立冬を知る由も無し里の熊    斉藤 早苗

立冬を知る由も無し里の熊    斉藤 早苗 『この一句』  この秋は例年にないどんぐりの不作で、熊が食物を求めて市街地に出没し、大きなニュースとなっている。環境省の集計によれば、熊の出没情報は9月までに全国で1万3千件を超える。被害者数は東北を中心に180人と過去最悪ペースで、死者も5人出ている。掲句はそうした状況を諧謔味をきかせて詠んだ時事句だが、句会では意外に点数が伸びなかった。時事句にしては臨場感が薄く、立冬と熊の出没の関係が分かりにくいと思った人が多かったのであろう。  もとより暦は人間が作ったものであり、熊が知っている訳はない。しかし熊は本能で季節の変化を感じ取り、冬が近づくと冬眠に備えてせっせと餌をあさり、栄養を蓄える。森の木の実や果物が少ない年は、やむなく人里に降りて、畑の作物や柿などの果物を食べる。熊はいわば「体内の暦」に従い、生存のために動き回っている。とすれば「知る由も無し」の中七は、「本能では知っている」という反語的ない意味合いを帯びてこないだろうか。  市街地への熊の出没はここ数年増勢をたどっている。どんぐりの不作以外にも、過疎化によって畑に出る人が減ったことや、柿の木などが放置されていることも一因とされる。人間と熊とが平和的に共存できた時代は、気候変動と過疎化により終わってしまった。「里の熊」の下五には、人間世界の甘い果物や残飯の味を知ってしまった熊たちと、その先行きを懸念する作者の気持ちが感じられる。 (迷 23.11.29.)

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鴨一家かかあ天下であるらしき  須藤 光迷

鴨一家かかあ天下であるらしき  須藤 光迷 『この一句』  居つきの鴨もいるにはいるが、近所の公園の池に鴨が飛来する季節になった。縁起のいい鳥と言われる鴨でも、環境省は鴨に送信機を付け人工衛星で飛来経路を追跡しており、農水省では鳥インフルエンザの警戒に余念がないという。真鴨に軽鴨、筆者にはとんと見分けがつかない。身体の大きさで識別できれば世話ないが、そうはいかない。真鴨の雄は繁殖期に黒っぽい首に白い輪があるそうだ。食べて美味いと言う、いわゆる「青首」がそうなのかと想像するばかりだ。軽鴨のほうはじつに雌雄の見分けが難しいようで、羽の縁の色形、尻羽の色で見分けるということである。  ともかく作者は川や池で見た鴨のひと群れを家族とみた。小難しい雌雄や夫婦の見分けなどどうでもいい。作者の目の前には仲むつましげな一家が軽やかに浮かんでいる。どうもあれが母親でいちばん威厳がありそうだとみた。実際の鴨の世界で雌が群れのリーダーであるのかどうかは知らない。他の鴨を率いているさまに、作者は人間社会の「かかあ天下」という言葉を当てはめた。  異論はあろうが、家庭内を波風なく治めるには主婦が主導権を握るのがよいとは古人の知恵。鴨一家に託して作者の持論を披露した形だ。我が意を得たりの句評も当然。「『かかあ天下』ときては上州女としては採らざるを得ません。どこでもかかあ天下が一番うまくいくのです」(百子)に出席者一同大笑い。 (葉 23.11.27.)

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処理水の騒ぎは知らぬ海鼠かな  徳永 木葉

処理水の騒ぎは知らぬ海鼠かな  徳永 木葉 『この一句』  「処理水」は言うまでもなく、福島第一原発の放射性物質を含む汚染水を処理した水のことであり、「騒ぎ」とは、その処理水を海洋に放出することに伴う、一連の騒ぎのことである。政府は適切に処理された水であると説明し、国際原子力機関のお墨付きも与えられたものの、事前に「関係者の理解」を得ることを前提とすると約束していたにも拘らず、十分な協議が行われず、事実として、風評被害や輸入禁止など深刻な問題が発生していることは周知の通りで、こうした一連のことを「騒ぎ」と呼んでいることは間違いない。作者は、「騒ぎ」に対して、明らかに批判的な目を向けているように思えるが、その矛先が、具体的にどこにどのように向けられているのかは、この句からは定かではない。  この句に詠まれている「海鼠」は、被害の当事者とも言える海産物であるとともに、「騒ぎは知らぬ海鼠かな」と詠まれることによって、とぼけた味を出して、一句を諧謔性のあるものにする役回りを担っている。処理水問題は間違いなく深刻な問題であるが、この句は、海鼠を持ち出すことによって、処理水問題の片々を語るのではなく、まっとうに自然界に棲息する海鼠と私たち人間の生き様の愚かさを対比させ、アイロニーを含んだ句に仕立てている。問題をストレートにあげつらうのではなく、このように詠むことも、俳句表現の深みであり、凄みではないだろうか。 (可 23.11.25.)

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石仏に賽銭置いて小春の日    向井 愉里

石仏に賽銭置いて小春の日    向井 愉里 『この一句』  この作者はいい人、心の優しい人に違いない。いまの時代、路傍の石仏に賽銭を上げるなどという人は、極めて稀だろうから。それだけに石仏に頭を下げ、手を合わせ、願い事をするか、日々が健やかであることへの感謝を述べ、ゆっくりと立ち去る姿を想うと、奥床しさに感じ入るとともに、何とも豊かな気分にさせられる。  その心優しさに、「小春の日」という季語がよく合っている。「小春」あるいは「小春日」「小春日和」は立冬を過ぎてからの春のように暖かい晴れた日のこと。「小六月」ともいい、旧暦十月の異称である。それゆえ、いかにポカポカした春を思わせる陽気でも、年が明けての小春というのは誤用ということになっている。  記憶を頼りにここまで原稿を書いてきて、間違いがないかと歳時記を見ると、次のような例句があった。賽銭に通じる感じがする「俗名と戒名睦む小春かな」(中村苑子)であり、ゆったりした気分がただよっている「大淀や水の光も小六月」(日野草城)である。さらに「小春風」「小春凪」「小春空」などという使い方もあるのだという。 (光 23.11.24.)

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秋袷鏡の中に九十九髪      高井 百子

秋袷鏡の中に九十九髪      高井 百子 『季のことば』  袷(あわせ)とは裏地の付いた着物のこと。夏の単衣(ひとえ)から、秋冷の頃に秋袷に衣替えする。さらに寒さが厳しくなると綿入れに替わる。角川俳句大歳時記によれば「秋袷は落ち着いた配色、秋きらしい模様が好まれる」とされ、春に着る明るめの春袷とは対照的である。  着物を着る人をあまり見かけなくなった現代では、やや古めかしい季語だが、秋らしい趣がある。掲句は秋袷を着た女性を鏡の前に立たせ、そこに映った着物ではなく九十九髪という意外なものを描写する。九十九髪(つくもがみ)とは老女の白髪のこと。辞書を見ると、語源は白髪が水草の「つくも」に似ているとするほか、百から一画取り去れば白になり、一を引けば九十九になるところから老女の白髪を表すとの説が載っている。  秋袷という古風な季語に、九十九髪という風雅な言葉を取合せ、深まる秋の気配を上品に表現している。秋袷と九十九髪を結ぶ「鏡の中に」という中七が上手い。秋らしく装った自身の姿を鏡で確かめようという女心。そこに白髪頭を見出した驚き。一編のドラマを見るようである。  しかも白髪を嘆いている感じはなく、読後感は爽やかである。季節の変化に合わせてマメに衣替えする元気な老女が、鏡の前で「ちょっと白髪が増えたかしら」などと話している姿が浮かんでくる。作者の解説によれば、幼い頃に見た鏡に向かう母親の姿を思い出して詠んだという。古希を越えてなお活動的な作者のパワーの源は、母親譲りであったかと納得した。…

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今朝の冬顔を小さく洗ひけり  玉田 春陽子

今朝の冬顔を小さく洗ひけり  玉田 春陽子 『合評会から』(番町喜楽会) てる夫  何気ない毎日の些細なことをよく見つけましたね。夏はじゃぶじゃぶ洗っているけど、水の冷たくなった今の季節は、ちょこちょこっと…ということですかね。 百子 「顔を小さく」という措辞が微笑ましいですね。この家はお湯が出ないのかしらなんて思ってしまいますけれど(笑)。 白山 「小さく洗いけり」が新しいなぁ。ちょこっとという感じですかね。 青水 立冬の朝に顔を洗う。「小さく」の四文字が詩的な世界を上手く構成しています。 可升 明後日が立冬、タイミングの良い句です。実際に小さく洗ったわけではなくて、立冬の気分を表現したのでしょうね。上手く詠んだと思います。           *       *       *  日常の些事を作者お得意の句法で、この日の最高点をさらった。上記の評にある通りよくぞこの何でもない朝の日課をとらえた。寒い朝は洗面もさぼりたい気持になる。口元、目元をさっと濡らしてお仕舞に。猫の顔撫でじゃあるまいし、作者はそんな気分を「立冬(今朝の冬)」の季語にぶつけた。今年は十一月まで真夏日が途切れなく続く日和だから水もまだぬるい。「へェー物ぐさだなあ」とちょっと心配もするがあくまで俳句の世界である。作者も「冷たい水になると、ちょこちょこっとねということです(笑)」と句意を明かしている。 (葉 23.11.21.)

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芭蕉忌やその道行くもやぶの中  久保 道子

芭蕉忌やその道行くもやぶの中  久保 道子 『この一句』  松尾芭蕉は元禄7年10月、大阪蕉門の内紛を収めに下阪中、心労も重なって発熱、下痢を伴う病に倒れ、12日に死去した。数え年で51歳だった。新暦で言うと1694年11月28日。俳句(当時の呼び方では俳諧)を文学の一ジャンルに押し上げ、後世、「俳聖」とまで崇められるようになった人物である。実際、芭蕉と明治時代の正岡子規が居なかったら、俳句は今日あるような姿にはならず、老人や子供の遊びのようなものになっていただろう。  というわけで、芭蕉の忌日を「芭蕉忌」と称し初冬の季語として俳句を嗜む人間は一度は詠むべきものとされている。しかし、新暦の10月12日はまだ秋たけなわであり、傍題の「時雨忌」の雰囲気など到底感じられない。さりとて暦学に忠実に新暦換算の11月28日はなんとなく身に添わない感じがする。ということから月遅れの11月12日を「芭蕉忌」として一句捧げる句会が多い。我々も11月11日に句会が設定され、それも深川の芭蕉記念館で行われることになったので、皆で「芭蕉忌」を詠むことにした。これはその席上、注目を集めた句である。  「その道行くもやぶのなか」というのが面白い。何の因果か、俳句に取り憑かれてしまった。それはいいのだが、行けば行くほど五里霧中「八幡の藪知らずですよ」と言っている。作者も「BS放送の番組で芭蕉が『軽み』を追求したことを知りましたが、私にはまったく理解できない、まさに『やぶのなか』の話で、自分の思うように作るしかな…

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駅前へ移り行くとやそぞろ寒   金田 青水

駅前へ移り行くとやそぞろ寒   金田 青水 『この一句』  この句に詠まれているのは、駅から離れた一戸建分譲地のようなところだろう。高齢になった旦那さんが免許を返上し、ショッピング・センターまで行く足がなくなったり、奥さんの足腰が弱ってきて、近所の店に買い物に行くことすら困難になってしまったのかもしれない。高齢のご夫婦は、とうとう、住み慣れた郊外の一戸建を手放して、便利な駅前のマンションに引っ越したのに違いない。  手放した一戸建に子供や孫が住んで活用してくれるというようなケースは稀だろう。うまい具合に買い手が見つかれば、老後の資金が潤沢になり結構なことだが、そんなケースも又、稀なことだろう。  何よりも、長年住み慣れた家には、近所付き合いがあり、自ら手入れした木や花があり、小さな生き物もいるかもしれない。そういうものと、別れることが、一番辛いことに違いない。まさに「そぞろ寒」である。わずか十七音のこの短い詩を読んで、筆者はそんな妄想に陥ってしまった。  作者に問えば、実際に、お向かいの家族が駅前に移って行ったとのこと。伝聞をあらわす「とや」を用いて表現したことで、この句は個人的な体験を詠んだ句であるとともに、世相を切り取った句となっている。「移り行く」でなく、「移り住む」の方が良いのではないか、という意見があったが、作者は、ご近所が遠く離れ行き、取り残されることの寂しさも詠みたかったのではないだろうか。 (可 23.11.17.)

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闘蟋のどこか悲しき勝ち名乗り  中野 枕流

闘蟋のどこか悲しき勝ち名乗り  中野 枕流 『この一句』  闘蟋(とうしつ)という言葉の読みと意味を知っている人は、それほど多くないと思う。句会でこの句に点を入れた人も、ほとんどが辞書を引いたりネットで調べたリしたようだ。  闘蟋はコオロギの雄同士を闘わせ、勝ち負けを競う遊びである。水牛歳時記によれば、唐代の中国で始まり、現代中国でも盛んに行われているという。単なる遊びではなく賭け事の対象となっており、多くのコオロギを育てて、その中から強い虫を選別し、チャンピオン(虫王)の座を争う。負けたコオロギは打ち捨てられ、選別に漏れた大多数のコオロギは食用に売られる運命である。  勝ったコオロギは羽を振るわせて鳴くらしいが、闘蟋の現実を知ると、まさに「悲しき勝ち名乗り」である。コオロギの寿命は成虫になってから一か月半ほどでしかない。ひと秋の享楽のため、人間の欲望に翻弄される小さな虫の運命が胸に迫ってくる。  大多数の人が知らない言葉を句のテーマにすることについては、是非論がある。しかし「闘蟋という言葉を使ったのがユニーク」(双歩)との句評もあった。この句の場合、何だろうと興味を抱かせる効果があったのではないか。闘蟋の意味を知らなくても、その字画・字義と、「悲しき勝ち名乗り」という措辞から、句に漂う哀感は十分感じ取れるように思う。 (迷 23.11.15.)

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どんぐりの転がる帰路のリアシート 廣田 可升

どんぐりの転がる帰路のリアシート 廣田 可升 『合評会から』(番町喜楽会) 水牛 子供とは言ってないのに、行楽ではしゃいで疲れ、後部座席に眠る子供の姿が思い浮かびます。うまい詠み方の句ですね。 青水 非常に丁寧に描写していて、鑑賞する者を気持ちよくさせてくれる詠み方の句です。 迷哲 帰路のリアシートに転がるどんぐりで、行楽帰りの子供の情景がよく見えて来ます。            *       *       *  水牛氏の評の通り、子供の文字は無いのに子供の姿がありありと浮かんでくる。言葉の選択と配置が十二分に工夫されており、表現の巧みさに舌を巻いた句である。句は「どんぐりの転がる」と軽快に詠み出し、「帰路の」と続けて疑問を抱かせ、最後のリアシートで一気に場面を明らかする。 車のリアシートに座っているのは子供だろう、行楽先でどんぐりを拾った帰路なんだ、疲れて眠ってしまい、どんぐりが手から転がったのだろう――連想が次々に湧いてくる。読者の視線は一度どんぐりの転がるリアシートに絞られ、反転してシートから車内全体に拡がり、眠る子供を見つけて驚くことになる。最後の五文字のもたらす映像効果の鮮やかさに、唸るしかない。 作者は句会で「ラ行の音が多くなり、しつこい感じがするのでは」と語っていたが、むしろコロコロと転がるどんぐりにラ行のリズムが合う。映像のみならず音感も刺激する句である。 (迷 23.11.13.)

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