坪庭をうずめ十薬白十字     堤 てる夫

坪庭をうずめ十薬白十字     堤 てる夫 『季のことば』  十薬とはドクダミのこと。日陰や湿った場所を好んで繁殖する。葉はハート形で、「梅雨時に茎頂に十字形の白い花をつける。この花と見えるのは実は葉の変形した苞(ほう)で、本当の花は十字花の中心に立った黄色の穂である」(水牛歳時記)という“花”をつける夏の季語である。古くから漢方の生薬として使われ、薬効が多いことから十薬と呼ばれる。  掲句は十薬の姿と性質を、見たままに素直に詠んでいる。句会で高点を得たが、議論の材料を提供した句でもある。まず「坪庭は手入れが行き届いているもので、ドクダミが生えたりしないのではないか」という疑問。作者によれば風呂場の脇に作られた坪庭だが、いつの間にかドクダミが繁茂しているという。ドクダミは種子が飛んで増殖するだけでなく、地下茎を延ばしても増える。油断していると小さな坪庭などあっという間に占領される。「坪庭をうずめ」の表現は、そうしたドクダミの特質を述べつつ、したやられたとの作者の思いも滲んでいる。  さらに「十薬と白十字は同じドクダミを表しており、どうしてもだぶる」という指摘があった。しかし白十字は十字型の苞片を叙述したもので、ドクダミそのものを意味しない。歳時記には川端茅舎の「どくだみや真昼の闇に白十字」の句もある。作者は「十薬白十字」と重ねることで、嫌われ者のドクダミに可憐な白十字を見つけた喜びを強調したかったのではなかろうか。 (迷 23.06.30.)

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ゆすらうめ幸運なんていつも小粒  徳永木葉

ゆすらうめ幸運なんていつも小粒  徳永木葉 『合評会から』(日経俳句会合同句会) 朗 幸運なんて意外とさり気ないものなのかも知れませんね。 双歩 ゆすらうめは微かな甘みや可愛らしさがいいし、いつも小粒と上手いこと掛けたと思いました。ゆすらうめはたくさん成るので、幸運は小さいけどいっぱいあるとそんな気もしますね。 健史 大胆で勢いがあってユーモラス。下五の字余りが小気味よい。 道子 山桜桃、小粒のサクランボのようでほのかな甘さと野趣、やはり幸せも実も小粒がよい。 てる夫 いつも小粒というのは真理なのかな。ものすごく大きな幸運だってあるある。ゆすらうめよりも大きな幸運に出会ったことがありますから。 三楽 幸運なんていう言い方が、どうも気に入らない。幸運に恵まれたら、ありがたいと思え感謝しろ、でしょう。「なんて」という言い方をされるとムカつきます。           *       *       *  最近の俳句雑誌によく出てくるような詠み方で、若い人か女性の句かなと思ったらなんと・・。ゆすらうめの在りようと、幸運なんていつも小粒という言葉がうまく合って、とても面白い。毒づいている三薬さんも実は大いに感心している気配だ。 (水 23.06.29.)

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父の日や無口息子のメール来る  髙石 昌魚

父の日や無口息子のメール来る  髙石 昌魚 『合評会から』(日経俳句会) 木葉 父の日に普段無口な息子が、ちゃんとメールを送ってきたという微笑ましい情景が浮かぶ。 三代 女の子って違って、男の子ってあんまり父親とは口をきかないのが、そっとメールで送ってくれたら微笑ましいし、その心情がすごく分かっていいなと思いました。 百子 子供はいつも親の子と思っているのですね。ありがたいです。 明生 今どきの息子と親父の距離間を上手に表した句だと思いまです。            *       *       *  母親と娘の仲が良く、おしゃべり好きなのは一般的だが、父親と息子の関係は複雑である。幼い頃は畏怖と尊敬の対象であっても、息子が思春期を迎える頃には乗り越えるべき壁となる。つい反抗的な態度をとり、会話も必要最小限になる。そうした体験が尾を引き、ぎくしゃくした関係の父と息子は多い。  掲句は父の日に絡めて、息子との思いがけない心の交流を描き、共感を得た。作者の息子さんが生来の無口なのか、わだかまりがあって会話が少ないのかは不明だが、「無口息子」の四文字がいろんな状況を想像させる。そんな息子から届いたお祝いのメール。事実を淡々と詠んだ句である故に、よくぞ送ってくれたとの作者の喜びが言外に伝わってくる。  作者は句会最長老の94歳。この年齢でメールを使いこなす精神の若さに驚くが、メールでは伝えきれない思いもある。作者はこの後、息子さんに電話し、久しぶりに語り合ったと想像したい。 …

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しばし待てらっきょう漬けてまだ十日 斉藤早苗

しばし待てらっきょう漬けてまだ十日 斉藤早苗 『合評会から』(日経俳句会合同句会) 三楽 私もらっきょうを塩漬けしていますが、確かに十日だとまだ早いです。二週間から一か月弱ぐらいがちょうどいいので共感いたしました。句としてはたいしたことはないですが(笑)。 春陽子 私食べる人、私漬ける人の会話。情景がよく出ていて楽しい句です。 沈流 まだ漬かっていないのは分かりつつ、カレー(?)を作ったのでつい開けたくなったのでしょうか。 光迷 何と気の早い人か、と。常備している酒の肴が切れたのかも。           *       *       *  司会者が「作者は長期休養明け、前回から復帰、久々の投句で四点も獲得しました」と紹介し、出席者から「よかった」の声が沸き起こった。パリパリの現役社員はどうしても仕事をたくさん背負い込んでしまうから、平日夕方からの句会には出にくい。欠席が続くと句作にも力が入らず、投句もしなくなる。そして、やがて自然退会、せっかく取り付いた俳句も二合目か三合目で引き返すという寂しい結末をたどる人がかなりいる。  しかし、この人は根性があって、颯爽再登場。こういう若い人が活動してくれると俳句会は俄然イキが良くなる。嬉しくなった私は「ちょっと辛いけれど、十日でも塩らっきょうは美味しいよ。そういえば、この作者にもちょっとそんなところがあるなあ」などと余計なことを口走った。 (水 23.06.27.)

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炭坑節聞こえ来る夜の黄金虫   鈴木 雀九

炭坑節聞こえ来る夜の黄金虫   鈴木 雀九 『この一句』  なんとも言えない懐かしさを覚える句である。兼題の季語は「黄金虫」。句を作ろうとして、そういえば最近はあまり黄金虫を見ないなと気づく。部屋の空調が行き届き、窓を開け放つことが少なくなったせいだろう。  どこかで宴会があったのだろうか、それとも季節的には少し早いが盆踊りを詠んだ句かもしれない。炭坑節は数ある民謡の中でも、もっともポピュラーな民謡である。「月が出た出た、月が出た、ヨイヨイ」の出だしから「サノヨイヨイ」まで、子供から大人まで誰もが唱和出来る歌である。  この句の魅力は「聞こえ来る夜」にあるように思う。宴会の場であれ、盆踊りであれ、作者はその渦中にはいなくて、遠くから聞こえて来る炭坑節を聞いているのである。年季の入ったさびの効いた声が、夜風にさらわれ時々掠れて聞こえるのかもしれない。  また、この「聞こえ来る夜」は、今夜でも、昨夜でもなく、遠い「あの夜」ではないかと思う。最近あまり見かけなくなった「黄金虫」と「炭坑節」の取合せが、そうに違いないと思わせるのである。距離と時間の隔たりが郷愁につながる、せつなくて味わい深い句である。 (可 23.06.26.)

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ちゃぶ台の父は動ぜず黄金虫   高井 百子

ちゃぶ台の父は動ぜず黄金虫   高井 百子 『季のことば』  掲句は日経俳句会系三句会の合同句会の兼題「黄金虫(こがねむし)」を詠んだ高点句中の一句である。黄金虫には他にも別の呼び名があり、投句には「かなぶん」「ぶんぶん」「かなぶんぶん」などの名も登場していた。句会後に「なるほど、いろんな呼び名があるのだな」と頷きつつ、ネットで検索してみたら、びっくりする説明が現れてきた。  あるサイトにはこう記されている。「コガネムシは草花を荒らす害虫」「カナブンは土壌を改善してくれる益虫です」。「コガネムシが害虫?」と我が目を疑った。生まれて八十余年の常識が覆された。さらにもう一種、ハナムグリという益虫も存在するという。ハナムグリは別に置くとして。「黄金虫=カナブン」の常識はこのままでいいのだろうか。  ネットの説明は、農業家や草花愛好家などのために書かれているのだろう。では俳句愛好家の場合はどうするか。手元にある「日本大歳時記」など五冊はすべて黄金虫とカナブンの昆虫学的な区別はつけていない。「かなぶん、ぶんぶんなどはその羽音から出た名前で」などとし、「黄金虫=かなぶん」の立場を守るが、このままでいい、とも思えない。  俳句の季語などに、百科事典のような知識を持つ大澤水牛さんはこう話す。「黄金虫、カナブン、ハナムグリは同じ仲間だが、黄金虫だけはその幼虫“ネキリムシ”が大切な野菜を片端から食ってしまうので、昔から忌み嫌われていた」。黄金虫類の世界は、益虫系、害虫系が混在しているのだ。私は腕を組…

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AIの伝ふ戦況梅雨寒し     廣田 可升

AIの伝ふ戦況梅雨寒し     廣田 可升 『この一句』  俳句振興のNPO法人である双牛舎主催の俳句大会が6月10日に開かれた。掲句はその時の「梅雨」の兼題句である。選句表で最初に目に留まり、ウクライナで起きている非人間的な戦争の本質を突いた句と心をえぐられた。AI(人工知能)は数年前まで自動翻訳や囲碁将棋のソフトとして知られたが、今や企業活動、教育、医療、娯楽などのあらゆる分野に普及している。NHKではアナウンサーの負担軽減のため、AIがニュースの一部を読み上げている。  戦場も例外ではない。ミサイルや砲弾の命中精度を上げ、無人機をコントロールする。AIに操られた兵器が前線の兵士、罪のない市民を殺傷している。そんなウクライナの戦況を、AIの抑揚に乏しい合成音声が茶の間に伝える。技術の暴走を制御できない人間の愚かさに、心が冷える。  選句表には少し離れて「激戦の地名覚えて梅雨寒し 双歩」の句もあった。読めばたちまちバフムトやマウリポリといった地名が思い浮かぶ。馴染みのなかったウクライナの地名を、世界中の人が知る〝劇場型戦争〟。この句にはテレビで見ているだけの自分を責める思いも感じられる。 ウクライナの悲劇を「梅雨寒し」の季語と取合せた兄弟のような句。俳句大会の投句64句の中の2句だが、どちらも心に響いた。 (迷 23.06.23.)

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AIに悩み相談油照り      中野 枕流

AIに悩み相談油照り      中野 枕流 『この一句』  AIとは人工知能のこと。コンピューターの発達は目覚ましく、人間の知能レベルまで達しようとしている。例えば、画像認識による自動運転、ディープラーニングによる碁将棋の対局プログラム、音声認識による口述筆記など、日常生活の様々な分野でAIが活躍している。将棋ではAIがプロ棋士より強くなってしまったが、対局中継などでAIによる形勢判断や最善手の予想を表示することで、初心者でも楽しめるようになった。  俳句の世界でも「AI一茶くん」という北海道大学の研究室が開発した俳句自動生成ソフトが作った俳句は、句会に出してもAI作かどうか見分けがつかないという。昨年秋に公開されたChatGPT(人間と同じように会話ができるAI)は、瞬く間に世界に広まり、その功罪併せ世間を賑わせている。  掲句の作者は、そのAIをさっそく句材に選んだ。悩みを相談したというAIは、ChatGPTか。配した季語の「油照」は、薄曇りで風がなく、じっとしていても脂汗がにじんでくるような蒸し暑い日のこと。つまり、悩み事をAIに頼るようになるなんて鬱陶しいなあ、というような句意だろう。  作者はこの春、日経俳句会に入会したばかり。これまで作句経験はないらしいが、新聞社の現役記者で文芸全般に造詣が深い。新しい人の斬新な句がこれからも楽しめそうだ。 (双 23.06.22.)

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マドンナの老いて目深な夏帽子  今泉 而云

マドンナの老いて目深な夏帽子  今泉 而云 『この一句』  番町喜楽会の6月例会で二席を占めた句である。往年の大女優であろうか、あるいは夏場の同窓会か、みんなの憧れの的だった女性が帽子を目深にかぶって現れた。作者はそれを老いをさらしたくない含羞の行為と感じて、句にしたのであろう。「ブリジット・バルドーの写真集を思い出した」(春陽子)、「老人ホームの近くでよく見る光景」(幻水)など、自らの体験を重ね合わせて採った人が多かった。  夏目漱石の小説「坊ちゃん」を嚆矢として、マドンナという言葉は男性にとって独特の語感、イメージが形づくられてきた。しばしば初恋の人と同義となり、年を経て再会する時など、その姿を見たいような見たくないような複雑な心境になったりした。女優の原節子が引退後は家に引きこもり、人前に姿を現さなくなったエピソードもある。作者は憧れの女性も歳をとるという現実を詠みつつ、目深な帽子で実像を隠したいという心理が働いたのではなかろうか。  そんな解釈をしていたら、句会後の反省会で出席していた女性から、「そんなの男の幻想」と一蹴された。女性は常に今の自分を肯定する存在であり、若い頃と今を比べて悩んだりしないというのである。夏帽子を目深にかぶるのも、日焼け防止や白髪隠しの現実的な目的があるという訳だ。男女の認識ギャップの大きさに、何やら夢から覚める思いがした。 (迷 23.06.21.)

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とりあへず両手でつくる蛍籠   嵐田 双歩

とりあへず両手でつくる蛍籠   嵐田 双歩 『この一句』  蛍の句を詠むのはなかなか難しい。蛍には、死や情念にまつわる固有のイメージがつきまとい、「闇」、「恋」、「炎」などの文字で表現される句が多く、どうしても類句類想的になってしまう傾向があるように思う。  この日の句会に集まった人の多くは、六年前に信州青木村で行われた蛍吟行に参加している。その夜は無数の蛍が飛び交い、肩や胸に蛍が止まったり、手の平に受けることさえ出来るような状態だった。せいぜい都内のホテルの「蛍鑑賞の夕べ」くらいしか経験していない連衆にとって、こんなにも身近に蛍を見たり触れたり出来るとは、予期しない出来事であった。おそらく、螢籠を持って来た者など誰もいなかったに違いない。  この句はそんな体験を踏まえ、蛍をつかまえたのは良かったが、籠の持ち合わせなどなく、思わず手の平を籠がわりにして包もうとした光景を詠んでいる。蛍をとった喜びと、それとは裏腹に、ちょっと困惑している様子が想像される。とりわけ、「とりあへず」という言葉の選択が絶妙で、俳味十分なユニークな一句となっている。 (可 23.06.20.)

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