気休めのサプリ並べて獺祭    植村 方円

気休めのサプリ並べて獺祭    植村 方円 『合評会から』(日経俳句会) 迷哲 獺祭の季語は季節感を詠みにくいので、何かを並べる句が多くなる。その中でサプリを並べた現代的な獺祭に面白みを感じた。 朗 我が家にもビタミンⅭとかコラーゲンとかサプリがいっぱいある。数えてみたら十種類あり、うちも同じだなと思って頂きました。 明古 サプリメントを並べ、「気休め」と付したところに面白味がある。 三代 自虐的ですが、年を取るとこんな獺祭もあるあるかと。 明生 サプリ全盛の時代、女性はあれこれ買いだめて試している。それが「気休めの」と言い切っているのは、女性への皮肉でしょうか?警鐘でしょうか? 青水 気休めのサプリ。この八音の巧みさが出色。 百子 一番「獺祭」らしい句だと思います。「気休め」がポイントですね。 十三妹 酒を飲み、サプリを飲み。人間ってほんとに変な生き物。 定利 サプリ全盛時代の今、解ります。 雀九 (医師の立場から)一言いわせてもらうと、サプリなんか効かないからやめた方がいいですよ(笑)。例えばビタミンⅭの過剰摂取は体に害になります。           *       *       *  「獺祭」(だっさい、おそまつり)という難しい兼題が出されたから、一同四苦八苦。いろいろなものが並べられた。時代を写した「サプリ」を並べたこの句に拍手喝采。 (水 23.03.08.)

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春浅し巣穴の熊の二度寝かな   篠田  朗

春浅し巣穴の熊の二度寝かな   篠田  朗 『合評会から』(日経俳句会) 実千代 想像しただけで楽しい句なので、採りました。二度寝するなんて童話の世界みたい。 鈴木 冬眠する動物は途中で一回目が覚めて、その辺りを一回りしてからまた冬眠するようです。そこが面白い。人間の「あと十分」とかいう二度寝とは違う。 迷哲 熊の実際の生態にしても、メルヘンにしてもどちらでも面白いと思った。 静舟 熊も人間も二度寝の楽しみを知ったらどんどん堕落するような。でもその誘惑に勝てない。 三薬 マタギの関連本を何冊か読んだが、熊が二度寝するとは書かれていない。            *       *       *  熊の二度寝を巡って句会で議論を呼んだ愉快な句である。巣穴で冬眠中の熊が春の訪れを感じて薄目を開けたら、寒の戻りで外はまだ寒い。もう少し寝ようとまた目をつぶる。そんな情景は十分ありそうな気がする。まだ雪が深い早春の山の気配と、心地よい巣穴でじっと本格的な春を待つ動物たち。暖かくなったと思ったらまた寒くなる初春仲春の気分を、熊の二度寝で笑いを誘いながら上手く表現している。  句会でいろんな意見が出たように、冬眠中の熊の生態はよく分っていないらしい。最後に名乗り出た作者が「二度寝したのは実は熊ではなくて私なんです。春の二度寝の心地よさを、熊になぞらえて詠みました」と解説して大笑いとなった。  (迷 23.03.07.)

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花柄の傘の手すくむ余寒かな  溝口 戸無広

花柄の傘の手すくむ余寒かな  溝口 戸無広 『この一句』  立春過ぎて暖かい日が続き、「もう春なんだ」と、傘も花柄のおしゃれで華やかなものに換えた。ところがまた真冬の寒さに戻り、氷のような雨で柄を握る手がかじかみそうだ。せっかくのお洒落傘が何だか場違いな感じになってしまったと独り言ちている。選句表にこの句を見つけた時、「余寒」という季語の持つ雰囲気をとても上手に詠んだものだなあと感心し、真っ先に選んだ。  当然、作者は女性だろうと思っていたら、男だった。現代版紀貫之にしてやられた。私だけではない。「花柄がいいですね。せっかく春の柄の傘をさしたのに・・寒い。女性の細やかさを感じます」(百子)、「春らしい傘の絵柄との対比が絶妙です」(芳之)、「花柄から人物のイメージが膨らみます」(健史)とみんなそう思っていたような句評である。  これは「なりすまし」の句なのか。それとも男だけれども花柄の傘を持っているのか。「同性婚を法律で認めるよう、法改正を」と国会論議がなされる世の中。「男だから・女だから」と言うのは差し障りが出てくる恐れがあるから、この論議はここで止めよう。  兎にも角にも、この句は男でも女でも、なかなか面白い。 (水 23.03.06.)

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介護の夜妻に添い寝の余寒かな  大沢 反平

介護の夜妻に添い寝の余寒かな  大沢 反平 『合評会から』(日経俳句会) 実千代 介護は大変ですが、この句は、ほのぼのとした感じを受けました。 雀九 蕪村の句「身にしむや亡妻の櫛を閨に踏む」に通じる、深々とした雰囲気を感じました。 而云 作者の優しい気持に感嘆しました。 愉里 作者が想像され、採らざるを得ないと思った。 青水 我が国の文学史に燦然と輝く私小説の世界が描かれている。好みは別として、その赤裸々さが小気味よい。 静舟 最愛のご夫婦、こうありたいが、人生なかなか。 ヲブラダ ロマンチックです。 百子 見方によっては甘っちょろい句ですが、奥様を介護なさっている、愛あふれる句ですね。 昌魚 介護は大変ですよね。私も老々介護で苦労していますので同感です。 木葉 これは切ない「余寒」だ。介護が必要なご夫人のため、就寝中もそばにいる。夫の献身には感謝感謝の妻だろう。           *       *       *  暖かくなってきたなと思うと寒さがぶり返すのが余寒。介護される妻の調子も良くなったり悪くなったり、起伏がある。季語とよく合っている。それに老々介護の様子をそのまま詠んでいて、実にいい句だ。しかし、身につまされて何だか気が滅入ってしまい、私は句会でどうしても採れなかった。それを今悔やんでいる。 (水 23.03.05.)

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獺祭り口伝も絶えて村廃る    篠田  朗

獺祭り口伝も絶えて村廃る    篠田  朗 『季のことば』  「獺祭(だっさい。おそまつり)」とは聞き慣れない季語だ。載ってない歳時記もある。「獺祭忌」は「子規忌」の傍題で割とポピュラーな仲秋の季語。また、「獺祭」という山口県のお酒は一時、幻の銘酒と呼ばれたこともあり、こちらを思い浮かべるむきもありそうだ。  水牛さんの解説によると「獺(かわうそ)は魚を獲るのが上手で、取っては岸辺に並べておく習性があるといい、それがあたかも供物を並べて先祖を祀る儀式のように見える。古代中国人は「獺魚を祭る」のが早春の景物であるとして、暦の七十二候に据えた。二十四節気の立春の十五日後の「雨水」の初候(最初の五日間)で、新暦では二月十九日から二十三日(年によって一日ずれる)に当たる」という。つまりは「大寒」や「土用」などと同じ時候の季語だ。と、説明されても今ひとつピンとこない。俳人の例句を見ても、何かを並べて「獺(おそ)の祭」のようだ、という句が多い。句会でも「何かを並べた句」がずらり並んだ。  その中にあって、〝並べない〟掲句が目を引いた。獺が獲った魚を祭る光景は、かつては身近にあったのだろう。しかし、今や野生の獺は絶滅し、動物園でしか見られなくなった。父から子へ、あるいは祖父から孫へと口伝えに伝承されていた風物詩が失われ、やがて獺が生息していた村から住民もいなくなった。作者の深い嘆息が聞こえてきそうだ。 (双 23.03.03.)

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真鍮の手摺に宿る余寒かな    中嶋 阿猿

真鍮の手摺に宿る余寒かな    中嶋 阿猿 『この一句』  金属製の手摺といえば、JRや私鉄の駅の階段が思い浮かぶ。足腰の弱った高齢者には、「転ばぬ先の杖」があの手摺である。感染症対策にうるさい人は、手摺に触るのを嫌うが、転んで大怪我しないように用心する方が先だ。  手摺と余寒は、見た感じか、触れた感じか。句会では、二つの感想が示された。駅の手摺感覚に照らせば、実際に触れた「余寒」であろう。階段の下まで降りる頃には、指先は「冷たい」と悲鳴寸前だから。  「真鍮の手摺」から余寒を切り取ったこの句は、目の付けどころの良さから支持が集まり、五点獲得した。作者がヒントを得た「真鍮の手摺」がどこかの邸宅の重厚な玄関ドアだったら、駅舎の世界ではない、また別のストーリーが展開出来たかもしれない。 (てる夫 23.03.02.)

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何芽ぐむ令和五年の末黒野に   大澤 水牛

何芽ぐむ令和五年の末黒野に   大澤 水牛 『この一句』  俳句はあまりにも短いがために、時として「自句自解」が読者にとってその句の理解を深める一助となることがある。  『自注石田波郷集上』のあとがきで、波郷は「俳句は、俳句自身の重さによつてたつものであつて、註解の如きは第三者の為すことである」という。一方で「一つの俳句には、それの生まれてきた「場」や、特殊の「時」が負はれてゐて、作者自らが、そのことを註することは必ずしも無意義ではないと思ふ」とも語り、「更に初心のものにとっては俳句鑑賞の手がかりとなる」と説く。確かに難解だった「たばしるや鵙叫喚す胸形変」という波郷の句も、結核療法の一つ、成形という肋骨を切る手術の壮絶な描写を読むと、たちまち腑に落ちる。  ところで、掲句の作者はいつも平明な表現で日常茶飯句をさらりと詠む。これまで、この作者の難解句を読んだ記憶がほとんどない。とは言えこの一句、折角なので作者の自句自解を聞いてみよう。  【水牛自句自解】ウクライナ戦線はじめ中国台湾問題、北鮮問題、日本国内の混乱等々、令和五年はどうもあまり良い年にはなりそうに無い。まっ黒焦げの末黒野を見やりつつの感慨。  半ば考えていた通りの「解」だが、改めて言われると納得する。 (双 23.03.01.)

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