飽食の果てよ菜飯とシラス干し  杉山 三薬

飽食の果てよ菜飯とシラス干し  杉山 三薬 『この一句』  腹を壊さぬようにと鯛など白身の魚を蒸して脂気を抜いたものばかり食わされていた殿様が、遠乗りで出かけた先の目黒の百姓家で食べた焦げた秋刀魚に驚喜したという落語がある。  極上の食材にこれでもかと手をかけ仕立てた料理は、美味いことはこの上ないが飽きが来る。念入りに作れば作るほど、どうしても「作られた味」になってしまうからだろう。魚、肉、野菜それぞれが持つ元の味が消されたり、薄められたりしてしまうのだ。しかし、人間という欲深い生き物は常に「もっと美味いもの」を求める。行きつく先は、「凝った料理」であり、己の五感に頼らず「ミシュランで星三つです」などといった馬鹿らしい看板に頼るということになる。そして、食通とかグルメとか言われ美味いものを次々に求めていた人間が、ある朝、梅干を一つ浮かべた白粥に目を醒ましたという話もある。  しかしここに掲げた句はそれとはちょっと違う。それほどの食通でもなければ贅沢三昧人間でもない、ごく普通の生活を送っているのだが、いかんせん飽食の世の中、日頃から脂気の多い旨いものを食べている。そういう人が素朴な食べ物の良さを再発見したという情景であろう。「一億総グルメ時代」の話である。  大昔、おばあちゃんの炊いてくれた菜飯と白子干のことを思い出したのだ。そこで作者が早速それを再現して感激したということかどうかは分からない。それはさておき、そういうことあるよなあとつくづく思わせる一句である。 (水 23.04…

続きを読む