しわしわの手にもエチュード秋の夜 池村実千代 

しわしわの手にもエチュード秋の夜 池村実千代  『季のことば』  音楽については全くの無知と言った方がいいのだが、それでも「エチュード」が「練習曲」であることは“知識”として記憶の底にあった。この句を見て、秋の夜長をピアノかバイオリンか、何かの楽器の練習をしている優雅な高齢婦人の姿が浮かんだ。いい雰囲気の句だなあ、秋の夜と楽器のお稽古はよく似合うなあと感じ入った。  秋の夜長となればいつまでも酒ばかり飲んでいる己に引き比べ、エライものだ。彼我の隔たりの大きさに愕然とした拍子に、この句に一点献じた。そうしたら、私ほど飲みはしないものの同じ程度に体のあちこちが錆びついてきている同い年の句友が採っていた。「やはり同じような感慨を抱くのだな」と安心した。  さて作者が分かってみれば、「しわしわの手」と言うのが大げさな、私よりぐんとお若い人だ。とは言っても世間的にみれば確かに「おばあちゃま」の域に達している。それでもなおピアノをはじめ楽器演奏に励み、日々練習に勤しんで居られる。子どもたち相手の音楽教室の講師もされているらしい。そしてそれを俳句に詠む。実に素晴らしい。  くやしまぎれの憎まれ口みたいだが、「手にも」という言い方がどうかなと思った。「しわしわの手もてエチュード秋の夜」の方がいいんじゃないかな、なんぞと呟きながら、ぐいっともう一杯。 (水 23.08.30.)

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語り部のまた一人逝き原爆忌   岩田 三代

語り部のまた一人逝き原爆忌   岩田 三代 『季のことば』  八月は「原爆忌」など戦争にまつわる季語が多い。水牛さんの季語解説「八月」によると、『立秋を挟んで、「広島忌」「長崎忌」(合わせて「原爆忌」と云い、晩夏の部に入れられているが〝八月の季語〟という括りでいいだろう)があり、十五日は「終戦日」(敗戦日)と、日本の国をひっくり返す出来事があった』とした上で、『「原爆忌」と「終戦日」という季語を大事にして、毎年八月にはぜひ詠みたい』と説く。  この日の句会では、掲句のほかに「落としたる葡萄ばらばら原爆忌(水牛)」、「原爆忌白磁茶碗に白湯満たし(双歩)」、「武器輸出なんかしないで敗戦日(光迷)」、「語り継ぐ被爆二世の焦る夏(冷峰)」などの作品が並んだ。どの句も味わい深く、読者の共感を得た。  作者はかつて、広島赤十字・原爆病院の被爆遺構を取材したことがある。その時、受けた感慨を「悲しみは赤錆となり原爆忌」と詠んだ(当ブログ既掲載)。爾来、八月には意識して原爆忌を詠んでいるようだ。  掲句の「語り部」とは、自らの被爆体験を語る証言者のことだ。戦後78年が経ち、被爆者の平均年齢は80歳を超えたという。語り部もしかり。高齢になり、亡くなられる方もいて、年々自分の経験を語れる人が少なくなっている。淡々と詠んでいる分、心に響く一句だ。 (双 23.08.28.)

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籠の桃目だけで探る熟れ具合   中野 枕流

籠の桃目だけで探る熟れ具合   中野 枕流 『合評会から』(日経俳句会) 朗 桃に限らず、スーパーで無闇に食品に触る人がいると憤慨する妻の繰り言を日々聞かされる立場からも、目だけで探ることに共感しました。 雀九 自分も同じようにしているので選びました。 実千代 目だけで探るという言葉と、籠の桃との取り合わせが上手です。段ボール箱の桃は目で探ってもよく分からないけど、籠なら上からも下からも見えるので食べ頃かなとか分かる。二つの言葉が響きあっている。 二堂 触れずに目だけで熟れ具合を確かめるのは難しいですよ。 早苗 真剣なまなざしを想像した。           *       *       *  「触れないでください桃が傷みます 双歩」という売場の貼紙をそのまま詠んだような傑作も出された。りんごや梨や柿などはまだしも、桃の実は繊細で、そっと触っただけでも、その部分が茶色く変色し傷んでしまう。だから産地での収穫、箱詰作業も、市場や店頭での取扱も非常に神経を使う。  近所のスーパーで桃を真剣ににらんでいるオバサンがいた。私も買おうとしていたので、オバサンの選び終るのをじっと待っていたのだが、いつまでたっても決まらない。「これが良さそうですよ」と一つの籠を毅然とした表情で指したら、オバサン、ほっとしたようにそれを抱えてレジに向かった。もし美味くなかったらどうしよう、恨まれるだろうなあ。 (水 23.08.26.)

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親の家売りに出す夜や桃二つ   中嶋 阿猿

親の家売りに出す夜や桃二つ   中嶋 阿猿 『この一句』  意外な取合せが、不思議な魅力を醸し出す句である。両親が亡くなり、無住となった実家をやむなく売りに出すという、現代的な光景が描かれる。そこに取り合わされた桃二つ。どう読み解くか、句会ではいくつかの推理が披露された。相続したものの管理に困り、売却を決めた息子夫婦が食べているとの説、売りに出される実家の仏壇に供えられた桃という説、さらには何らかの事情で家を売る決心をした老夫婦が食べている桃と見た人もいた。  いろんなドラマが想像されるが、この句の魅力の源泉は夜と桃の組合せにあるように思う。西東三鬼に「中年や遠くみのれる夜の桃」という有名な句がある。女性の暗示とされる夜の桃に何とも妖しげな魅力が感じられる。選句表には「桃を剥く悪魔がにやりとする夜更け」(杉山三薬)という句もあった。暗い夜は妖しいもの邪悪なものが潜む。作者は桃を取合せることで、それらに対峙させているように感じる。 古来、桃は中国や日本で邪気を払う霊力があるとされてきた。孫悟空は天界で不老不死の桃を食べて追放された。日本神話でも、黄泉の国から逃げ帰るイザナギが桃を投げて鬼を追い払う。幼い時から桃太郎伝説を聞いて育った日本人にとって、桃の不思議なパワーは意識下に刷り込まれているのではなかろうか。  受け継いだ家には両親の思いや家族の思い出が染みついている。その家を売ることを決めた夜、さまざまな思いが交錯したに違いない。置かれた桃の色と香りが、その心情を和らげる。桃のパ…

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花火する場所無くさすらふ親子連れ 山口斗詩子

花火する場所無くさすらふ親子連れ 山口斗詩子 『この一句』  手花火遊びの場所を探して「さすらふ」とはちょっと大袈裟過ぎるなあと思って、そのまま忘れてしまっていた。ところが会報の作品集に収められたこの句をあらためて読んで、これはいかにも今日の花火風景、面白いと思った。  夏休みとあって、スーパーやコンビニには子供の目につきやすい高さで袋入の手花火がきらびやかに置かれている。せがまれたお母さんはつい買ってしまう。さて夕暮れ、「花火しましょ」という段になって、愕然とする。各戸のテラスでの花火を禁止している団地やマンションもあり、禁止されないまでもお隣や階下への遠慮も働く。それに、なんとなくせせこましい。  子を連れて外へ出る。団地の敷地内は狭くて人や車の出入りもあって、のんびりと花火をやれる雰囲気ではない。道路端は車や人の往来が激しく、とてもできない。近所の公園に行くと、悪ガキどもによる大きな音のする打上げ花火が近隣の苦情となり、「花火禁止」の立て札。さあ困った。どうしましょう。せっかくの花火を抱えて母子は途方に暮れてしまう。  「場所無くさすらふ」という叙述が少々説明っぽいので嫌われたか、句会ではあまり点が入らなかった。「花火する場所を探して親子連れ」くらいにしておいた方が良かったか。それはともかく、現代都会風景を詠んで、くすりとさせられ、寂しくなる句である。 (水 23.08.22.)

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球場に深々と礼夏の果      金田 青水

球場に深々と礼夏の果      金田 青水 『この一句』  高校球児の熱い戦いが甲子園で繰り広げられている。コロナの影響で、2020年夏は地方大会も含め中止になったが、翌21年以降はいくつかの制限つきながら開催され、第105回の今年は様々な制限が緩和され、コロナ前に戻った。さらに暑さ対策として5回終了後に選手が10分間の休憩をとる「クーリングタイム」が導入された。季語にはなっていないが、夏の高校野球は今や風物詩だ。  掲句は、高校野球とは一言も触れてない。ただ単に野球場に丁寧なお辞儀をした、と言っているだけだ。ところが、「夏の果」というやや感傷的な季語によって、この句の主語は高校球児だと想像がつく。しかも、敗者とみた方がしっくりくる。高校野球の全国大会が始まると直ぐ立秋なので、夏の果の敗者は地方大会のチームだろう。今年は、全国の3486チームが参加したという。内、甲子園出場校は49校。このコラムの大半の読者の母校も地方大会で涙を飲んだことだろう。  汗まみれ泥まみれで白球を追う、全国の球児たち。その一球一打に熱い思いを託し、憧れの甲子園という晴れ舞台を夢見たものの、武運つたなく敗れ去った3400余りのチームへ、作者は暖かな拍手を送っている。 (双 23.08.20.)

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日傘持つ勇気が我に今一つ    旛山 芳之

日傘持つ勇気が我に今一つ    旛山 芳之 『合評会から』(日経俳句会) 雅史 そんなこと言ってられないほど、今夏の日差しは強烈に感じられます。 光迷 日傘を使う男性が増えていますね。「涼しくて気持ちいい」と聞きますが「勇気が……」という言葉に共感。 豆乳 男の日傘は女々しい。私は断固、拒否です。 枕流 美容男子が増えている若者世代と違い、やはり「男の沽券」に係わるのでしょうか。           *       *       *  この句会は高齢男子が多いせいか、作者も、選んだ人たちも男日傘拒否派である。実は私も外出する時いつも「日傘さしてお行きなさい」と言われるのだが、「嫌だよ」と言い捨てて出かける。去年から晴雨兼用の傘なるものが用意されているのだが、未だに開いたことがない。  今年の夏の暑さは異常だった。6月から30度を超える日があって、7月に入ると連日の猛暑。さすがにがっくりきて、「せっかくあるのだから差してみようか」と思ったこともある。しかし差さない。どうしてなのか、自分でもよく分からない。強いて言えば、作者の言うように「勇気」が無いのだ。これは「男子たるもの」などといった時代錯誤の空威張りではなく、ただ単に男が日傘をさしているのを見ると、「やっぱりかっこ悪いなあ」という印象からなのだ。しかし、これも突き詰めれば「男女差別」の悪しき習俗のシッポのようにも思えないでもない。 (水 23.08.18.)

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夏終わる河原に子らの炊事あと  徳永 木葉

夏終わる河原に子らの炊事あと  徳永 木葉 『合評会から』(番町喜楽会) 迷哲 子供たちが河原で飯盒炊爨をしたあとでしょうか。景がよく見えて、「夏終わる」の季語にふさわしい句です。 水牛 「河原の炊事あと」と「夏終る」の取合せがいいですね。 双歩 浜辺に残る丸太の燃えかす、河原の焦げ跡などは、夏の終わりの象徴としてよくある題材です。叙述が巧みでリアリティがあります。 水馬 炊事の後始末の悪さで近所に迷惑を掛けているというニュースを見ました。 迷哲 最近のキャンプ場には竈が拵えられていて、河原で炊事をさせない傾向があります。           *       *       *  夏のキャンプ場でよく見る光景で「夏の果」の兼題にふさわしい句だと思ったが、水馬・迷哲両氏のやりとりを聞いていて、なるほど最近のキャンプ場では人工の竈でしか煮炊きできないのかと思った。河原の石の上で火を起こし、地面にY字型の枝をさし、横に渡した枝に飯盒を吊るしてこそ醍醐味があるのにと残念に思った。なにかよくないことが起こるたびに、してはいけないことが増える。そのことによって確かに世の中は「安全・安心」になるのかもしれないが、その分面白さが遠ざかり、つまらない世の中になるという側面もある。  今を詠んだ句だと思ったが、すでに失われた時を詠んだ句か、と思うにいたった。「夏終わる」とは、季節の移りだけではなく、時代の移りのメタファーでもあるのかもしれない。 (可 23.08.16.)

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庭の木々力抜けたり夏の果    高井 百子

庭の木々力抜けたり夏の果    高井 百子 『この一句』  「夏の果」の気分がよく伝わって来る句だなあと感じ入って、句会では勢い込んで取ったのだが、追随する人は無かった。「木々の力が抜ける」ということが理解されなかったのだろう。しかし、殊の外暑かった令和5年の夏、身も心も萎えてしまった私は、毎日、エアコンを利かした書斎に座ってガラス窓越しに庭を見つめていて、まさにこの句のような感じを受け取っていた。  庭には手前に小菊が植わっているが、日照りと水不足で下葉が枯れ上がっている。その先の菜園のトマト、茄子は野放図に枝を伸ばしているが、やはりくたびれ始めている。その向こうの梔子(くちなし)や沈丁花は蔭になっているのでよく見えない。その向こう側の庭の南端にはイロハモミジ、紫陽花、梅の木、伊予柑、月桂樹がそれぞれ2,3メートルの高さでほぼ一列に並んでいる。それらが一様に「力抜けた」感じなのだ。4,5月の若葉青葉の頃にはあれほど鮮やかな緑色で、見る者に元気を与えてくれたのに、すっかりくすんでしまい、月桂樹などは少々黒ずんでしまった。  これからは台風のもたらす雨で、ひからびた枝葉も潤いを取り戻し、元気回復するのだろうが、この8月初めの一ときが、樹木にとって一番きつい時期に違いない。その様子を「庭の木々力抜けたり」と、なんともぴたりと言い当てたなあと感心したのである。 (水 23.08.15.)

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風呂敷の真結び固き大西瓜    谷川 水馬

風呂敷の真結び固き大西瓜    谷川 水馬 『この一句』  西瓜は秋の季語とされているが、7月が出荷の最盛期なので夏の果物の主役というイメージが強い。90%は水分だが、栄養価は高く、果糖など糖質のほかビタミン、ミネラル類を多く含んでいる。暑い日に井戸で冷やした大きな西瓜を割り、家族みんなで食べた情景は、昭和の記憶でもある。最近は家族の人数が減り、大玉西瓜を持て余す家庭が多いという。スーパーには冷蔵庫で冷やせる小玉西瓜や、大小に切り分けたカット西瓜が並んでいる。  掲句は西瓜と風呂敷を詠むことで、昭和の家庭をよみがえらせる。西瓜は丸くて重い。Мサイズで5~6キロ、Łサイズの大きなものは10キロ前後ある。八百屋で買うとビニールを編んだネットに入れてくれたが、家庭では風呂敷を使って持ち運びした。風呂敷に包まれた西瓜は到来物であろうか。「真結び固き」の表現にリアリティーがある。運ぶ時に結び目が緩んで西瓜が転がり出ないよう、真結びにしてあるのである。  作者は鹿児島生まれの鹿児島育ち。句会での解説によれば、幼い頃に叔父さんが風呂敷包みの西瓜をよく持ってきてくれた思い出という。入道雲の湧く暑い日に、固い結び目を解き、大きな西瓜を抱えて井戸に走る水馬少年の姿が浮かんでくる。 (迷 23.08.14.)

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