日本に生れて嬉し冷奴      大澤 水牛

日本に生れて嬉し冷奴      大澤 水牛 『季のことば』  夏の冷奴、冬の湯豆腐は、庶民の味方の双璧だ。何しろ豆腐は安価だ。物みな高騰する今日、スーパーでは一丁百円かそこらで買える。何より手間が要らない。せいぜいが、薬味を刻むくらいだ。しかも、飽きがこない。それでいていつ食べても旨い。こんな優秀な食べ物は世界広しといえど、そうそうないのではなかろうか。かくして「日本に生まれて嬉し」となるのも頷けるというものだ。  句会では、谷川水馬さんの「手刀を切って一人の冷奴」という句もあって、同工異曲ではないかと思った。手刀は人前をよぎるときなどに、儀礼として行うこともあるが、この句の場合は大相撲の勝ち力士が懸賞を受け取る時の所作だろう。普通の人でも何か褒美でも貰って、ちょっとおどけて手刀を切る事がある。「日本に生れて嬉し冷奴」を前に、思わず手刀を切りたくなる気持もまた、十分に理解できる。  ところで最近、季語に「縦題」と「横題」とがある事を知った。和歌以来の伝統的な季節の言葉を「縦題(竪題)」と呼び、俳諧によって加えられた季節の言葉を「横題」というそうだ。さしずめ「冷奴」は、宮邸などで食する雅な食べ物ではなく、長屋に住む熊さん八っつぁんが似合いそうな、堂々たる「横題」だろう。 (双 23.06.07.)

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手術日の決まり新樹を見上げをり 向井 愉里

手術日の決まり新樹を見上げをり 向井 愉里 『合評会から』(日経俳句会) 迷哲 手術を控えて、緑豊かな木を見上げ、頑張って行こうと。そういう心の動きが見えるようです。 双歩 自分史俳句というか、日記に書くような言葉で俳句を詠む。手術日が決まって、周りを見たら新樹が鮮やかに輝いていた。気持がほっとしたと思わせる感じが出ています。 雀九 手術は怖いと思われてますけど、この句はそんなに怖がってはいないような気がします。これですっきりしたという事で周りを見たら、新樹が盛んだという事で、自分の気持を詠んだんだろうと。 青水 八音と九音を組み合わせ、前半で作者が置かれた状況を、後半で季語に託した心情を表現した。作者の気持ちが詩情豊かに伝わって来ました。 静舟 覚悟して、新樹の生きる逞しさに身を任す。いいですね。 操 新樹の放つエネルギーに心身ともに力が湧いてくる。心穏やかにその日を迎えられる。 定利 佳い結果になりますように!           *       *       *  夫の耳下のこぶの手術が、コロナが明けてやっと決まった。「本人もすっきりしただろうと、ほっとした気分がありまして」という。愛する伴侶の手術、大した危険は無いと言われているものの、やはり気になり、新樹を見上げて思いにふけっている。ともかく「新樹を見上げ」がいい。 (水 23.06.06.)

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朝日射す庭いっぱいの五月かな  後藤 尚弘

朝日射す庭いっぱいの五月かな  後藤 尚弘 『この一句』  雑事にかまけて当欄への執筆を少々怠り、カレンダーを眺めて「しまった」と思った。掲句の季はまさに「五月」なのだが、掲載時は六月に入らざるを得ない。元日刊紙の記者として当然、「この句のテーマは五月晴れ。五月中に『みんなの俳句』に載せたい」と思う。しかしすでに梅雨さ中を思わせる日々。作者にも読者にも、申し訳ない、と謝るばかりである。  三四郎句会でのこの一句。会員たちからは「朝日が“庭いっぱい”なのではない。“五月がいっぱい”なのだ。そこがいい」などの発言が続き、なかなかの好評であった。掲載の後れは作者に謝るとして、“活きのいい刺身を翌日の朝に出すようなものだ”と諦める。その一方で、皆様には、五月の陽光に満ちた居間で、この句に接して頂きたかった、との思いも残った。  そんな時、句の作者から別件の電話があったので、さっそく「庭」のことを質問する。「この土地を買ったのは四十年も前のことですよ」「初めは庭師に頼んで、灯籠や石を入れてみたが、ああいうものはどうも・・・」「今はサツキ、ツツジ、水仙、福寿草もなんかも咲いているようです」。”五月がいっぱいの庭”は、どうやら奥様の作品、と推測された。 (恂 23.06.05.)

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バフムトの戦野を照らす夏の月  流合 水澄

バフムトの戦野を照らす夏の月  流合 水澄 『この一句』  ウクライナ戦争はどう言い繕ってもロシアに非がある。ウクライナはロシアと歴史的に深いつながりを持ち、旧ソ連邦の有力な構成国であり、国内にロシア系住民も多い。にも拘らずロシアと敵対するNATOに友好的態度を取るのはけしからんというのがプーチンはじめ現ロシア政権の言い分だ。しかしそれを理由に武力行使するのはいかに何でも乱暴である。  私達の日本も80数年前、今のロシアと同じような戦争を起こし、中国大陸に攻め込んだ。結局は目も当てられぬ敗戦で一億国民は塗炭の苦しみにあえいだ。  この句の作者は第二次大戦の日本の惨状など知らない世代である。多分、ウクライナにも行ったことはあるまい。というわけで、「見た事もないところを見てきたように詠むのはいかがなものか」という意見が出るかもしれない。しかしそれは全く違う。見たこともない世界をのぞき、見てきたように描き出すのが俳人である。  蕪村に「揚州の津も見えそめて雲の峰」という句がある。行ったことも見たこともない揚州をこう詠んだ。書物から得た憧れの地である。蕪村には歴史に遊び、空想的世界を詠んだ名句が多い。揚州は中国江蘇省中西部の長江(揚子江)北岸の港湾都市。唐宗時代、日本が先進文化を取り入れるための門戸であった。蕪村がこの句を提示すれば、仲間の俳人たちはなるほどとうなずき、それぞれ行ったことのない揚州の港を思い描く。俳句にはそうした面白味と言うか広がりがある。 (水 23.06.04.)

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蟇出でて文句あるかの面構   玉田 春陽子

蟇出でて文句あるかの面構   玉田 春陽子 『この一句』  この句の季語は「蟇」すなわち「ひきがえる」。なんともユニークな貌をしていて、作者はそれを「文句あるかの面構」と詠んでいる。喧嘩腰の言葉のようにも思えるが、俺は生まれつきこんな貌、誰にとやかくいわれる筋合いのものでもない、と開き直っていると捉えるのが正解だろう。この句会では「じつと何か考えている蟇」、「大海の海鼠を知るや蝦蟇」という句も出された。いずれも蛙の貌つきや見た目を詠んだ句である。  蛙は漫画の題材にされることも多い。古くは国宝「鳥獣人物戯画」。兎と弓競べをしたり、相撲を取ったり、人間に擬して描かれている。わたしたちの世代にとって馴染み深いのは、Tシャツの中に棲息するピョン吉が活躍する「ど根性ガエル」。ずっと後のものでは、ジブリ映画の「千と千尋の神隠し」の烏帽子をつけた蛙達も印象深い。いずれも、人間と親和性が高く、コミカルなキャラクターとして蛙が描かれている。  この句を引き立てているのは、なんといっても「面構」だろう。この言葉が下五に置かれたことで一句の重みが増し、蟇の貌のみならず、鎮座する姿まで生き生きと目に浮かぶようだ。作者の言葉のセンスの良さをあらためて感じさせられた。 (可 23.06.02.)

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戦争はテレビの中や新茶飲む   嵐田 双歩

戦争はテレビの中や新茶飲む   嵐田 双歩 『合評会から』(酔吟会) 而云 この通りですね。反省という訳ではないけれど、こんなことでいいのかと思います。 春陽子 おおかたの年寄りはこんな感じを抱いているのじゃないでしょうか。お茶を飲みながら戦争報道を見ていて、我々はどうしたらいいのかなんて思っている。いい句というより、鋭い句だと思いました。 青水 時事句ですね。そこにうまいこと季語の「新茶」をはめた。 水馬 ウクライナの句ですね。人を惹きつけるパワーがあります。 水牛 平和ボケというのか、幸せボケというのか、戦争大変だねと言ったって、しょせんテレビの中のこと。新茶だ、古茶だと言っている場合じゃないのだけれど・・。「新茶飲む」より「新茶汲む」の方が良いように思ったんですけどね。 双歩(作者) 今の話なので、古風な「汲む」という言い方は避けて、あえて日常語の「飲む」にしました。テレビの中のことと済ましていていいのか、という思いを込めて詠みました。           *       *       *  合評会でのやり取りで言うべきことは尽きている。テレビに映るウクライナの悲惨な情景を見るにつけ、今から78年前、葉桜の並木が立ったままぼうぼうと燃えている下を這いずり回りながら逃げまどったことを思い出す。あの横浜大空襲はまさに新茶の季節であり、新茶どころではない季節だった。 (23.06.01.水)

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