亀鳴くや卒寿の姉の長電話    大澤 水牛

亀鳴くや卒寿の姉の長電話    大澤 水牛 『この一句』  この句の季語は「亀鳴く」。亀には発声器官がないので、実際は鳴くことはあり得ないが、時によってその発する音が鳴いているようにも思える、ということから季語とされているようだ。歳時記によって異なるが、「想像上の季語」とか「感覚的な情趣」とか説明されている。  そんな非現実的な季語なので、「亀鳴く」の句は、いきおい、取合せの句とならざるを得ず、取合せられた二物は、意味の上でのつながりがほとんどないものになりがちである。ところが、この句は、長寿のシンボルである亀と、卒寿を迎えたお姉さんと、そのお姉さんの長電話を取合せたことで、「長さ」にまつわるつながりを持つ句になっている。また、亀の鳴き声と、長電話の声が取合せられたことで、「声」にまつわるつながりも感じさせる句になっている。それらは決して意図してなされたものではなく、自然体で詠まれた結果のように思うが、この句のイメージを膨らませる効果を生んでいる。  作者によれば、お姉さんは老人ホームにいるのだが、コロナによる面会禁止で時間を持て余しているため、ついつい長電話になり、こちらから切るわけにいかず往生するという。作者の身辺を詠んだ句ではあるが、それがそのまま、高齢化社会のそこここにある現実を巧みに切り取った句となっている。 (可 23.03.20.)

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街角に地図読む人や春の風    玉田 春陽子

街角に地図読む人や春の風    玉田 春陽子 『合評会から』(番町喜楽会) 幻水 コロナ禍が去って外国人の旅行者が多くなり、こんな光景をよく見るようになりました。 百子 最近は携帯片手にグーグルマップでしょう。春になって人が外に出るようになっています。 愉里 私は、新生活を始める学生が、下宿探しをしているような光景を想像しました。 而云 「地図を読む」がいいと思います。図面を書く人のような、なにか職人の感じがします。 青水 外国からの旅行者は地図を片手ですよね。今の時期を考えると、時事句かなぁ。 水馬 春風に誘われた旅人の図。うらやましいです。この人は花粉症ではないんでしょうね。           *       *       *  春の街角で見かける光景をさらりと詠み、季節感と時代を映した句として、3月の句会で最高点を得た句の一つ。じっくり眺めていると、言葉の選択、語順など考え抜かれた句と思えてきた。「街角に」の上五によって、賑わいのある大きな都市がイメージされる。そこに地図を見るのではなく「読む人」を配する。読むという行為によって、地理や目的地を懸命に探している人物が浮かぶ。コロナの入国制限が解けて来日した外国人は、憧れの国で地図を頼りに街歩きに余念がないだろう。入学のため都会に出た学生は、慣れない雑踏に右往左往しているのかも知れない。「人や」で切って人物に焦点を当て、具体的な人物像は読者に委ねる詠み方も効果的だ。  そして下五で人々に、街に「春の風」を吹き渡ら…

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隣組の空家に買手春の風     堤 てる夫

隣組の空家に買手春の風     堤 てる夫 『季のことば』  「春の風」「春風」は二月初めから五月初めまでの、初春、仲春、晩春を通しての季語なのだが、いろいろな吹き方があって、なかなか難しい。二月から三月にかけての東風は「にほひおこせよ梅の花」で早春のやや肌寒い風。三月も半ば過ぎになると桜の開花を促す南寄りの暖かい風。四月の声を聞くころから時として強い西風が吹きまくり、大陸から土埃を運んで来る「黄砂現象」の嫌な風になることもある。  移動性高気圧と低気圧が頻繁に入れ替わるのが日本の春の特徴で、そよそよと暖かな春風もあれば、湿気をたっぷり含んだ雲を運んで長々と春雨を降らせることもあるし、時には顔をそむける埃っぽい風もあるといった具合だ。しかし、俳句で「春風」「春の風」と詠まれた場合は概ね、心地よい風である。否定的なニュアンスの春の風は「春疾風」とか、「春嵐」「霾風(ばいふう)」などとそれらしい季語になっている。  この句の「春の風」は無論、心地よい風である。少子高齢化が進み、老夫婦あるいは連れ合いを亡くした老人だけが取り残された家が多くなった。そういう家はやがては主人公が介護施設に入ったり、時には死んでしまったりで、空家になる。隣近所に空家が生じると、なんとなく落着かない。そうしたら、しばらく空家のままだった所に買い手がついたという話が伝わってきた。我が事のように嬉しくなる。引っ越して来る一家はどんな人達だろう。とにかく新しい隣人ができるのはにぎやかになって喜ばしい。春の風も一段と心…

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ぽつねんとひいな飾りの前に座す 山口斗詩子

ぽつねんとひいな飾りの前に座す 山口斗詩子 『合評会から』(番町喜楽会) 双歩 切ない句ですね。どういうことなんだろうとも思いますが、雛祭りの華やかさがない、ちょっとさみしいこんな句もいいのではないだろうかと頂きました。 百子 「白酒を飲み交わした子今何処」の句と作者は同じではないですか?娘が成人してもう家には居ない。かつては娘と祝ったお雛祭りなのに、今は一人でお雛様を飾る。そんな感じではないでしょうか。母親の切なさが伝わります。 てる夫 「ぽつねんと」をどう解釈するかですね。娘のために婆が一人でお雛さまを飾った。そして雛飾りの前に座り込んで、娘の帰りを待っているのかな。いろいろな事を思い出しているのかな。           *       *       *  筆者も今年、お雛様を飾った。子は巣立ったが、座敷が春らしく華やぐのがいい。ところで、常々思っているのだが、雛人形を見ていると華やかさの反面、憂いを秘めているような気がする。端午の節句の兜や武者人形のように、あくまでも勇ましく溌剌としているのとは対象的だ。  そのやや憂いを秘めた「ひいな飾り」を前に、作者は「ぽつねんと」座しているという。「ぽつねん」は「ひとりだけで寂しそうに居るさま(広辞苑)」という。一体作者はどういう状況下なのだろうか。百子さんの推察通り、「白酒を飲み交わした子今何処」は同じ作者だった。娘が遠方に嫁ぎ、めったに会えないことを嘆いているのだろうか。かつては家族揃っての華やかな雛の間だったのが、今や一…

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春風を懐に入れ龍馬像      中村 迷哲

春風を懐に入れ龍馬像      中村 迷哲 『この一句』  高知桂浜にある、右手を懐に差し入れた坂本龍馬の像を詠んだ句である。手を懐に差し入れている理由についてはさまざまな俗説があるようだ。いわく、ピストルを隠し持っている。懐中時計を触っている。傷を隠すために懐手をしている。なかには、ナポレオンの真似をしている、という珍説もある。作者は、その懐に春風を入れて膨らませ、一句に仕立てあげた。  この句のお手柄は、なんといっても、「春風」に「龍馬像」を取合せたことにある。幕末史の中で、あるいは、日本史の中でといってもいいかもしれないが、坂本龍馬ほど春風が似合うキャラクターはそう見当たらない。上野の西郷さんも幕末の傑物であるが、春風にはあまり似合いそうにない。  龍馬その人もさることながら、高知というお国柄もまた春風に似合うような気がする。筆者は、仕事や遊びで、たびたび高知を訪れたことがあるが、行くたびに高知の人々の豪放かつ開放的な雰囲気に接した。あの『よさこい節』の、「言うたちいかんちゃ、おらんくの池にゃ、潮吹く魚が泳ぎよる」という歌詞そのままの気風である。  著者によれば、春風といえば東風、東風といえば太平洋という連想から、桂浜にある龍馬像に思いが至ったようだ。とても清々しく覚えやすい、口ずさみたくなる一句である。 (可 23.03.15.)

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ゆらゆらと光の波紋水温む    岩田 三代

ゆらゆらと光の波紋水温む    岩田 三代 『この一句』  池か川か湖か、近くをボートでも通り過ぎたのか、あるいは大鯉が餌をもらいに浮かび上がって来たのか、それとも風によるものか、水面に波紋ができて、揺れて春陽を反射する。それがゆらゆらとゆっくり広がって行く──ただそれだけを言っている。しかし、その情景描写に「水温む」という季語を添えると、いかにも仲春三月の気分が横溢する。  「水温む頃に水面を見ていると、何となくこんな感じがすると思い頂きました。きれいな句ですね」(双歩)、「池や川の水面がきらきらと輝く春の景が眼に浮びます。素晴らしい!」(昌魚)、「池の水が温み、キラキラ光る波紋が心を癒す」(操)、「ゆらゆらが穏やかな季節を感じさせてくれます」(戸無広)と、合評会での句評はどれも似通っている。つまりは万人が同じような受け取り方をして、安心感と好感を抱く句なのだ。  けなそうと思えば、悪口はいくらでも言えそうな句でもある。「当たり前のことを言ってる」「平板」「それがどうしたの俳句」云々・・。けれども、もう一遍この句をゆっくりと声を出して読んでみると、眠くなるようないい気持になる。“大平凡句”とでも名付けようか。 (水 23.03.14.)

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英尾碑に合格祈る春陽射し   池村 実千代

英尾碑に合格祈る春陽射し   池村 実千代 『この一句』  日経俳句会の創設者、故村田英尾先生を偲ぼうと、お彼岸の頃に有志でお墓参りを兼ねた吟行を催している。コロナ発生直後の2020年はさすがに開催を断念したが、毎年欠かさず行っている春の恒例行事だ。  英尾先生没後満18年の今年、好天に恵まれた八王子霊園に日経俳句会と番町喜楽会の仲間7人が集った。師の忌日(3月2日)直前の2月末とあって、霊園は梅の香が漂い、芝焼きの焦げ跡から新芽がちらほら顔を覗かせていた。お墓に水を打ち、線香を上げ一人ずつお参りをした。とりわけ熱心に手を合わせていたのが、吟行そのものも久しぶりの参加となった作者だった。「丁寧なお人だなと感心していたが、この句を見て合点が行った。最愛の孫娘が医学部お受験なんですね。必ずや英尾先生も応援して下さるに違いない」とは、水牛さんの句評。  作者のお孫さんはこの春、大学受験。近所に住んでいる孫娘のために、受験当日は勝負弁当を作って持たせているとか。「私がコロナにでもなったら大変だから、これまでは句会も吟行も出席を控えていたの。これからは、半径2キロメートルの生活から解放されるわ」とのことで、句会も吟行も積極的に参加するという。  お祈りと勝負弁当の効験あらたか。すでに私立の有名医科大学には合格し、国立大学の結果を待つのみだそうだ。おめでとうございます。 (双 23.03.13.)

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童謡の里ゆくバスを待つうらら  杉山 三薬

童謡の里ゆくバスを待つうらら  杉山 三薬 『この一句』  日経俳句会の創設者村田英尾先生(筑波大学教授、日経診療所長)が亡くなったのは2005年3月2日。以来、毎年2月末から3月半ばにかけて、有志で八王子霊園に墓参りし、その近くを吟行するのが習いとなっている。  令和5年は霊園前からバスに乗って30分近く、もう山梨県境に近い山奥の「夕焼け小焼けの里」に行き、またバスに乗って折返し、高尾山口に近頃出来たアイリッシュパブで俳句談義を闘わす懇親会を開いた。  この「夕焼け小焼けの里」はその名の通り、「夕焼け小焼けで日が暮れてー」の有名な童謡を作った詩人中村雨紅の生まれ在所。雨紅がこの童謡を作詞した大正時代にはまだバスも通らず、雨紅は八王子駅まで4里の道を毎日歩いたという。今は舗装道路が通り、一時間に一本のバスが通うようになってはいるものの、村の様子はあまり変わっていない。「時刻表もバス停もないバスを半信半疑で待っている時間は、長閑そのものでした。まさにこの句の通り」(双歩)、「うららという言葉だけであの時の情景が目に浮かびます。バスを待つっていいですね」(実千代)。  手を上げれば停留所ではない場所でも乗せてくれるし、降りたい場所で「下ろしてー」と言えば止まってくれる。「東京都内にもまだこんなところがあるんだなあ」と愉快になった。 (水 23.03.12.)

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ダウン着て少女ビラ撒く余寒かな 中村 迷哲

ダウン着て少女ビラ撒く余寒かな 中村 迷哲 『合評会から』(日経俳句会) 雀九 想像する景色は人によって違うと思うが、私は神楽坂のガールズバーの前でダウンを着た少女を見たことがあり、その光景を思い出した。 方円 以前から嫌な光景だなと思っていた。よく俳句にしてくれた。 鷹洋 地元の赤羽でも十代とおぼしき少女が派手な格好をして立っている。確かに嫌な光景だが、いかにも現代的だなと思って頂きました。 青水 季語の雰囲気をきちんととらえている。様々な物語が生まれてきそうだ。 明古 解決していないこと、訴えたいことがあり、 ビラを撒く。大人ではなく少女である点に切迫したものを感じ、 季語が通奏低音になっている。           *       *       *  句会に出た多くの人が、いかがわしい店の女の子の客引きビラ配りを思い浮かべたようだ。作者もその情景を詠んだのだと言う。即ち現代盛り場風景である。しかし私はとっさに自宅近くの駅前でのビラ撒きアルバイト少女を思った。横浜の住宅地では高校生のアルバイト先は駅前のビラ配りくらいしか無い。それも概ねマンション販売チラシ。みんな受取りを拒否する。ビラを撒き終えない限り少女は帰れない。大変だなと思うので、私はいつも突き出されるビラを必ず貰うことにしている。  「ダウン着て」という表現に余寒の中のビラ配りの感じがよく出ている。ところがこの句の少女は、寒空でビラ撒きした上に「接待」労働をせねばならないのだから、なおさら大変だ。 (水 …

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増え続く空き家どうする猫の恋  須藤 光迷

増え続く空き家どうする猫の恋  須藤 光迷 『合評会から』(日経俳句会) てる夫 高齢者がたくさん住んでいる地域にいるので、空き家は切実な問題です。最近も近所で二軒ほどお年寄りが亡くなって空き家になった。 水牛 横浜市営地下鉄の奥の方は、昔は「金曜の妻たち」の舞台になったりした人気の住宅地でしたが、今は空き家だらけで社会問題になっている。時々散歩に行くが、そんな空き家と猫の恋をよく取り合わせたものです。時事俳句の感じもあり、面白い。 静舟 またしゃくにさわる猫の恋の季節です。空き家が増えて猫ちゃんたちはますます自由恋愛華やかに。 弥生 シビアな問題を季語が一蹴する面白さがあります。           *       *       *  選者の評の通り、読者がどこに住んでいるかに拘らず、一様に空き家を身近に感じているのがよく分かる。筆者もまた然り。どういう事情かわからないが、散歩の途中に庭の雑草が伸び放題の閉めきった家が目に付く。時に春。そういう空き家の庭は恋猫の格好の土俵だ。うなり声やバトル中の咆哮など、辺りはばからず春眠を破られること再三だ。  深刻な社会問題を「猫の恋」がさらりと躱し、まあ眉根の皺を解いて落ち着いて考えましょう、とでも言っているようだ。折から大河ドラマは「どうする家康」だし。 (双 23.03.09.)

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