陽炎に夫と見紛ふベレーの人 山口斗詩子
陽炎に夫と見紛ふベレーの人 山口斗詩子
『おかめはちもく』
「陽炎」という季語に実によく合っている一句である。夫が亡くなってもう十数年たち、独り身が慣れっこになってしまっているが、時折、季節の替わり目などにふと思い出す。家の事など一切お構いなしの人ではあったが、今でも何か面倒なことがあると、ああ居てくれたらなあなどと思う。
陽炎の立つ4月の昼下がり、ちょっと足を伸ばして繁華な商店街に行った。“コロナ明け”ということも手伝ってか、結構な人出だ。数十メートル先の人波の中に、ベレー帽の人が。一瞬「うちのヒトが」と思ってしまった。
人を惑わせ錯覚を起こさせる陽炎と、それが立つうららかな晩春の雰囲気を伝えるとても良い句である。しかし、下五の「ベレーの人」が良くない。字余りが良くないことはもちろん、なぜわざわざ「人」と置かなければいけないのか。必然の言葉であれば字余りを厭わずに置くべきだが、言わなくてもいい場合には省いて、「定型」に納めた方が良い。5・7・5の織りなすリズムは非常に強い働きをする。読者の心にすっと入って、共感を抱かせる。
ではこの句はどうすべきか。至極簡単。「人」など省いてしまえばいいのである。
陽炎に夫と見紛ふベレー帽
これは名句である。
(水 23.04.12.)