梅雨晴や庭に陣取る畳職     徳永 木葉

梅雨晴や庭に陣取る畳職     徳永 木葉 『この一句』  子供の頃に庭先で見た光景を思い出し、懐かしさから思わず一票を入れた。昔の畳屋は畳を納入したり表替えをする時は、注文先の家庭に出向き、庭で仕事をするのが一般的だった。「大工殺すに刃物は要らぬ、雨の三日も降ればよい」との俗諺があるが、畳屋にとっても晴れか雨かは暮らしに関わる問題だった。  梅雨晴とは梅雨のさなかに晴れ上がることをさす。降り続く雨に仕事が出来ずじりじりしていた畳屋は、さっそく得意先の庭に作業台を設けて仕事にかかる。「庭に陣取る」の措辞が軽妙で、稼ぎ時が来たと張り切る畳職人の弾む気分をよく表している。  畳は稲わらを締め固めた「畳床」に、い草を編んだ「畳表」をかぶせ、織物の「畳縁」を縫い付けたシンプルな構造である。畳床は手入れが良ければ50年近く持つが、畳表は3~5年で「裏返し」、さらに3~5年で「表替え」をする必要がある。畳屋はこの裏返し、表替えのため得意先で定期的に作業をしていた。職人が太い針と糸をあやつり、畳縁を縫い付けていく。江戸川柳に「畳刺し肘も道具の内へいれ」とあるように、作業は力感にあふれ、何時間見ていても飽きなかった。  しかし近年は機械化が進み、こうした職人技は見られなくなっている。表替えなどの際は畳を外してトラックで持ち帰り、機械で交換しているという。江戸時代の俳句や川柳には、当時の暮らしや文化が息づいている。消え去った昭和の暮らしを詠みとめた掲句も、歴史の小さなタイムカプセルのように思えてき…

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双牛の代掻き成るや田の肥ゆる  高井 百子

双牛の代掻き成るや田の肥ゆる  高井 百子 『この一句』  なんの前触れもなくこの句を読むと多々疑問が沸く。季語は「代掻き」、田の底を掻く作業をあらわす初夏の季語である。一つ目は、いまでも牛に代掻きをさせる地域があるのだろうか、という疑問。二つ目は、しかも「双牛」というのだから、牛を二頭連ねて代掻きをするということである。南西諸島のどこかだろうか、あるいは、田植神事の一齣だろうかなどと考えてしまう。  この句の「双牛」とは、このコラムが掲載されているホームページの運営母体である「NPO法人双牛舎」の創設者であり、現在も共同代表である大澤水紀雄、今泉恂之介両氏のことである。双牛舎は平成19(2007)年4月に、俳句専門機関として、初めてNPO法人の認証を受けた団体である。両氏ともに昭和12(1937)年の丑年生まれであることから、法人名は「双牛舎」とされた。しかも、両氏はともに上智大独文卒、日経新聞OBという切っても切れない間柄である。  この句は、令和5年6月10日、コロナ禍が明けて4年ぶりに開催された双牛舎俳句大会に寄せられたもので、「代掻き」に仮託して、両氏の積年の功労に敬意と感謝の意を表した挨拶句である。たまたま、この日の大会では両氏ともに群を抜く高得点で「天」をとられた。まことに、慶賀の至りというほかない。 (可 23.06.18.)

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青梅雨や古社千年の杉木立    堤 てる夫

青梅雨や古社千年の杉木立    堤 てる夫 『合評会から』(NPO法人双牛舎令和5年俳句大会) 操 季語と内容が良く合っています。 光迷 きれいな杉木立の様がイメージできます。 木葉 その場にいるような気持になりました。季語がとてもうまく合っています。 可升 青梅雨は新緑に雨が降るイメージ。じめじめした梅雨のイメージではなく、明るさがある。戸隠神社を思い浮かべたが、どこだろう。「古社千年の杉木立」と一気に詠んだのがいい。 三代 自然に浸ったような雰囲気が良かったのでいただきました。 二堂 雨に濡れて大きな杉がさぞ立派に、生き生きと感じたことでしょう。 正義 (こうした情景に身を置く)経験豊富、慣れっこです。           *       *       *  コロナ自粛明け満を持しての俳句大会にたくさん寄せられた投句中、一番格調の高い句だと思って採った。やはり同じ思いの人が多くて、堂々「地」賞に輝いた。この句の眼目はなんと言っても季語の青梅雨。これがぴったりだという声が圧倒的だった。  信州上田の塩田平に移り住んでもう10数年の作者夫妻は、近隣の情景を四季折々に詠んで飽くことを知らない。今や塩田平の俳人になりきっている。この句も名山独鈷山の麓、前山塩野神社の神さびる杉木立が、走り梅雨に青々と輝く情景をうたいあげたものだ。実に堂々として気持が良い。 (水 23.06.16.)

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合掌の肘に傘提げ梅雨の葬    今泉 而云

合掌の肘に傘提げ梅雨の葬    今泉 而云 『この一句』  何と上手い描写だろう、と一読、感服した。読み下しながら、筆者が感じたことを順を追って述べると次のようになる。「合掌の肘に傘下げ」――手を合わせて拝む姿勢だと、畳んだ傘は肘に下げるしかないよね。「梅雨の」――この時分は傘は手放せないし。「葬」――あっ、葬儀のワンシーンなのか。とまあ、最後の「葬」まで読んで、ようやく状況が明確になる仕掛けだ。たった十七音で作者の仕草、置かれた状況をはじめ、周りの風景まで見えてくるではないか。同じ情景に筆者が出会っても、ここまでさりげなく、しかも正確に描写するのは無理だ。先ごろ行われた双牛舎俳句大会で「天」に輝いた一句である。  双牛舎は、俳句の普及・振興を目的に2007年に発足したNPO 法人で、このブログの発信元だ。会員には日経俳句会、番町喜楽会、三四郎句会の3句会のメンバーが連なる。「双牛舎」の名の由来は、創設した大澤水牛さんと今泉而雲さんが二人とも丑年だったことに因んでいる。  この日、掲句とともに、水牛さんの「処方箋一行増えて梅雨に入る」が同点の11点を獲得した。この作品も説明は不要、しみじみとした実に素晴らしい一句だ。コロナ禍で4年振りの俳句大会の開催となったが、冠大会で創設者二人が仲良く「天」を分け合うという何とも粋な結果となり、万雷の拍手を浴びた。 (双 23.06.15.)

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シャボンの香残す少女や夕蛍   廣田 可升 

シャボンの香残す少女や夕蛍   廣田 可升  『合評会から』(番町喜楽会) 愉里 現実の風景ではなく想像の句かなとも思いますが、清らかでいい絵だと思いました。 てる夫 こういう目に会ってみたいですね。風呂上がりのお嬢さんが蛍狩りにきて…。 而云 「シャボン」は最近使わない言葉ですね。昔の思い出を詠んだ句の気がします。 斗詩子 お風呂上りに浴衣を着て親に手を引かれ蛍狩りに来た少女の嬉しそうな様子が目に浮かびます。 青水 「シャボンの香を残す少女」はもはや常套句のようになっていて、どんな下五にも付く気がします。           *       *       *  なんとも懐かしい感じのただよう、敢えて言えば郷愁の一句である。東京オリンピック、といっても令和のではなく、昭和のそれが行われた頃、東京の世田谷にも田圃があり蛍が飛んでいた。現在は地下を走っている田園都市線が玉電と呼ばれた路面電車だった時代のこと。  それに「シャボン」という言葉も古めかしく、石鹸もあまり使われなくなった。いまはシャンプーにリンス、ボディーソープなど。「蛍が姿を消したのは農薬のせい」などとされるが、高度成長で物は豊かになったものの心は貧しくなったような気もする。 (光 23.06.14.)

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粉を吹きし羊羹切って新茶かな  須藤 光迷

粉を吹きし羊羹切って新茶かな  須藤 光迷 『合評会から』(酔吟会) 而云 顔見知りがやって来たので余りものの羊羹と新茶を出したのでしょうか。そんな雰囲気のある面白い句です。 水馬 糖尿病患者に言わせると、「粉を吹きし羊羹」なんて、こんな恐ろしいものはありません(笑)。あんな美味しいものはなく、糖尿病患者だってほんとうは食べたい。羨ましいかぎりの句です。           *       *       *  この句を見て五〇年前が蘇った。1970年代初め、チェコのプラハ特派員になった。ソ連邦の圧政から逃れようとチェコ国民が「自由化宣言」をしたら、ソ連は戦車を乗り入れて武力鎮圧した。いわゆる「プラハの春」事件である。プラハに住んで東欧8カ国をぐるぐる周り、実情を日本に伝える任務を負わされた。仕事はやり甲斐のあるものだったが、食料も衣料も欠乏し困窮した。  そんな時、日本から来た人がおみやげに虎屋の羊羹を二棹くれた。親子三人と助手を務めてくれていた日本人留学生とで一本を押し戴くように食べた。もう一棹は大事にしまっておいた。一年半くらい経って、誰かの誕生日かなにかに引っ張り出して食べた。羊羹は少し痩せて、周りに砂糖の結晶がびっしり着いて、きらきら輝いていた。「どうかな、大丈夫かな」とごりごり切って食べた。結晶部分はしゃりしゃりするが、中身は紫黒色の艶を持ち、全く変質していない。これには感激した。これまた取って置きの古茶がしみじみとした味わいだった。 (水 23.06.13.)

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大ぶりも小ぶりも細し薔薇の首  中嶋 阿猿

大ぶりも小ぶりも細し薔薇の首  中嶋 阿猿 『季のことば』  薔薇(ばら)はバラ科バラ属の総称で、北半球の温帯域に約200種類の野生のバラが自生しているという。水牛歳時記によれば、俳句で薔薇と言えば、花の色が多彩で華麗な西洋薔薇か中国渡来の薔薇をさす。一年中目にするが、元々の花の盛りである夏(初夏)の季語とされる。日本原産の野いばらは季語としての薔薇には含まれず、「野茨(あるいは花茨)」という別の夏の季語となっている。同歳時記は「俳諧的感覚からすれば、派手な薔薇と白く清楚な野いばらは到底一緒になれないということであろうか」と解説している。  掲句の薔薇は、当然あでやかに咲く西洋薔薇であろう。句は花を直接叙述せず、それを支える首(茎)を詠む。「大ぶりも小ぶりも細し」と強調することによって、その細い首に支えられた花の形、重さを想像させる。句会では「薔薇の首の細さを発見した句」(三薬)とか、「観察眼の冴え」(健史)など着眼の良さを評価する声が多く、高点を得た。  さらに言葉の選択、語順の工夫も見逃せない。「大ぶりも小ぶりも細し」という謎かけのような対句表現のリズム。下五の「薔薇の首」で謎が解け、確かにそうだなと思わせる説得力。そして細い首の先の薔薇の花に読者のイメージをいざなう展開。見たままを詠んだ写生句のようで、実は技巧を凝らした句に思えてくる。 (迷 23.06.12.)

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何処よりみずすましきて池の澄む 野田 冷峰

何処よりみずすましきて池の澄む 野田 冷峰 『季のことば』  「水澄まし」という昆虫には二種類ある。まず生物分類学で言うミズスマシは、黒豆のような光沢のある甲虫で鞘翅目ミズスマシ科。池や流れのゆるやかな小川の水面をくるくるくるくる忙しく回っている体長5ミリほどの昆虫である。水面を舞い踊るように見えるので「まいまい」とも呼ばれる。  もう一つのミズスマシは「あめんぼう」とも呼ばれ、長い足で水面を滑るように走ったり跳ねたりする虫である。半翅目アメンボ科の昆虫。捉まえると飴のような匂いがするので「飴ん棒」と言われるようになったとの説がある。極めて軽い体重で、糸のように細く長い足の先に細かな毛が生えて水をはじくようになっており、水の表面張力を利用して身体を浮かせ、水面滑走ができる。  どちらも夏場の雨上がりの水溜りなどに飛んで来る。というわけで、作者は「まいまい」のみずすましを詠んだのに、読者はアメンボを思い描くといった“行き違い”がしばしば起こる。しかしまあ、これは致命的な誤解というほどのものではない。まいまいもアメンボも出現の季節もほぼ同じ、5,6月の雨上がりの水辺を賑わす小さな役者で、見る人を楽しませ和ませてくれるところも一緒だからだ。  この句のみずすましは、さて「まいまい」か「アメンボ」か。これはとても分からない。読者が好きな方を選んで、情景を思い描けばいい、という実に面白い句だ。 (水 23.06.11.)

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あの人もあの人もいた蛍の夜   星川 水兎

あの人もあの人もいた蛍の夜   星川 水兎 『合評会から』(番町喜楽会) 百子 「あの人も」のリフレインに思い出の濃さを感じます。蛍吟行をした時にはお元気だったのに、その後亡くなられた方のお名前が具体的に浮かびます。 迷哲 蛍のはかない光には死のイメージがつきまといます。蛍狩りのことを思い浮かべて、しみじみと詠まれた句です。 春陽子 アルバムを開いているのでしょうか。「あの人も」のリフレインが効果的です。 而云 蛍の記憶と言えばやはり青木村吟行です。「あの人もこの人も」ではなく、やはり「あの人もあの人も」なんだとしみじみ思います。 青水 心に深く残る夕闇の風景を巧みに詠んだ句です。推敲を重ねた句だと思います。 双歩 当時一緒に蛍を見た句友が次々に他界してしまった。口調からすれば「あの人もこの人も」でしょうか。           *       *       *  「蛍の夜」は2016年6月、信州青木村蛍吟行の夜である。十七名の参加者のうち、お二人が亡くなられている。最初この句を読んだ時に、双歩さん同様、「あの人もあの人も」は口調が悪いように思われた。しかし、何度か読み返してみると、その口調の悪さに、作者の故人に対する思いの深さが、かえって表れているように思えた。  闇に光る蛍には、どこか死者や魂のイメージがつきまとう。この句を読むと、あの湧き上がるような蛍の群れと、亡くなられたお二人の笑顔が眼裏に浮かんでくる。 (可 23.06.09.)

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竹の子のいのち確かめ藪を踏む  河村 有弘

竹の子のいのち確かめ藪を踏む  河村 有弘 『季のことば』  竹は他の植物との協調性がなく自分本位、そして自己主張を強く表す植物であると思う。俳句の季語が、その本質を表しており、「竹の春」と言えば「秋」の季語、そして「竹の秋」なら「春」の季語にしてしまうのだ。即ち竹は、春になれば枯れ葉をハラハラと落とし、秋になれば緑の新らたな葉をぐんぐん伸ばし、竹の世の“秋と春”を人々に告げるのである。  孟宗竹の皮は竹の中でも特に丈夫で、かつては草履や笠の材料になった。その皮の集団的な自己犠牲も他の植物に類例を見ない。地に落ちた葉は自らの勢力圏に散り積もり、根を張り巡らし、他の植物の侵入を許さない。そうして出来上った竹林の地面は、竹皮の堆積地のようなものだ。竹の子(筍)はつまり、そのような「竹帝国」に守られ、成長を続けていく。  句の作者の住居近くに、このような竹林があるのだと思う。朝・夕など、静かな雰囲気を求めて散歩に出ると、竹林に出会う。垣根がないと見れば、ちょっと失礼、とばかりに竹林に足を踏み入れ、ふわふわの地面を踏み、進んで行く。すると、作者は足裏に微妙な固さ感じ、竹の子の命を一つ一つ確かめていく。何ともうらやましい感触、と私は思っている。 (恂 23.06.08.)

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