春キャベツ耳たぶのよな餃子茹で 中嶋 阿猿

春キャベツ耳たぶのよな餃子茹で 中嶋 阿猿 『季のことば』    「春キャベツ」は年中あるキャベツと違い、頭頂がやや尖ったラグビーボールのような、ふんわり柔らかい葉が特徴の春野菜の一つだ。秋に種を蒔き春に収穫するので春キャベツと呼ばれているが、そもそも品種が違うそうだ。通常の「キャベツ」は夏の季語で、「甘藍(かんらん)」とか「玉菜(たまな)」とも言う。タマネギやジャガイモと同様年中ある野菜だが、「春キャベツ」となれば別格で、いかにも春らしい存在感がある。  キャベツが日本で栽培されるようになったのは明治の初めというから、芭蕉も蕪村も一茶も食していない。ましてや「春キャベツ」、別名「玉巻く甘藍」は、歳時記にもほとんど載っていない新しい季語だ。  掲句は、その柔らかな春キャベツを餃子の具材にしたという。しかも茹餃子だ。筆者は普段、焼餃子を食べる機会が多いので、たまに茹餃子に出会うと、とても懐かしく感じる。というのも実家では、親が北京に駐在していた時に覚えたのか、大きめの餃子をいつも茹でていたので、子供のころは茹餃子しか知らなかった。  さて、ある日の作者の夕餉。春キャベツという旬の食材と、ちょっと捻った調理法とで、特別な餃子が食卓を飾った。茹で上がったつるりとした形は、耳たぶを連想させてユーモラス。今夜はスパークリングワインでも開けようか。 (双 23.04.18.)

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何食ふて鵯太し春の庭      高井 百子

何食ふて鵯太し春の庭      高井 百子 『季のことば』  ヒヨドリは10,11月に暖地に移動する姿が目立つことから秋の季語になっている。しかしこの句は「春の庭」と組み合わされており、四角四面の句会では「季節違いの季重ね」として排斥されてしまうかも知れない。だが現実には鵯は春の庭でしょっちゅう見かける。ヒーヨヒーヨ、ピーピーととてもうるさい。雀の二倍くらいの大きさで、頭の後ろの毛が数本逆立ち、まさに利かん気のアンチャンといった感じだ。いかにもふてぶてしい様子だが、どこか間の抜けた感じもして憎めない。この句はそんな鵯を実にうまく詠んでいる。  春の庭には鶯や目白が梅やアンズ、椿、桜の蜜を吸いに来るが、鵯も蜜が大好きだから鶯や目白を追い払う。しかも鶯や目白がしおらしく蜜を吸うのと異なり、蜜を含んだ花の元を突っついて片端から花を散らしてしまう。散歩道などで桜の五弁花がそのままに沢山落ちていたら、それは鵯の仕業である。「にくらしいわねえ」などとオバサマ方は言うが、鵯にしてみればこれも4,5月の子育てのための栄養補給行動なのである。この頃は花に寄って来る昆虫類も食べる。  朝鮮半島南部、中国南部、フィリピンあたりにも生息しているのだが、鵯と言えば日本ということになっており、「鵯に逢うのが楽しみ」と日本にやって来る欧米のバードウオッチャーが多い。ちなみに鵯を英語ではbulbul(ブルブル)と言う。鳴き声からか、椿の花に首を突っ込んで蜜を吸い、花粉だらけの首を振っている様子から言ったのか、愉快…

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陽炎や斜面を滑る段ボール    田中 白山

陽炎や斜面を滑る段ボール    田中 白山 『季のことば』  陽炎は陽射しで暖められた空気が地面から立ちのぼり、向こうの景色が揺らいで見える現象をいう。夏にも見られるが「春のうららかな陽気に合うことから春の季語とされる」(角川大歳時記)。 掲句はその陽炎に、段ボールで斜面を滑っている光景を配する。陽炎の見える斜面と言えば、真っ先に荒川などの土手が思い浮かぶ。小高い丘やスキー場も考えられる。春深む頃、草の生えそろった土手で、子供たちが段ボールを尻に敷いて滑り降りている景と読んだ。陽炎の土手で遊ぶ子供の姿はまさに春爛漫の気分に満ちており、フーテンの寅さんでも通りかかりそうである。  昭和の時代は近所でよく目にした光景だが、最近は草スキー用のプラスチックのボードが千円前後で売られており、段ボールで遊んでいる子供など見たことがない。段ボール工業会のサイトによると、日本に段ボールが本格的に普及したのは昭和30年(1955)以降という。農産物の輸送を中心に木箱から段ボールへの切り替えが進み、高度成長期には家電製品や食料品など身の回りのものは何でも段ボール箱で運ばれるようになった。  その頃はプラスチック製の遊具や金属製のおもちゃは高価で、身近にあふれる段ボールは子供たちの格好の遊び道具だった。草スキーだけでなく、剣やヨロイにしたり、秘密基地を作ったり、段ボールで遊んだ記憶をお持ちの方は多いのではなかろうか。ノスタルジー溢れる句と思ったが、句会では点が入らなかった。「斜面」のイメージが掴みにく…

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春昼や波郷の町に踏むペダル   廣田 可升

春昼や波郷の町に踏むペダル   廣田 可升 『合評会から』(番町喜楽会) 百子 波郷の町は四国でしょうか。春ののどかな景色を見ながら自転車をこいでいる。そこに波郷を持ってきたのがいいですね。 てる夫 波郷のことはよく知りませんが、息子の修大さんのことはよく知っています。波郷の生地を調べたら松山だというので、この句をいただきました。 春陽子 俳人の名前が出る句は番喜会では初めてではないかと思います。「よくぞ」という思いで一点入れさせていただきました。 白山 砂町に吟行に行ったことがあり、波郷の町とは砂町にちがいないと思いました。砂町といえば波郷だというくらい思いこんでいます。誰の句かだいたい想像がつきます。 青水 「春昼」「波郷の町」「ペダル」と来ると、言うことないですね。説得力のある句です。ぼくにも作者はわかりました。           *       *       *  自転車で下町散歩とくれば、この句会では作者がすぐに解ってしまう。作者自身も「身元の割れる句はあまりよくないなと思ったのですが、『江東歳時記』に書かれた場所をあちこち走り回ったので、どうしても投句したくなりました」と言っている。遠慮する必要は毛頭無い。身元が割れようが割れまいが、それで票を入れるかどうか斟酌するような同人たちではない。良くない句だったら遠慮会釈無い辛辣な評言が飛び交う。無論この句は「春昼」という季語が十二分に生きた句である。 (水 23.04.14.)

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せせらぎに囀交じる峡の宿    中村 迷哲

せせらぎに囀交じる峡の宿    中村 迷哲 『合評会から』(日経俳句会) 鷹洋 典型的な俳句ですね。僕は最近、こんなところへ行った事がないので、憧れを込めて頂きました。 而云 こういう事もあるんだろうなと思い、良い雰囲気で選びました。 双歩 こんな宿があったら泊まってみたいなあと思って頂きました。 明生 出来すぎ、綺麗すぎと感じるほど景の見える句。こんな山峡の宿に一度は泊まってみたいものです。 操 谷間の宿で心安らぐひと時、せせらぎの音に囀りが呼応する。 豆乳 こんな素晴らしい山峡の宿に泊まりたいです。 十三妹 一日でもいい、なにもかも忘れて、こんなところで、のんびりしたいなあ。           *       *       *  採った人は、異口同音に「こんな宿、泊まってみたい」という。泊まった宿の窓から川のせせらぎがが聞こえてくるだけで、大満足なのに、小鳥の囀まで聞こえてくるというのだから、たまらない。  観光地の旅館のパンフレットやホームページには素敵な写真が満載だ。美辞麗句を並べ立てるより、写真の方が訴求力があるからだ。しかし、洒落たパンフなどよりもこの一句の方がよほど魅力的だ。たった十七音にこんな力があるとは。パンフの表紙にこの句を掲げれば更に効果がありそうだ。  食べ物の句は美味しそうに作れ、という。宿の句は泊まりたくなるように作れ、との箴言が生まれそうだ。 (双 23.04.13.)

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陽炎に夫と見紛ふベレーの人   山口斗詩子

陽炎に夫と見紛ふベレーの人   山口斗詩子 『おかめはちもく』  「陽炎」という季語に実によく合っている一句である。夫が亡くなってもう十数年たち、独り身が慣れっこになってしまっているが、時折、季節の替わり目などにふと思い出す。家の事など一切お構いなしの人ではあったが、今でも何か面倒なことがあると、ああ居てくれたらなあなどと思う。  陽炎の立つ4月の昼下がり、ちょっと足を伸ばして繁華な商店街に行った。“コロナ明け”ということも手伝ってか、結構な人出だ。数十メートル先の人波の中に、ベレー帽の人が。一瞬「うちのヒトが」と思ってしまった。  人を惑わせ錯覚を起こさせる陽炎と、それが立つうららかな晩春の雰囲気を伝えるとても良い句である。しかし、下五の「ベレーの人」が良くない。字余りが良くないことはもちろん、なぜわざわざ「人」と置かなければいけないのか。必然の言葉であれば字余りを厭わずに置くべきだが、言わなくてもいい場合には省いて、「定型」に納めた方が良い。5・7・5の織りなすリズムは非常に強い働きをする。読者の心にすっと入って、共感を抱かせる。  ではこの句はどうすべきか。至極簡単。「人」など省いてしまえばいいのである。    陽炎に夫と見紛ふベレー帽  これは名句である。 (水 23.04.12.)

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重たげなランドセル行く木の芽どき 田村 豊生

重たげなランドセル行く木の芽どき 田村 豊生 『合評会から』(三四郎句会) 有弘 一年生と木の芽どき、それにランドセル。大きさからして、ランドセルは一年生には相当な負担でしょう。 久敬 最近のランドセルは本当に重たそうで、小学生に頑張れと声を掛けたくなる。 而云 小学校の一年生ですからね。いずれ慣れてきて、登校の列が騒がしくなっていきます。 信  ランドセルは重くて、値段も高い。七、八万円のもあるようで、親も一年生にも荷が重いですよ。           *       *       *  男たちの集まるある会合で、「小学校の一年生にランドセルは重すぎるのでは」・・・という声が出た。横からすぐに「値段の高さも相当なんだ」という意見が割り込んで来る。さらに「色もとりどり過ぎて、ランドセルには似合わない」との意見が続く。すると、「黄色、緑、青、ピンクも・・・」などなど。そして「私の見たランドセルの色」が次々に公表される。  「えっ、そうなの」「世の中、変わったなぁ」「これ、大問題ではないのか」などの声も。「でもやっぱり、男の子は黒か茶色が多かったよ」という声が出てランドセル論は一段落。以上は男性の「子離れしたが、孫は未だ」世代から聞いた「また聞き報告」である。 (恂 23.04.11.)

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残り香のしばらく指に桜餅    嵐田 双歩

残り香のしばらく指に桜餅    嵐田 双歩 『合評会から』(番町喜楽会) 青水 「桜餅」の季語が生きていていいなと思いました。桜餅と言えばまず香りだと思っているのでいただきました。 幻水 桜餅は香りと色が特徴。色を詠むのはそんなに難しくないように思うのですが、香りを詠むのは難しい。この句はそれをうまく詠んだなと思いました。 二堂 買ってきたものか貰い物か、すぐにつまんで頬張ったのでしょう。美味そうです。 水兎 食べた後にちょっと鼻の下を擦ったのでしょうか。惜春の情も感じます。           *       *       *  八代将軍徳川吉宗は開明的で、江戸町民のリクリエーション策として、あちこちに遊楽の場所をこしらえた。上野や隅田川べり、品川御殿山、王子飛鳥山などに桜の木を植えさせ、蛍の飛び交う流れなどを作らせた。18世紀初頭に庶民の遊楽に思いを致した君主は世界史的にも珍しい。  その隅田川堤長命寺の門前で目端の利く男が水に溶いた小麦粉を薄焼きにして小豆餡をくるみ、土手の桜の葉に包んで売り出したのが大当たりした。いとも素朴簡便なものなのだが、今や葉はどこそこのオオシマザクラを一年塩漬けにしたとか、小豆は北海道のなにがしと小うるさい。皆押し戴くようにして買っている。確かに葉の香りがいい。つまんで食べた後も残り香を楽しんでいる。 (水 23.04.10.)

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戦火なき国の幸せ桜餅      須藤 光迷

戦火なき国の幸せ桜餅      須藤 光迷 『この一句』  読んですぐに、「本当にそうだなあ」と思わせられた句である。ウクライナでは一年以上も戦闘が続き、先が見通せない状況にある。ウクライナのみならず、戦乱状態にある地域は、この地球上にたくさんある。そんなことを考えれば、縁台に座って桜餅が食べられる、平和な日本のなんと幸せなことよ、とこの句はうたっている。この句は、日本さえ良ければということではなく、世界中がそうなればと願って詠まれたものだと思う。  この句を読んで、戦争と桜のことを思った。先の戦争において、「散る桜」に「大和魂」が重ね合わされ、精神面のシンボルとなり、特攻兵士の歌などに多く詠みこまれた。本居宣長の「敷島の大和心を人問はば/朝日に匂ふ山桜花」の影響を指摘する向きもあるが、この歌にはそんな意味は毛頭ない。戦意高揚のための国策の中で醸成されたものであろう。いずれにせよ、桜にはなんの罪もなく、特攻など理不尽の極みである。  田中元首相が「戦争を知らない世代ばかりになると怖いことになる」と言ったと聞いたことがある。その為政に対する評価とは別に、この言葉は、とても重みのある言葉だと受けとめている。もうすぐ、あるいはすでに、そういう時代である。縁台で桜餅の甘さを堪能できる平和な時代がずっと続くこと、世界中がそんなふうになること、を願ってやまない。 (可 23.04.09.)

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春風や宝石つけて高島屋     星川 水兎

春風や宝石つけて高島屋     星川 水兎 『合評会から』(番町喜楽会) 百子 面白いですね。高島屋もいいけれど、三越にしてほしかったな。あっ字足らずか。今の若い子は、デパートなんて知らないんですよね。昔は着飾ってデパート通いをするのが有閑マダムの常。ちょっと誇らしくウキウキして出かけるんです。 愉里 私の高校の同級生が今高島屋の社長をやっていて、単独で生き残っているデパートは高島屋だけだという話を聞きました。 的中 幾つぐらいの年齢の人が宝石つけて出かけるんだろうかと思いました。やはり年配の人ですよね。春になって、コロナも収束したみたいだからという事でしょうか。           *       *       *  昔から私はデパートや老舗の店屋をひやかし歩くのが好きで、姉や亡兄などからは「大の男が見っともない」などと言われた。それが80台半ばになって一家の「買物役」になった今役立っている。「この品でこの値段、お買い得かまやかしか」の見立てが大概当たる。近頃はそういうことを男が言っても恥ずかしくない世の中になっているのが面白い。ただ、そういう私も宝飾品と婦人服の値段だけは分からない。舌を噛みそうな名前のデザイナーズブランド。パジャマのようなベラベラの上下が何十万円、手首にじゃらじゃら光るものが数百万円と聞くだに「世の中おかしくなってるなあ」とつぶやく。 (水 23.04.07.)

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