雲の峰昇段試験いざ参る     徳永 木葉

雲の峰昇段試験いざ参る     徳永 木葉 『この一句』  夏空にもくもくと湧き上がる雲の峰(入道雲)には、何らかの目標に立ち向かう若者の心意気を軽々と受け止めてくれるような、度量の大きさが感じられよう。掲句の場合は柔道か剣道などの昇段試験を明日に控えているらしい。「よし、やるぞ」という気合は既に十分。雲の峰は、そんな若者の思いをふんわりと、そしてしっかりと受け止め、励ましてくれるに違いない。  実は筆者の場合も、まさにこの句に詠まれたような体験を何度か踏んでいる。その最後と言えるのが大学時代の柔道の昇段試験であった。まだ柔道の体重制が採用されていない頃だから、何と今から六十年以上も前のこと。明日はどんな相手と取り組むのか、などは全く分かっていない。結局、自分より三十㌔も大きな相手との対戦となり、敢え無く敗戦の憂き目を見ることになる。  句会で掲句を見て、そんな昔の苦杯を思い出していた。あの前日、講道館での稽古を終えた後の帰途、西空を見ていたら、そして夕焼けの雲の峰に向かって「昇段試験いざ参る」と心中を打ち明けていたら・・・。しかし、相手が強すぎた。何度戦っても勝てるとは思えない。次の句会で句の作者に会ったら「結局は実力の問題だよね」と笑い合うことになるのだろう。 (恂 23.07.19.)

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サングラス目の日焼どめ病みて知る 久保道子

サングラス目の日焼どめ病みて知る 久保道子 『この一句』  軽い白内障と診断された作者は、医師から「サングラスが目の日焼け止めを防ぐ効果がありますよ」と聞かされ、なるほどと思い、それをそのまま詠んだという。「こういう事実があることを教えてくれたことに感謝していただきました」(三薬)との句評もあったから、同じように加齢と共に目が弱って共感を抱いた人が多かったのだろう、句会で高点を得た。  視・聴・嗅・味・触の五感はいずれも大切な感覚だが、中でも最も重要なのが「視覚」であろう。しかしものが良く見える人はそれを当たり前のこととして過ごしている。なにかの病気か加齢現象でものが良く見えなくなると、急に心細くなり、慌てだす。  特殊な眼病は別として、普通の人が目の不自由を訴えるのは大概は白内障によるものである。眼球の大部を占めレンズの役割を果たしている水晶体が灰白色に濁ってしまい、見ようとするものの像をうまく結べなくなる現象だ。多くは加齢によるもので、時には糖尿病が原因だったり、先天性のものもある。大昔から知られている眼病で「そこひ」と呼ばれていた。  医学の進歩で簡単な手術で治るようになったが、時には失明することがあるという。とにかく、ぎらぎらと照りつける真夏の太陽は白内障にはよくない。昔は黒く着色したガラスの「黒眼鏡」が眼病者の必需品だった。それが今ではお洒落なサングラスに変わっている。散文的な詠み方だが、「目の日焼どめ」という面白い言い方で句になった。 (水 23.07.18.)

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千円のうな正うな丼句会ごと   金田 青水

千円のうな正うな丼句会ごと   金田 青水 『この一句』  兼題「鰻」で出された一句。「うな丼」は「うなぎ丼」としないと季語にならないと思うが、それはともかく「うな正」とは何か。種明かしは神田にあるうなぎの人気店だ。人気の秘密は安さにある。最近、この店のうな丼も千百円になったが、つい先日までは千円で十円のおつりがきた。うな丼ダブルというメニューは、うな丼の御飯の中にも鰻の蒲焼が潜んでいる独特な丼。かつて筆者の先輩は「(鰻と御飯の案配を考えずに)行き当たりばったりで食える」と喜んでいた。作者が句会の度に、その“千円”うな丼を食しているのを筆者も何度か目撃した。  もう一句、愉里さんの「きくかわのお重はみ出す蒲焼や」という句もあった。こちらの「きくかわ」は、神田にある鰻の老舗。メニューによっては鰻の尾が重箱からはみ出し、折り返されている。当然ながら、お値段もそれなりに張る。  三島や成田などの鰻にちなむ地名ではなく、ピンポイントで知る人ぞ知る店名を詠み込み、職場にも近く馴染みがある人が「ああ、あの店ね」と選んだ。  俳句は「座の文芸」といわれる。座に集う個の言葉を、同席した仲間が共有することで独特の場が成り立つ。連句などはその最たる座だ。そういえば、「蒲焼」は季語とされてないが、兼題を出した水牛さんの判断で、この句会では「蒲焼」も季語とした。これもまた「座の文芸」ならではだ。 (双 23.07.17.)

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蕗の葉の大中小と庭の隅     向井 愉里

蕗の葉の大中小と庭の隅     向井 愉里 『この一句』  野草と言うか野菜と言うか、とにかく蕗は大昔から日本人に親しまれている。庭の隅に団扇のような葉を二三枚広げているのが面白いと風流人が好む。しかし、放っておくといつの間にかあたり一面、大小の葉っぱで覆い尽くしてしまう。この句の蕗も、半ばそうなりかかっているようだ。  早春、すべてが枯れた地面ににょきっと丸い芽を生やすのが「蕗の薹」。まだ寒い庭先にこれを見つけるのは実に嬉しい。「春が来た」ことを実感させてくれるからだ。一つ出ていれば周りに二つや三つは見つかる。これを採って刻み、味噌とごま油をちょっとたらして炒め、鰹節と炒り胡麻を振り込んで練り合わせると「蕗味噌」の出来上がり。昼間から一杯やる口実になる。  やがて夏場になると茎をすっと伸ばして大きな葉をつける。放っておけば前述の如く野放図に茂り出し、他の植物を圧倒してしまうから、その葉柄を根際から刈り取る。葉を除いた茎を塩をちょっと入れた鍋で湯がく。それを冷水にとって、茎の側面の皮と筋を剥く。筋を取った茎を4,5センチの長さに切り、出汁に味醂と醤油を入れた煮汁で煮含めれば夏バテなんてどこ吹く風の一品になる。  この句の作者は、こんな食い気などではなく、蕗の風情を愛でながら茶を一服点てようかといった優雅な気分で詠んだものなのだろう。確かに、素直にこの句を読み返せば、蕗の一叢がそよぎ、白っぽい葉裏を見せながら、涼風を送ってくれる夏の朝が浮かんでくる。 (水 23.07.16.)

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素手で魚捕まえる子ら雲の峰   金田 青水

素手で魚捕まえる子ら雲の峰   金田 青水 『この一句』  魚獲りに興じる子供たちと入道雲を対比して描いた夏らしい一句である。一読して、少年の頃川に石を積んで、鮎を素手で捕まえたことを思い出した。鼻奥にスイカに似た鮎の匂いも蘇り、嬉しくなって点を入れた。  昭和三十年代までは日本はまだ貧しく、魚獲り用の大きな網を持っている子供は少なかった。魚を浅瀬に追い込んだり、潜って岩陰を探ったりして素手で捕まえる工夫をしたものである。評者の田舎では鮎を獲る時は浅瀬に石を楕円形に積んで小さなプールを作り、川下に開けた口から鮎が入ったらふさいで捕まえた。  掲句はそんな時代の少年たちの夏の日を活き活きと描いている。なにより「素手で」が眼目で、パンツ一枚で川で遊ぶ少年の姿や、捕まえた魚のヌルヌルする手触りや匂いまで想起される。素手で獲るという手元の描写から、遠景の雄大な雲の峰へ視線を転じさせる遠近の対比も効果的だ。子供たちが自然に抱かれ、伸び伸びと遊んでいた古き良き時代へのノスタルジーも感じる。  作者は新潟県糸魚川市の郊外のご出身と聞いたことがある。句会では「昔の実体験をそのまま句にしました」と語っていたが、どこの川でどんな魚を捕まえていたのであろうか。川で遊ぶ少年たちと大きな白い雲、まさに夏を切り取った水彩画のような句である。 (迷 23.07.14.)

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乱読も楽しからずや梅雨の夜   和泉田 守

乱読も楽しからずや梅雨の夜   和泉田 守 『この一句』  「乱読」は「濫読」とも書くように、手当たり次第に手近にある本を読むことだ。しかし、本好きの人たちは大概“乱読派”なのではないか。新刊、古本問わず、本屋で目についたものを買って来て書棚に置く。書棚は既に二重三重になっていて、奥に何があるか分からないほどになっている。  こういう人にとって、長梅雨はツンドク本整理の絶好の機会だ。周りの人達が「ああまた今日も雨」とうんざり顔のこんな日こそ、どこそこへ行こうなどという浮気心を起こさずに、腰を据えて本が読める。昼間からずーっと、書棚と自分の机との間を行き来する以外は本と付き合っている。  「そう言えば、この問題についてはあの本があったな」と思い出し、それを探しに立ち上がる。ついでに、読みたいと思って買ってきたのにそのままにしてあった本に気がついて、それも持って来る。こうして、机の上はもちろん、椅子の周りにまで十数冊の山が出来てしまう。気がつけば夜もだいぶ更けている。本棚整理は「又の機会」となる。  作者は「乱読も楽しからずや」と言っている。何たる時間の浪費かという自嘲もちょっぴりうかがえるが、九割方はこれぞ至福の時という気分に浸っているようだ。長梅雨も味方につける愛書家の面目躍如たる句ではないか。 (水 23.07.13.)

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在宅の夫に蒲焼持ち帰る     前島 厳水

在宅の夫に蒲焼持ち帰る     前島 厳水 『合評会から』(番町喜楽会) てる夫 これは、奥さんが夫に持ち帰るケースですね。ふつうは、亭主が外でおいしい鰻を食べ、家で待っている奥さんに「はい、これ、鰻だよ」と差し出すのだけれど・・・。 而云 現在は奥さんが勤めに出ているのでしょう。旦那さんはもうリタイアかな。 水牛 昔は亭主が山の神のご機嫌を取るために、よく蒲焼を土産にしたもんだけれども、これは逆。面白いねぇ。亭主は、コロナにでも罹って家に閉じ込められているのかな。 的中(メール選評) リモートワークの夫か。それとも年配のご主人か。共働きで、勤務帰りの奥様、奥様の場合は外出でしょう。夫を気遣って蒲焼を持ち帰るところが微笑ましい。 水兎(同) 奥様はお勤めか、それともお出かけか。お留守番の旦那様に鰻のお土産なのでしょう。シンプルに詠まれた句ですが、奥様のご主人への特別な思いを感じました。 幻水(作者) ありがとうございます。娘の話です。娘の旦那は、今はやりのテレワーク中だそうです。            *       *       *  たまには我が家でも、と思うが・・・、状況的に無理か。専業主婦ですから。 (恂 23.07.12.)

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万緑や休み休みの七曲り     加藤 明生

万緑や休み休みの七曲り     加藤 明生 『季のことば』  中村草田男は昭和十四年、『万緑の中や吾子の歯生え初むる』と詠んで、俳句界に衝撃を与えた。高浜虚子がすぐさま『万緑の万物の中大仏』と詠み、飯田蛇笏が『万緑になじむ風鈴夜も昼も』、石田波郷が『万緑を顧るべし山毛欅峠』、山口青邨が『万緑の中さやさやと楓あり』というように、当時の俳壇のボスたちがこぞって唱和したから、「万緑」は完全に季語として定着した。  「万緑」は王安石の『石榴詩』の中の「万緑叢中紅一点」という句から出た言葉である。ただ、季語としての「万緑」はこの詩の万緑とはちょっと趣を異にする。ましてや今日下世話に用いられる「紅一点」などという言い回しの元になった万緑とは全然レベルが違う。草田男はこの句で、人間が人として生きて育ってゆく最初の証しとして、「生え初むる」我が子の歯を提示し、それを育む大自然の力を象徴するものとして「万緑」という言葉を据えた。ここで言う万緑は生命感、躍動感そのものである。一生のうち一つでも、こういう『季のことば』を作ることができたらと希うのは凡人の見果てぬ夢か。  みなぎる力の象徴のような「万緑」は、若者にはさらなる力を呼び起こしてくれるものとなるが、体力の衰え始めた年の行った人間には強烈過ぎるかもしれない。この句からもちょっとそうした気分がうかがえる。勇んで家を出たはいいが、上りにかかるとすぐに喘ぎ出す。見上げればつづら折りの山道はまだかなりある。輝く濃緑の木々が覆いかぶさってきて押しつぶされて…

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桶に居て鰻は客に覗かるる    今泉 而云

桶に居て鰻は客に覗かるる    今泉 而云 『合評会から』(番町喜楽会) 双歩 鰻の視点という工夫を買います。上田五千石の「渡り鳥みるみるわれの小さくなり」と同じ発想ですが面白いですね。 白山 「蒲焼の匂ひくぐりて成田山」という句もありましたが、この句も成田山の参道の様子を詠んだ句ではないでしょうか? 水馬 視点の面白い句だなあと思いました。           *       *       *  白山さん同様、筆者も成田山の参道にある店先で桶に入った鰻を捌いている光景に違いないと思った。ところが、作者によれば、これは三島にある有名な鰻屋で、店の裏側から入ると、生簀の鰻を見ることが出来るとのこと。  この日詠まれた鰻の句は三十句。大半は鰻全般を詠んだ句であるが、地名や店名を読み込んだ句も多く、分布をとってみた。二句詠まれたのが成田山と三島。掲句には三島の地名はないが、作者自解により三島とカウントした。一句だけの地名は、佐原、浅草、川越、四万十。具体的な店名は、「きくかわ」・「うな正」、なんと「吉野家」という傑作もあった。それぞれの詠み手の来歴や居住地も反映して、こだわりのあることがよく知れて面白い。  掲句の良さが、まさにお二人が指摘されたとおり、視点の面白さにあるのは言うをまたないところである。さんざん客に覗かれた挙句、目打ちされて裂かれる鰻に、ちょっとペーソスも感じられる句である。 (可 23.07.10.)

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黄金虫通帳ながめ吐息つく    中野 枕流

黄金虫通帳ながめ吐息つく    中野 枕流 『この一句』  句会でこの句を見つけて思わず笑いがこみ上げた。この句会は新聞社のOBを中心に、その友人知己と、現役ぱりぱりも含めた集まりである。変な言い方だが、経済的にはまずまず安穏なレベルの人たちだ。そこに突然、預金通帳の残高云々が出てきたのである。  今回の兼題は「黄金虫」。近頃、東京近辺では黄金虫をあまり見かけなくなってしまったので、急にそれを詠めと言われても、参加者一同「どうしよう」と困ったらしい。大方は昔の思い出を手繰り寄せて、明るい窓にぶつかって来る黄金虫や、地面に落ちてじたばたしている様子を詠んだ句が多かった。そうした紋切り型の並ぶ選句表の中で、この句は一際目立った。  おそらく大正昭和の童謡詩人野口雨情の「黄金虫」に触発された句であろう。この童謡がまた実にヘンチクリンで、面白い。   こがねむしはかねもちだ   かねぐらたてたくらたてた   あめやでみずあめかってきた というのである。二番は最後のフレーズが「こどもにみずあめなめさせた」となっている。とにかく何のことやらさっぱり分からない唄だが、私などは子供の頃面白がってしきりに歌った。  いまどきの黄金虫は水飴ではなく通帳ながめて「あーあ」と言っているのだろうか。 (水 23.07.09.)

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