何芽ぐむ令和五年の末黒野に 大澤 水牛
何芽ぐむ令和五年の末黒野に 大澤 水牛
『この一句』
俳句はあまりにも短いがために、時として「自句自解」が読者にとってその句の理解を深める一助となることがある。
『自注石田波郷集上』のあとがきで、波郷は「俳句は、俳句自身の重さによつてたつものであつて、註解の如きは第三者の為すことである」という。一方で「一つの俳句には、それの生まれてきた「場」や、特殊の「時」が負はれてゐて、作者自らが、そのことを註することは必ずしも無意義ではないと思ふ」とも語り、「更に初心のものにとっては俳句鑑賞の手がかりとなる」と説く。確かに難解だった「たばしるや鵙叫喚す胸形変」という波郷の句も、結核療法の一つ、成形という肋骨を切る手術の壮絶な描写を読むと、たちまち腑に落ちる。
ところで、掲句の作者はいつも平明な表現で日常茶飯句をさらりと詠む。これまで、この作者の難解句を読んだ記憶がほとんどない。とは言えこの一句、折角なので作者の自句自解を聞いてみよう。
【水牛自句自解】ウクライナ戦線はじめ中国台湾問題、北鮮問題、日本国内の混乱等々、令和五年はどうもあまり良い年にはなりそうに無い。まっ黒焦げの末黒野を見やりつつの感慨。
半ば考えていた通りの「解」だが、改めて言われると納得する。
(双 23.03.01.)