この年の傷を浸して柚子湯かな  徳永 木葉

この年の傷を浸して柚子湯かな  徳永 木葉 『この一句』  作者は今年初め、突然難病に襲われた。外出(特に夜間の)が難儀になり、句会や吟行に参加しにくくなった。それでも先日行われた納めの句会には元気な姿を見せ、みんなを安堵させた。  掲句は、その席上で高点を得た一句。「傷」とは作者の気持ち、心の傷だ。この一年、何とか病と折り合いをつけ、共存する日々を過ごした。冬至の日に柚子を浮かべた風呂に浸かると、無病息災でいられるという。「冬至」と「湯治」、「柚子」には「融通がきく」という語呂合わせもあるそうだ。大晦日に柚子湯を習慣としている家もある。「ナイフ傷や打身もあれば、心の傷もあるでしょう。今年負った傷を思いながら、ゆったり風呂に浸かるのはいいものだと思いました」という雀九さんの句評が的を射ていた。この冬、作者は殊の外感慨深く柚子湯に浸かったことだろう。  作者は他にも「ゆすらうめ幸運なんていつも小粒」や「難病の癒ゆる日ありや薄暑光」という病に因んだ句をものしていて、「ゆすらうめ」の句は令和5年度の日経俳句会賞英尾賞に輝いた。「ゆすらうめ」の語感も好きだという作者。「ゆすらうめ」に「ゆず」の二文字が透けているのも偶然ではないような気がする。病にめげず、新しい年を迎えようとする明るさもいくらか垣間見える。 (双 23.12.31.)

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理髪師の刻むリズムや年の暮  溝口 戸無広

理髪師の刻むリズムや年の暮  溝口 戸無広 『この一句』  新春を迎える用意の一つが散髪である。この句に詠まれているのは、流行りの低価格でお手軽なカットハウスではなく、昔ながらの、シェービングも洗髪もしてくれるきちんとした床屋だろう。ベテランの理髪師の鋏の規則正しいリズムが聞こえ、男性客が「今年もいろんなことがあったなあ」と、まもなく終わろうとしている一年を振り返っている、そうこうするうちにいつしか眠りに落ちてしまう。  この句の「理髪師」という言葉はどうだろう、という疑問の声があがった。理髪師と聞いてすぐに思い出すのは、ロッシーニの歌劇「セビリアの理髪師」であるが、確かに日常的にあまり使う言葉ではない。理容師の方が良さそうにも思えるが、これだってあまり使わない言葉である。日常的に使うのは床屋、散髪屋であるが、「屋」がついているので、施術する人ではなくお店を指すことも多く、この句には相応しくないかもしれない。若い人たちは、床屋ではなく美容室に行って散髪しているので、美容師だって候補になるかもしれない。  あれこれ考えてみると、やはり「理髪師」という言葉をここに据えたのは、とても良かった気がする。理髪師だから、客が男性であり、比較的高級な店で、ベテランに刈ってもらっているイメージが、ストレートに思い浮かぶ。年の暮に、こんなゆったりとした時間が持てるのはいいなと思わせる、とても心地の良い一句である。 (可 23.12.30.)

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一年の禍福煮こごる年の暮    中沢 豆乳

一年の禍福煮こごる年の暮    中沢 豆乳 『この一句』  新聞社では年末になると、その年の十大ニュースを紙面で発表する。国内外で起きた数多のニュースから選ぶので、さまざまな分野の出来事が並ぶ。掲句を読んだ時に、その十大ニュースを思い起こした。  今年であれば、終息の見えぬウクライナ戦争、ガザでの軍事衝突、自民党の政治資金問題など深刻なニュースが思い浮かぶ。その一方で、大谷選手の超高額移籍や将棋の藤井八段の八冠制覇など明るい話題もあった。国民にとって禍福が交錯した1年だったように思える。  この句を採った人は「禍福煮こごるに共感した」など、中七の表現に面白みを感じている。禍福糾えるという表現はあるが、禍福煮こごるは作者の造語であろう。凝る(こごる)とは、液体状のものが冷えて凝固することを意味する動詞。魚の煮汁が冷えて固まったものを煮凝(にこごり)といい、冬の季語となっている。掲句の季語は「年の暮」とはっきりしており、煮こごるは、禍福がごっちゃになって固まっている状態を表しているのだと思う。  世界と日本の十大ニュースを考えると、沸騰化する地球、米中ロの対立、枯渇する資源、借金まみれの財政など、悲観的な材料が多く、未来への展望が開けてこない。内外ともに手詰まりの状況を「禍福煮こごる」と詠んだ、スケールの大きな時事句に思えてきた。 (迷 23.12.29.)

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年の暮れ三倍速のひと日ずつ   水口 弥生

年の暮れ三倍速のひと日ずつ   水口 弥生 『合評会から』(日経俳句会) 雀九 三倍速が面白いと思いました。ただ、いくら何でも三倍速というのは……。実感としては、せいぜい二倍速くらい。二倍速では字足らずだから三倍速でしょうか。 木葉 年の暮れの慌ただしさを三倍速と言い切ったところが面白いですね。 三薬 お二人と同じですが、「ひと日ずつ」が気になりました。もう少し工夫できたかも知れませんね。 愉里 三倍速に強迫観念すら感じている自分を重ねてしまいました。 豆乳 三倍速に実感がこもっています。 卓也 気忙しいこの時分ならではの句ですね。           *       *       *  年の暮れを「日が飛ぶように過ぎる」というのは誰もが感じることで、俳句にも大昔から詠まれている。それこそ「月並俳句」と笑われてしまう。しかし、そこに「三倍速」を持ってきたことで生き返った。確かに三薬さんの言う通り「ひと日ずつ」がこなれない言い方だが、「三倍速」のパンチ力で句会の票をさらってしまった。  掃除も済んでいない、買物に行かなきゃ、美容院の予約時間、あれもこれも中途半端。そう言えば、いつか見ようと溜め込んである昔の番組が一杯出て来た。ええいままよ。何もかも放り出して、三倍速で見始めた・・などということがオチなのかも。 (水 23.12.28.)

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北風に向かひ塾行く六年生    徳永 木葉 

北風に向かひ塾行く六年生    徳永 木葉                                              『合評会から』(番町喜楽会) 百子 大変だろうなあと思います。私も子供のころ、寒い中を自転車で塾通いした思い出があります。 光迷 孫が六年生で塾に行っています。十時ぐらいまでやっているようで、親が迎えに行く。句には「塾行く」とありますが、「向かひ」と表現がかぶるので、「塾へと」でいいのではと思います。 水馬 隣の家の六年生がお受験で、塾通いして頑張っています。そんな光景を目にしているので、ぴったりの句だなと思いました。           *       *       *  この句を詠みながら、教育について考えることが多かった。塾通いに関連していえば、学校では教え切れないのか、という疑問。幼児では幼保一体化ができず、青年では大学の定員割れが続出という事態。「教育は国の礎」であるはずなのに、一体どうなっているのだろう。  俳句では「一句に動詞が二つ以上あると緩む」といって嫌う向きがある。確かに動詞を使っていない「夏草や兵どもが夢の跡」(芭蕉)は引き締まっている。だが「鮎くれてよらで過行(すぎゆく)夜半の門」(蕪村)という動詞が三つも入った句のゆったりした感じ、情緒も捨て難いのではないか。 (光 23.12.27.)

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見はるかす六国峠石蕗の花    谷川 水馬

見はるかす六国峠石蕗の花    谷川 水馬 『この一句』  この句を読んで「六国峠」とはどこだろうと思った。グーグルマップで調べると「六国峠ハイキングコース」は出てくるものの、肝心の六国峠がどこかわからない。よくよく調べると、通称「鎌倉アルプス」と呼ばれるトレッキング・コースのマップに「天園(六国峠)」の文字が見える。なるほど天園なら行ったことがあると思った。  横浜金沢区や、朝比奈切通など、天園に至るルートはいくつかあるが、筆者が登ったのは建長寺の奥にある半僧坊から行く比較的手軽なコース。たしか天園で昼食をとった覚えがある。六国とは、相模・武蔵・伊豆・上総・下総・安房のこと。さえぎるものが多くて、とても六国が見えるようには思えなかったが、世が世であればそういう場所というところだろう。  この句の「見はるかす」は、「六国峠を見はるかす」ではなく、「六国峠から見はるかす」だろう。標高159メートルのこの地からは、鶴岡八幡宮、若宮大路、由比ヶ浜が眼下に見渡せ、天気の良い日は富士山も見えたはずである。相模湾の方向を遠望する視線と、足元の石蕗の花を見つめる視線の対照がこの句の魅力である。 (可 23.12.26.)

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今年こそマニュキア塗って年の暮 池村実千代

今年こそマニュキア塗って年の暮 池村実千代 『合評会から』(日経俳句会) 而云 かれこれ三十年前くらいになるかな、うちの娘がこんなことをやっていたのを思い出しました。 水兎 今年こそと初めてマニキュアを塗る人もいるだろうし、今まで家事に忙しくて塗れなかったけれど「もうそういうのは卒業よ」と塗る方もいらっしゃるだろうから、二重の意味で面白いなと思いました。 青水 季語とマニキュアをくっつけてきたのが新鮮で素晴らしい。いろいろな解釈ができ、いくらでも物語が生れて来そうです。 双歩 「マニキュア塗ってやるわ」みたいな句は、なかなか見かけないので、新鮮だなと思いました。 木葉 今年こそと年の暮は合わないような気がします。今年こそマニュキア塗って初日の出とかなら分かるけど、今年こそを使うなら新年の感じでは……。 定利 コロナでお化粧も出来なかった。まず爪から……。           *       *       *  作者の弁「年の暮はマニキュアする暇もなく、あたふたと家のことに追われていました。今年はそういうことは置いといて、マニュキア塗って、ゆっくりと年を越す、自分の心に向かい合う年にしたいなと思って作りました。今までと違った自分になる、実千代再生プロジェクトの一環です」(笑)。これに付け加えることは無さそうだ。この気分がとても面白い。 (水 23.12.25.)

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何もかも妻の仕切りや年の暮   澤井 二堂

何もかも妻の仕切りや年の暮   澤井 二堂 『合評会から』(日経俳句会) 朗 実感です。次々と用事を命じられ、あごで使われている我が身を重ねて、大いに共感しました。 実千代 年の暮の情景がこの一句で全部伝わってくると思います。 光迷 我が家もこの通り、買物から掃除まですべてかみさんの仕切りです。世の中の家は大体こうでしょう。上手いこと詠んでいるなと思いました。 鷹洋 良い句とは思います。ただ、一茶の句に「ともかくもあなた任せの年のくれ」があり、中七を妻に替えたのかと、多少抵抗はありました。しかし年の暮になると片付け、買い物、亭主は全く役に立たない。自分のことを詠まれているようだと思って頂きました。 てる夫 たくさん点の入る句だと思いました。あえて私が手を入れさせてもらえるならば、我が家では、下五は年の暮ではなく、一年中ですね(笑)。           *       *       *  評者が口をそろえて言うのは「我が家も同じです」。窓ふきやら風呂の黴落としやら一年の垢を落とす仕事が尽きない。そのうえ、おせちの準備など年用意があるのだから、一家の主婦は眦を決して動き回ることになる。傍観者を決め込んでいる亭主にはとばっちりが飛んで来る。一茶の時代から変わらぬ年の瀬の家庭風景だろう。作者は「年の暮」の兼題に窮して作ったと自句自解していたが、夫婦の間にいらぬ波風を立てない見事な知恵でもある。亭主族は日ごろから素直に妻の指示に従うべし、とも言っているようだ。 (葉 23.12…

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たはむれにフラフープして十二月 玉田春陽子

たはむれにフラフープして十二月 玉田春陽子 『この一句』  フラフープという懐かしい遊具の登場に、思わず採った句である。幼い頃を思い出した人も多く、句会はフープ談義でしばし盛り上がった。  フラフープはプラスチックの細い輪を、腰や首のひねりで回転させて遊ぶおもちゃ。米国でブームを呼び、昭和33年(1958)秋に日本で発売されるや大人気となり、瞬く間に全国に普及した。1カ月で80万本売れたという記録が残っており、映画や歌まで作られた。しかし熱中した小学生の胃に穴が開いたり、交通事故が続いたことで、熱が冷めるのも早く、2年ほどで姿を消した。  掲句はそのフラフープに十二月という季語を取合せて、ほのぼのとした可笑しみを醸し出している。大澤水牛氏が「十二月なので物置の掃除でもしていたら、フラフープが出て来たんでしょう」と読み解くと、金田青水氏が「忙しい師走なのにフラフープなんかしてということでしょうか」と応じ、句の解釈は定まった。「たはむれに」の上五が、ほんわかした遊び心をよく表している。  フラフープは過去のものと思っていたら、廣田可升氏が「ヨガとか、新体操の道具で結構売っていますよ」と最新事情を教えてくれた。作者によれば、お孫さんが持ってきたフープを、昔取った杵柄とばかりに試したのが実景という。80歳を越えた作者にとって、結果が「年寄りの冷や水」に終わったのは、言うまでもない。 (迷 23.12.22.)

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冬の陽で電車の床に指影絵    中沢 豆乳

冬の陽で電車の床に指影絵    中沢 豆乳 『合評会から』(日経俳句会) 愉里 暖ったかい日差し、電車、家族連れ。のんびりほっこりする風景です。 実千代 田舎の電車ですね。低い日差しが入ってくる感じで、気持ちの良い俳句です。 雀九 目の付け所が良い。窓枠を切り取って指影絵をする。誰でも知っている光景を切り取った。たいしたものだ。言っていることが素晴らしい。 てる夫 よくぞ見つけた!しかしながら「で」が気に入らない。 青水 きれいな俳句です。が。てる夫さんに続けるとしたら、すべてを「の」としてみてはどうか。「冬の陽の電車の床の指影絵」。 水牛 俳句は耳で聞くものです。「で」では響きが悪く、また、説明になってしまいよろしくない。 而云 「で」は「や」で良い。切ればいい。           *       *       *  小春日のほのぼのとした車内風景を巧く捉えた。窓を背に差し込む陽光が電車の床にこぼれている。昼下がりの空いた郊外電車か、作者の近くに座る親子連れが影絵遊びをしている。幼子だろう、その小さな指が作っているのは何だろうと思わず興味を引く。ここには空爆下のウクライナの町もガザの民衆の惨状もない。大げさに言えば平和日本の日々の営みが見えるだけ。作者の目の温かさがあふれる句だ。ただ、難は皆さん指摘する通り。 (葉 23.12.20.)

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