番から始まって、東風、涅槃西、春疾風など春の風に関する季語は多い。それに伴って舞い上がる塵もさまざま目にすることになり、中にはモンゴルの砂漠から飛来する黄砂などという傍迷惑なものまである。  句会では「この語順だと、言うだけの人が春の塵だと悪口を言っているように読める」との意見が出た。「春塵や」と上五に持ってきて、句に切れを入れてはどうかとの案も示された。しかし人と塵の間を切ると、関係性が遠くなりすぎて、諧謔味が薄れるように思う。  むしろ作者は「言うだけの人」は春の塵のように軽い存在だと言いたいのではなかろうか。それは悪口というより、相手にしないという姿勢である。コロナ籠もりで人と行き来できない時期が数年続いた。コロナが明けた今、「久しぶりに会おうよ」という言葉の重みを改めて感じている。 (迷 24.04.27.)

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甘き蜜吸いつつ登るつつじ坂   斉藤 早苗

甘き蜜吸いつつ登るつつじ坂   斉藤 早苗 『この一句』  そうそう、私も子供の頃よくやったものだ。ラッパ型の躑躅の花を元のところから抜いて、ちゅうちゅう吸うと甘い蜜の味がする。4月になると公園にはツツジが満開、学校へ通う道筋にもたくさん咲いているから子供たちは大喜びだ。  この句の作者は大人になってもまだやっているのかな。「つつじ坂」というのは固有名詞なのか、散歩道に命名したものなのか、とにかく道の両側にツツジが咲き乱れる魅力的な坂道に違いない。童心にかえって花弁をつまみ、足取りも軽く坂を登っている作者の姿が思い浮かぶ。とても楽しい句だ。  しかし、御用心。躑躅には有毒のものがあるのだ。道路脇や公園に植えられているオオムラサキという紅紫色の大きな花を咲かせるツツジは大丈夫だが、朱色あるいは濃いピンク色のレンゲツツジは花や蜜にグラヤノトキシンという毒を持っている。この蜜を吸うと吐き気や下痢、目まい、けいれんを起こす。シャクナゲやアセビなど同じツツジ科の花木も有毒だ。  花の一つや二つ吸ったところですぐに死ぬようなことはないが、危険なことは確かだ。レンゲツツジやシャクナゲは公園に植栽されていることも多く、素人目にはどれがオオムラサキでどれがレンゲツツジか判断のつきかねる場合もあろう。まあ躑躅は眺めて楽しむだけにして「蜜吸い」は止めておいた方が無難だ。 (水 24.04.25.)

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眠る子のズシリと腕に花疲れ   嵐田 双歩

眠る子のズシリと腕に花疲れ   嵐田 双歩 『合評会から』(日経俳句会) 方円 花見をしていて、子を抱っこしながら詠んだのでしょう。確かに小さい子は寝ると、ズシリと急に重くなる。親も疲れると思います。花疲れと物理的な重さの疲れの両方を上手く取り合わせたと思います。 水牛 お花見の夕方の感じがよく出ている。おそらく三つ四つの子でしょう。明るいうちはキャーキャー言って走り回っていたのが、くたびれ果てて抱っこをせがむ。抱っこしてやるとすぐ寝ちゃって、親の方も疲れているのになぁという、そんな感じがね。伝わってきていい句です。 静舟 幼子のぐっすり身体に引っ付いて眠れる姿は愛しいが、こちらも汗ばんで腕も限界となる。鍛えられました。 操 花のシーズンによく見かける情景。大人をよそに子はすやすや夢の中。           *       *       *  各地の花の名所に久しぶり、インバウンド客も押しかけあふれかえった今年。そもそも花見は楽しさの反面、終始疲れるもの。まして小さな子を連れて雑踏に分け入れようものなら苦労は絶えない。子がはしゃぎ過ぎの末に眠ってしまえば背負うか抱くか、親はその重さに疲れがどっと出る。作者一家往年の花見を詠んだ句だ。「ズシリと腕に」の中七に、子への愛情と本人の悲哀がこもっている。「花疲れ」のファミリー版として納得できる句である。 (葉 24.04.24.)

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ベース弾かば蝶迷ひ出る山躑躅  岡松 卓也

ベース弾かば蝶迷ひ出る山躑躅  岡松 卓也 『この一句』  ツツジは日本全国至る所の山々に自生し、都会では車歩道の境界や公園に植えられ、晩春から初夏、人々の目を楽しませてくれる。中でももっとも見慣れたツツジが「大紫」ときには「大盃」とも呼ばれる大輪の紅紫の花を咲かせるものだ。これは排気ガスにも強いから交通量の多い国道県道など大きな道の端に植えられている。丈夫で、少々踏まれても、犬に小便をかけられても耐える健気な花木である。あまりにもありふれているからか、さほど有難がられないが、外国人観光客は「日本では車道の脇にも美しい花が咲いているのだ」と感激する。  もう一つの役者がヤマツツジ(山躑躅)。これは日本の野生ツツジの代表で、朱色がかった赤色の花をたくさんつけるので、園芸品種にも改良され全国各地の有名庭園を彩っている。小山のように盛り上がって咲き誇る姿は圧巻である。  この句はそんな山躑躅のこんもり茂った芝生の庭園で繰り広げられているジャムセッションの一場面を詠んだものではなかろうか。ベースのズンズンという響きに、背後の山躑躅から蝶々がふわふわ浮かんできたというのである。  そういえば、ツツジの漢字は今時十人中九人は書けないだろう「躑躅」。この「躑(てき)」も「躅(ちょく)」も「つまづく」とか「立ち止まる」という意味。植え込みいっぱいに咲いたツツジはそれこそ楊貴妃をも引き止める力がある。これにベースの音が加われば蝶々も蜜を吸うのを忘れてしまうだろう。 (水 24.04.22.)

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ようそろと介護の決意暮の春   高井 百子

ようそろと介護の決意暮の春   高井 百子 『合評会から』(番町喜楽会) 満智 方向をしっかり見定めながらの気負いのない決意が感じられます。 光迷 介護は、単に手間が掛かるだけでなく、心の負担も大きいものです。それに正面から向き合おうとされることに頭が下がります。 てる夫 親戚の古老が癌検査で入院した。縁者が対応に大童。準備することがいっぱいあって大変なんです。大袈裟ではなく、決意、決断の時。 水牛 「ようそろ」は航海用語で、船が所定の針路に向かったとき、そのまま真っ直ぐ進めという命令を表す言葉です。この場合、マッチしているのかなぁ。           *       *       *  「日本は高齢化先進国」などといわれるが、介護保険に老老介護など、介護を巡る難問が山積している。それはともかく、合評会での発言から推測すれば、検査入院した古老の面倒をしっかり見ようという周りの人々の姿勢が窺え、一安心の気分にさせられた。「ようそろ」の使い方だが、下手に右往左往したりせず、物事を真正面から受け止めることの表現と理解し、これで良いのではないか。「五月晴れ」や「氷雨」など、誤用まがいでも世の中に定着した例もあるし。 (光 24.04.21.)

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海砂を掻いて浅蜊の夢破る    中沢 豆乳

海砂を掻いて浅蜊の夢破る    中沢 豆乳 『合評会から』(日経俳句会) 三代 浅蜊の夢を破るっていうのが良いなあと思って頂きました。のんびり寝てたのに引っ掻かれた。潮干狩の風景を素敵な言葉で表現している。 鷹洋 ユーモラスです。浅蜊が寝てたっていう想定なんでしょう。浅蜊の夢を破ったという大変面白い詠み方なので、頂きました。 水兎 蜃気楼は蛤の夢、みたいな句ですね。浅蜊だと水鳥の羽ばたきで消えてしまうくらいの小さな蜃気楼でしょうか。 水馬 擬人法はあまり採らないのですが、メルヘンチックでユーモラスなので。 芳之 浅蜊にとっては災難という視点が面白い。 健史 もののあわれを感じます。 阿猿 のんびりと春の砂浜で居眠りをしている浅利を熊手でガリガリとほじくり出す。長閑なような、残酷なような。 三薬 海砂なんですが、これは土木用語です。だから「海の砂」とするか、「遠浅を掻いて」などがよかったな。           *       *       *  東京湾のハマグリやアサリは今や絶滅と言っていいくらいで、とても潮干狩のできる状況ではない。しょうがないから中国や韓国から輸入したものを砂浜にばらまいて、潮干狩のお客さんを呼ぶ。遥々と空を飛んできたアサリはようやく日本の砂浜にもぐり込み、まどろんだと思ったらいきなりガリガリやられ、「かんべんしてよ」とぶつぶつ言っている。 (水 24.04.19.)

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葛西から千葉の煙突蜃気楼    田中 白山

葛西から千葉の煙突蜃気楼    田中 白山 『季のことば』  蜃気楼を辞書で引くと、熱気・冷気による光の屈折異常で、空中や地平線近くに遠方の風物などが見える現象とある。水牛歳時記によれば、昔の中国人は、海中に棲む大蛤(蜃)が吐き出す息で空中に楼台を現すと考えて、蜃気楼と名付けた。海の上に浮かぶ街「海市(かいし)」という別名もある。日本では富山湾の蜃気楼が有名である。春によく起る現象なので、春の季語となっている。 4月の番町喜楽会の兼題となったが、蜃気楼を実見した人はほとんどおらず、皆さん句作に苦労したようだ。せいぜいテレビニュースで見るぐらいなので、どうしても想像を交えた句となりがちである。その中で掲句には、実際に見て詠んだと思わせるリアリティーを感じて点を入れた。  句に現実感を与えているのは地名(固有名詞)効果である。「葛西から」と立脚点が明確で、そこから東京湾越しに千葉の工場地帯を眺めれば、確かに煙突が浮かぶ光景が見えるだろうと思わせる。さらに煙突が見えたという事実だけを、投げ出すように詠んでいる句調からは、余計な情感を交えずに、見たままを伝えようという意思を感じる。  「東京湾・蜃気楼」でネット検索するとたくさんの画像が現れる。タンカーやコンテナ船が多いが、水平線上に浮かぶ製鉄所の高炉や煙突もあった。葛西に住んでいる作者は、よく臨海公園あたりを散策されるのであろう。東京湾の向こう側は君津市である。春の晴れた日に、海上に揺らぐ煙突を見つけた驚きが伝わって来る。 (迷 24…

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光降るこの道白き花水木     水口 弥生

光降るこの道白き花水木     水口 弥生 『合評会から』(日経俳句会) ヲブラダ 花水木の白を強調する句がいくつかありましたが「光降る」とは。 静舟 花水木の並木道はお天気の良い日は、まさに光り輝く道となる。 水馬 花水木の咲いている道はとても明るいです。春らしい句。 戸無広 光との調和がよく表現されています。           *       *      *  この句は句会で四点も取ったのだから、人の心をつかむ何物かを備えていることは確かだ。しかし、この句には「道が白いのか、白い光が降るのか、分かりにくい」という疑問が呈された。  この句は「光降る」で切れて「この道白き花水木」と続くのか、あるいは「光降るこの道」と続き「白き花水木」という句またがりの二句一章の俳句なのか。前者だとすると「この道」で一旦小休止するいわゆる三段切れになって、まとまりに欠けてしまう。やはり、後者のとてもユニークな詠み方と受取るべきだろうか。おそらく作者はこれによって「光降る」を強調したかったのだと思う。  しかし、そうすると今度は「白き花水木」というのがどうかということになる。花水木にはピンク系もあるが元来は白い花なのだから、わざわざ「白き」と断らなくてもいいのではという疑問である。  「光降る」で十分なのだから「白き」などとせず、たとえば「光降る公園通り花水木」でいいのではないかと思った。しかしこれまたなんとなく物足りない。「光降るこの道白し花水木」とするか、「光降る白きこの道」とす…

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