孫の持つ線香花火や夏の果    澤井 二堂

孫の持つ線香花火や夏の果    澤井 二堂 『この一句』  幼い子供は動物本能を備えているのだろう、自分を守ってくれるものを敏感に嗅ぎ取ってすり寄る。孫がオジイチャン・オバアチャンに寄って来るのはその現れである。この人はどんなことがあっても私を守ってくれるということを本能的に察知するのだ。  やがて。5,6歳になり智慧がついて来ると、今度は金づるとして頼りになることを察知、前にも増して擦り寄って来る。ジイチャン・バアチャンは、それはうすうす分かっていても、無性に可愛いものだから、でれでれになってしまう。  この句は、夏休みも終りに近づき、子供相手にくたびれ果てた娘夫婦が実家に子供を預けて命の洗濯という前段階があるように思われる。とにかく孫を引き受けたオジイチャン・オバアチャンは、張り切ってあれこれ整える。孫たちの好きなものは何かしらとあれこれ整え、夕ご飯の終わった後のイベントとして、庭先での花火大会だ。マンション暮らしの孫たちには、地面を踏んでの花火遊びは新鮮だ。ネズミ花火が走り回ればきゃっきゃと騒ぎ、筒花火がポンと打ち上がれば手を叩く。そして、最後は静かに線香花火。一人ひとりがこよりのような線香花火を持ち、それに火がつけられると、パチパチ、パチっと爆ぜる。怖くて放してしまいたくなるが、じっと我慢して持っていると、最後にジジッといって丸くなって消え、あたりは真っ暗闇。幼心になんとはなしの「思い」が宿る。もしかしたら、これが「物思う心」のはじめということになるのかも知れない。 (水 2…

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