羽子板に二刀流あり八冠も    須藤 光迷

羽子板に二刀流あり八冠も    須藤 光迷 『季のことば』  追羽根を突いている正月の景色を見なくなって、どれくらいになるだろうか。少なくとも昭和四十年代にはたしかにあった気がする。そもそも寒中の外遊びは、ことに女の子には稀になった。男の子の凧揚げはまだ見ることが出来る。だが東京や近郊の都市部では凧揚げをする場所すらない。荒川や多摩川の河川敷で大空に舞う凧がやっと見られるのみ。子供たちはマンションの暖かい部屋でもっぱらゲームに没頭する。家族そろっての双六や歌留多取りも早晩昔語りになってしまうのでは、とは要らぬ心配だろうか。  追羽根はすっかり廃れ羽子板の生産量も相当落ちていると思うのだが、浅草・浅草寺の羽子板市はいぜん師走の風物詩として賑わっている。その年の人気者が羽子板絵の主役となりテレビニュースで紹介される。だいたい当たり障りのないスポーツ選手、歌舞伎役者や芸能人が選ばれるが、党派性や醜聞がネックになる政治家は敬遠されるのが通例。二〇二三年スポーツ界の活躍者と言えば、いの一番に大谷翔平選手。三十八年ぶりの日本一を導いた阪神岡田監督も挙げられるが、一番人気には役者不足。ほかの世界からは、なんといっても空前の将棋八冠を達成した藤井聡太名人だ。  「羽子板」の季題に、句友の投句は羽子板の絵柄や思い出を詠んだものが多かった。なかで掲句はまさに今年の特徴を淡々と表現して最高点を得た。外連味も小手先の技法ない句の強みと言えそうだ。 (葉 24.01.31.)

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日の出待つ西に溶けゆく去年の月 金田 青水

日の出待つ西に溶けゆく去年の月 金田 青水 『合評会から』(酔吟会) 愉里 きれいで格調の高い句で、お正月に相応しい句だと思っていただきました。 鷹洋 「月は東に日は西に」はどこかで聞いた文句ですが、去年から今年に移り変わることを、情景描写として捉えた句だと思います。 双歩 この句の清記をしながら、すぐにマルをつけました。特選にしてもいいような句だと思いました。「日の出」とは「初日の出」のことだと思うのですが、俳句らしくてとてもいい句ですね。 青水(作者) 毎朝行っているラジオ体操の時の実景句です。いつもは年寄りばかりですが、元日の朝は若い人も大勢集まります。           *       *       *  「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」を巧く取り込んで、兼題である「去年(こぞ)」という新年の季語をうたう句に仕立て上げた。考え抜いた周到な句でありながら、「こしらえごと」の不自然さを感じさせない。評者が口々に褒めそやす言葉が素直に受け取れる素晴らしい新年詠だ。 (水 24.01.30.)

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この爺に良縁ありと初御籤   玉田 春陽子

この爺に良縁ありと初御籤   玉田 春陽子 『合評会から』(日経俳句会) 青水 自虐とも諧謔ともいえる句。「初御籤」でまとめたところがいいですね。 水馬 やる気にあふれていてよろしいのではないでしょうか。すごく愉快な句です。 鷹洋 ほとんどギャグに近いような句ですね。二百円くらいで籤を引いたらこんなのが出てきたのでしょう。作者の気持になって、笑って採りました。 てる夫 爺さんに良縁とはどういうことでしょうか。想像がつきません。やもめの爺さんを娘が慰めているのでしょうか。 水牛 御御籤は万人向けに何でも書いてあります。よくある光景だが面白い。           *       *       *  おみくじは引く人を選ばない。社寺の〝営業妨害〟をするわけじゃないが、万人に合うようなご託宣が書かれているばかりで、ほとんど当たり障りがない。それはおいて、作者はかなり良いくじを引き当てたとみえる。今年は「良縁あり」と。苦笑いしている八十路の作者の顔が目に見えるようだ。俳句達人としてすかさず一句をものにする。これぞ俳味たっぷりの掲句である。新年初句会を笑いで盛り上げた手腕は確かだ。  ちなみに筆者は社寺には参拝するが、おみくじを引かないことにしている。大吉が出てもアンラッキーがあれば運気消滅。数少ないだろうが大凶を引けば引かなければよかったと後悔。引かなければ世は何事もなし。 (葉 24.01.28.)

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揺れる地や息白き人立ち尽くす  中村 迷哲

揺れる地や息白き人立ち尽くす  中村 迷哲 『合評会から』(日経俳句会) 雀九 能登の地震のことだろうと思ったんですが、息白しなんて最近見たこともない。ただテレビの映像で見ていると、あそこは確かに息が白いだろうなあ、と。 弥生 この息白しは辛くて心に沁みました。 豆乳 叔母が金沢の隣の津幡町で被災して、金沢の長男のマンションにいます。寒さがこたえるそうです。 卓也 脱帽。同趣旨で作った当方の句は遠く及ばず。 三薬 あの時、テレビをずっと見てたんだけど。当日の現場の映像はほとんどない。揺れて立ち尽くす人、なんて映像では全然見ていない。だからこれは後で作った、という感じがしますね。 双歩 揺れる地や、で切れてるでしょ。ですからこの描写は元日とは限らない。大きな余震もしょっちゅう起きているし、ずっと揺れている。 迷哲(作者) 能登では大きな余震が続いています。輪島の焼け跡で、茫然としている人の映像の印象が強烈でしたので。それを詠みました。           *       *       *  元日の能登大地震。呆然と、絶句しちゃっているところをうまく詠んだ。ただ「立ち尽くす人息白し」とやった方が口調が良くなるなと思いながら、しかし、このぼつぼつと切れた感じが良いな、やはりこれかなと思い直した。 (水 24.01.27.)

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火の用心目白御殿の今むかし   杉山 三薬

火の用心目白御殿の今むかし   杉山 三薬 『この一句』  1月8日に目白の旧田中角栄邸が全焼した事件を、軽妙に詠んだ時事句である。火元は1階の仏壇付近で、娘の真紀子さんがあげた線香が原因とみられている。そこで選んだ季語が「火の用心」。歳時記を見ると冬の季語に「火事」や「火の番」があり、火の用心も火の番の傍題として載っている。事件の経緯を踏まえた、機知に富んだ季語の選択といえる。  旧角栄邸は目白御殿と呼ばれ、本人健在の頃は政治の舞台となってきた。正月には千人近い年始客が詰めかけて賑わったが、あるじ亡き後は無人となり、隣に住む娘夫妻が管理していたという。火事を伝えるテレビでは、全盛期の角栄氏と屋敷の映像が繰り返し流れていた。昭和史の舞台の一つが火事で消え去った出来事は、まさに栄枯盛衰を感じさせる。作者は「今むかし」の五音にそうした感慨を込めたのであろう。  この句が出された句会が開かれたのは1月17日。目白御殿の火事は人々の記憶に鮮明で、高点を得た。時事句はタイムリーであればあるほど強い印象を残すが、その分賞味期限は短くなる。内外のニュースが溢れ返る時代、半年もすれば事件の記憶は薄れ、句の意味が通じなくなる可能性がある。しかし〝旬〟のニュースを句に詠みとめようとする作者の姿勢は、俳句の可能性を広げるものであり、そのチャレンジ精神を買いたい。 (迷 24.01.26.)

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川縁に鴨の寄り来る小名木川   嵐田 双歩

川縁に鴨の寄り来る小名木川   嵐田 双歩 『合評会から』(酔吟会) 道子 よくテレビなどで見る、川に向かって鴨が歩く風景を思い出して採りました。 愉里 これも席題の句ですね。まさにこの場所(深川・森下文化センター)は小名木川の近くで、あいさつの要素も踏まえ、ひらめきの良さで詠まれた句という気がします。 百子 我が家の近くのため池にも鴨がたくさん来ていて、詠もうとしたのですがうまく詠めなかった経験があります。「小名木川」は五文字でうまくはまりましたが、「ため池」だと字足らずで困りました(笑)。 可升 挨拶句ですね。のらくろロード商店街を詠んだ句もありましたが、この会場をセッティングした身としては、やはり挨拶句は採らないといけないと思いました。上手で、とてもきれいな句だと思います。           *       *       *  席題は「縁」。「えん、えにし」でも「ふち、へり」でも可ということで、この句は「川縁」と詠んでいる。とにかくご近所の小名木川をすっと持ってきたところがいい。作者は少し早く来たので、小名木川の川べりを散歩した。餌をくれると思ったのか鴨が二羽寄って来た。会場に来てみると席題が「縁」というので、早速「川べり」の句が成った。だてにブラブラ歩いているのではないことを証明した。 (水 24.01.25.)

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ベランダのセリを加えて七草粥  澤井 二堂

ベランダのセリを加えて七草粥  澤井 二堂 『季のことば』    「七草粥」は正月七日に、七種の若菜を入れた粥を食べる風習のこと。邪気を払い万病を除くといわれる。七草は、芹(せり)、薺(なずな)、御形・五行(ごぎょう=母子草)、繁縷(はこべら)、仏の座(ほとけのざ)、菘(すずな=蕪)、蘿蔔(すずしろ=大根)が一般的だ。前日の夜、まな板に乗せた七草を「七草なずな唐土の鳥が日本の土地に渡らぬ先に、七草なずな……」と唱えながら包丁で叩き、七日の朝に備えるそうだ。この辺の事情は、今も実践しているという水牛さんの「水牛歳時記」に詳しい。  掲句の作者は「人日」の七日、ベランダで栽培しているセリを抜いてきて粥に投じたという。まるで日記の一行のような叙述だ。それだけに何のひねりも加えてなく、肩の力がすっと抜けて、実に素直な好感度の高い句に仕上がった。長いこと五七五に勤しんでいると、時にこんな無欲の句が生まれることがある。ウケを狙ったり、得点を期待したりといった邪心が入ると、自ずから露見して読者にそっぽを向かれる。こういう素直な句に出会うと、自戒の念に駆られてしまう。  ちなみに「ベランダ」は「露台」という夏の季語の傍題で、テラスやバルコニーも同じ。また「セリ」は春の季語だが、季重なりは全く気にならない。強いて言えば、一句にカタカナが二つ以上入るのは良くないとされ、「芹」と漢字を使いたかった。 (双 24.01.24.)

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変らぬは分断社会去年今年    徳永 木葉

変らぬは分断社会去年今年    徳永 木葉 『合評会から』(酔吟会) 青水 「核の冬破滅の縁にある地球」という同じ作者の句もありましたが、俳句に「分断社会」という言葉を持ち込み、しかも「去年今年」にぶつけて成功していると思い、こちらを特選にしました。 愉里 「去年今年」といえば、虚子の「貫く棒の如きもの」を思い出します。それに対し、あえて「分断」という言葉を当てたのが、うまいなと思いました。 光迷 いまの世の中は分断社会そのものですね。身近なところでは銀行の振込手数料で、窓口だと九百円以上とられるのに、ネットでやれば二百円ちょっと。いわばITリテラシーによる分断です。他にも大小いろいろありますね。           *       *       *  分断社会については米国の大統領選挙などでもよく議論される。日本でも様々な局面で分断が表面化している。移動や買い物を巡っての難民もその範疇に入るだろう。少子化に関連した子供を産める家庭、産めない家庭という問題も。これは生殖能力ではなく「出産費用・教育費用を考えると子供は…」と躊躇し、見送る夫婦の多いことだ。強者・弱者で済む話ではない。政治の貧困ここに極まれり、ではないか。 (光 24.01.23.)

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にょろにょろと歯磨チューブ去年今年 大澤水牛

にょろにょろと歯磨チューブ去年今年 大澤水牛 『季のことば』  「去年今年」。われら俳句凡人には何とも手に負えないような季語である。去年今年と聞けば、まず虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」の名句中の名句が条件反射のごとく浮かんで来る。あえて私見を言えば、これを超える去年今年句を見つけるのは無理ではないか。なるほど、去る年と来る年になんの違いがあるものかと、開き直りのような感懐の裏側に形而上的な意味をも込めているとも言えそうだ。終戦からさほど遠くない昭和二十五年十二月の作であるのが意味深い。山本健吉によれば「的確なものをつかんで、大胆にずばりと言ってのけたところがよい。老虚子快心の作であろう」。  掲句である。朝か夜か聞き洩らしたが、作者は歯を磨こうとチューブを押したら、歯磨き剤がにょろにょろと出て来たという。アルコールが多少入っていて手元が狂ったのか、にょろにょろと出て来たのは明らかに出し過ぎである。しかし作者はすかさず一月句会の兼題「去年今年」を思い浮かべ、俳味のある一句を仕上げた。  筆者は虚子句と好一対をなすとみて一票を入れた。第一に当然である「硬い棒」と柔らかな「歯磨き剤」の硬軟の差が面白い。さらに一見形而上的な「棒の如きもの」に対し、目の前に厳然と「にょろにょろ」とある歯磨き剤の姿が対比の妙といえる。虚子の句を可視化したのがこの句であるとみたのだ。 (葉 24.01.22.)

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積ン読の二冊減りたる松の内   須藤 光迷

積ン読の二冊減りたる松の内   須藤 光迷 『この一句』  「積ン読」という表記は珍しい。通常は「積読」「積ん読」などと書き表されることが多い。大澤水牛氏によれば、漢籍などによく見られる表記らしい。表記は別として、この言葉そのものもなんだか変である。最近作られた新語かと思って調べると、けっこう歴史は古く、1933年発行の広辞苑第一版にはすでに「書物を読まずに積んでおくこと」の語釈とともに掲載されている。さらに調べてみると、明治時代の早い頃から、「つんどく者」「つんどく家」「つんどく先生」などという用法で使われていたようである。  「積ン読」の山がなかなか減らないことを嘆く読書人は多い。理由は簡単である。「積ン読」を減らすことより、新刊書に飛びつくことが多かったり、あるいは、書店や古書店に入ると何か買わずには出て来られない、つまり、減らないのではなく、減るよりも増える方が多いからであり、ほとんどのケースが自業自得である。  この句の良さは「二冊減りたる」と具体的に詠んだことにあるとの指摘があった。そのとおりだと思う。もう一つの良さは、「積ン読」の表記と、「松の内」の季語が相まって醸し出す、戯作のようなのんびりした味わいではないだろうか。松の内の静寂の中、炬燵に潜り込むなどして、好きな本がゆったり読めるのは幸福な時間に違いない。それにしても、作者は「二冊も」読めたのか、「二冊しか」読めなかったのか、それが問題である。 (可 24.01.20.)

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