金髪の遍路過ぎゆく花の下 岩田 三代
金髪の遍路過ぎゆく花の下 岩田 三代
『この一句』
「金髪の何々という句は結構見受けますが、金髪と白い衣装と桜の花の組み合わせがとてもいい」(迷哲)という句評があった。その通りで、近頃はガイジンさんのお遍路が増えている。洋服の上から袖なしの白衣を着て輪袈裟を掛け、「同行二人」と墨書した菅笠をかぶってはしゃいでいる。とてもいい情景だ。
句会で人気を博した句なのだが、問題は「遍路」と「花」と季語が二つ重なっていることだ。いわゆる「季重なり」で、格式を重んじる宗匠に見つかったらひどいお叱りを受ける。
一句の中に季語が複数あっては何故いけないのか。季語は季節を表す言葉であり、情趣をまとった詩語である。季語を柱として、そこに作者の思いを添わせるのが俳句なのだから、季語が二つ以上あると何を言わんとしているのかがあやふやになってしまう──というのが「季重なりはダメ」の論拠である。
しかし、満開の桜の花の下を金髪美女のお遍路さんが嬉々として行きますよと、うきうきとした感じを抱かせる詠み方が「季重なり」の一言で片付けられてしまうのは寂しい。
森澄雄という俳人(「杉」主宰、2010年91歳で死去、「西国の畦曼珠沙華曼珠沙華」)はこんなことを言っている。「向こう側(外界、自然界)には季語が二つあっても不思議じゃない世界があるんです。たとえば土筆が出て、そこを遍路が通っている──というようなときには向こうが季重ねなんだから」。
まさに、この句を大先達が弁護してくれている。
(水 …