二月の薄明け急ぐ通勤路     池内 的中

二月の薄明け急ぐ通勤路     池内 的中 『季のことば』  「二月」という季語。「にがつ」としか読めないのだが、古い俳句では「にンがつ」と読ませる例がある。子規の句に「二月や人の油断を花になる」というのがある。これは「二ン月」の「ン」が入っていないので、」「にぐわつ」と読ませるのだろう。「にぐわつ」もおかしな読み方ではある。古語の発音をそのまま採ったと思う。角川歳時記には「にぐわつ」との読みも添えているから、それなりに認知された用法とみえる。「二ン月」という句は昭和の俳人も堂々と作っている。「二ン月や鋸使ひては地に置き」山口誓子、「二ン月の雲濃し兵の妻を訪ふ」三橋鷹女、「二ン月はいつも部厚き靴の音」桂信子など。さすがに現代俳句ではこの用法は極々少ない。  頭に「二月」と置こうとすれば、「二月の」では字足らず。「二月来る」「二月尽」とすれば、出来ないことはない。「二ン月」とは上五に歯切れの良さを出したいからだろうかと、筆者は憶測するばかりである。ちなみに今月の句会では兼題句三十一句のうち、三句が「二ン月」を使っていた。  「二月」論はさておき掲句である。立春となり日の出がひと頃より早くなったように感じるが、早朝はまだまだ暗い。六時でも暁闇が残って薄明り。いそいそと起き出し、勤めに向かう一日の始まりを現役大学教員の作者が詠んだ。誰もが経験したことのある通勤光景だが、「二月の薄明け急ぐ」の措辞に第一限の授業に対する真剣味を込めた句とみたい。 (葉 23.02.16.)

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散歩にも股引を履く二月かな   澤井 二堂

散歩にも股引を履く二月かな   澤井 二堂 『おかめはちもく』  この気分実によく分かる。もう春になったというのに、やけに寒い。起き上がるなりくしゃみが二三発立て続けに出る。日課の朝散歩も股引をはいての重装備である。「ア~ぁ、年は取りたくないものだ」などと独り言をつぶやきながら、股引の温みを有り難がっている。余寒の老人の気分を素直に伝えて、なんとも和やかな感じである。  しかし、この句はどこか変だ。「散歩にも股引を履く二月」という言い方である。これだと2月になって股引をはき始めたように受け取られそうだ。高齢者は冷え込みの増して来る12月半ば頃には履き始めるのが普通ではあるまいか。 この句は「なんとまあ、春を迎えたというのに、まだ股引のお世話になる始末ですよ」という感慨なのではないか。どうもそんな感じがするし、そういう所を詠んでこそ俳句になるように思う。  もし、一念発起、「今年の冬は股引など履かないぞ」と頑張っていた人が、2月の寒の戻りに震え上がって履いたというのなら、それはそれで面白い。その場合は「二月になって股引を引っ張り出す始末ですよ」ということを、もっと強く言った方がいい。  この句はそんな痩せ我慢の句とも思えない。だとすれば、「二月なほ股引を履く朝散歩」などと素直に詠んでおいた方がいいようだ。 (水 23.02.15.)

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三日ほど晴れて焼野の匂ひかな  今泉 而云

三日ほど晴れて焼野の匂ひかな  今泉 而云 『合評会から』(番町喜楽会) 水兎 わかりやすい句なのでいただきました。あゝ、もう三日くらい経ったなあという思いでしょうか。 愉里 晴れて空気が澄んだことで、焼野の匂いがするようになったのでしょうか。焼野の匂いを焦げ臭いと思う人ではなく、この人はそういう匂いが好きな人だと思います。 可升 わたしもこの人は焼野の匂いが好きなのだと思います。「三日ほど」という詠み様が、俳句らしさを感じさせます。 百子 雨が降った方が焼野の匂いは強くなる気がします。三日も晴れが続くと匂いはなくなるのではないかと思い採れませんでした。           *       *       *  兼題は「末黒野」だったが、「焼野」の句に仕立てた。歳時記によっては両方裏表の傍題となっているようだ。末黒野という平安朝風の雅を取るか、現代もあちこちで行う野焼き後の焼野と受け取るかであろう。厳密にいうと末黒野は川べりの茨や芒が半焼けに残っている様らしいが、馴染みのあるものではない。時雨ほどの少雨なら三日の晴れがあれば焼け焦げた匂いがかすかに残っているとも思える。なににしても正統俳句の佇まいがある印象的な句だ。作者によると、学童疎開をしていた昔に友人が、今日は雨が上がって焼野の匂いがすると言っていたのを思い出しました、とあるが。 (葉 23.02.14.)

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ヨガマット伸べて瞑想日脚伸ぶ  廣田 可升

ヨガマット伸べて瞑想日脚伸ぶ  廣田 可升 『季のことば』  「日脚伸ぶ」は冬至を過ぎて昼の時間が少しずつ延びていくことを意味する晩冬の季語である。水牛歳時記によれば、もうすぐ春が来るという気持が「日脚伸ぶ」には込められている。「春近し」「春隣」「春待つ」といった季語の仲間とも言うべき言葉で、待春の気分を具体的な日照時間の長さで表した、とされる。  掲句はそうした春を待つ気持ちを、ヨガマット上の人物に重ね合わせて詠んでいる。広いリビングルームであろうか、床にマットを引き、ヨガのポーズを取っている。春が近くなって部屋の中に暖かい日差しが差し込む時間が長くなり、ヨガにもじっくり取り組める。ポカポカの日差しを浴びて瞑想する姿と、春への期待感がうまくマッチしている。マットを「伸べて」と季語の「伸ぶ」を掛け合わせた、さりげない言葉遊びも楽しい。  ヨガは古代インドの宗教的な修行法が発展し、世界的に広まったとされる。呼吸法と瞑想を基本に、様々なポーズ(アーサナ)を組み合わせて心身の安定を図るのが本来の目的らしい。句会での作者の解説によれば、自宅でヨガに励む妻を詠んだと句という。ヨガのポーズは体や手足を曲げたり伸ばしたり、極めて数が多い。初案では脚のポーズを詠み込んだが、言葉がかぶるので瞑想に変えたとか。動きのあるポーズより、静かな雰囲気の瞑想のほうが、日脚伸ぶの柔らかな語感にしっくりくる。変えて大正解である。 (迷 23.02.13.)

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蝋梅や肌のぬくみの帯を解く   星川 水兎

蝋梅や肌のぬくみの帯を解く   星川 水兎 『この一句』  この句を読んで、何となく作者の見当がついた。和服を愛用しているという点もさることながら、独特の皮膚感覚の持ち主だからだ。解いた帯に肌のぬくもりが残っている、というなまめかしくも臨場感溢れる描写は、作者ならではの世界感だ。季語「蝋梅」にもよく合っている。蝋梅の名の由来は、ろう細工に似た花が梅と同じころに咲くからといわれている。やや肉厚で香りも強く、艶やかだ。  筆者が日経俳句会に入会したてのころ、同じ作者の「吐息つき真珠はずせり五月闇」という佳句に出会い、強く印象に残ったことも思い出した。パーティーにでも出席したのか、帰宅してやれやれと一息ついたところか。どことなく「花疲れ」を思わせるアンニュイな感じが似通っている。そういえば、杉田久女の「花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ」という句もあった。  「蝋梅を取り合わせたことで、色気のある句になっています」(明古さん)、「艶めかしさが蝋梅とよく合っています」(百子さん)、「帯を解いているのはどこか?あれこれ想像がふくらみます」(弥生さん)、と女性から支持された。こういう繊細な描写に出会うと、男もついふらふらと魅了されてしまう。 (双 23.02.12.)

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目標を下方修正する二月     向井 愉里

目標を下方修正する二月     向井 愉里 『合評会から』(番町喜楽会) 春陽子 これは職場の句ですかね。営業の仕事もやった経験があるのでよくわかります。 白山 先程「領収書」の句もありましたが、どちらも二月に相応しい句ですね。 迷哲 これは、今年は瘦せようという目標を立てた人が、もうあきらめちゃったという句ではないでしょうか(笑)。 春陽子 そうか、ビジネスの句じゃないのか。 可升 わたしもビジネスの句だと思い採ろうとしたのですが、ビジネスでは三月決算直前の下方修正はご法度。下方修正をするなら十二月じゃないかと思いました。 愉里(作者) 迷哲さんが言われた通り、一月にやろうと決めたことを、二月にはもう下方修正するという句で、ビジネスの句ではありません。ちなみに、うちの会社は十二月決算です(笑)。           *       *       *  ビジネスで頻繁に用いられる下方修正という言葉を使って諧謔を弄したのがまんまと成功した。実態は迷哲さんが喝破し、作者も白状しているような身辺雑記である。そういえば同じ句会に「もう日記帳には空白が目立つ」という句も出た。二月とは結局はそういう月なのかも知れない。 (水 23.02.10.)

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海に入り水母となるや雪女    須藤 光迷

海に入り水母となるや雪女    須藤 光迷 『季のことば』  「雪女」の登場――メルヘンである。俳句の世界では、実在しない事象事物を季語に仕立て俳味として興がる風がある。名句佳句となるのは相当難しい。「鎌鼬」「亀鳴く」「蓑虫鳴く」「龍天に昇る」「鷹化して鳩となる」「雀変じて蛤となる」などなどが思い付く。俳句に馴染みのない人にすれば、なんと奇想天外なことを言っているのだと呆れるに違いない。「蜃気楼」は誰もが知る言葉だが、元は古代中国で大蛤の吐く息でできた楼閣と見立てたからその名が付き、この国に入ってきたという。  「雪女・雪女郎・雪娘」も、また季語ではないが「遠野の座敷わらし」も伝説・民話の世界では主演級の存在といえる。雪女を詠めば句はおのずと民話の雰囲気を醸す。冬の囲炉裏端で婆さまが語り出せば、孫たちは怖さに背中をゾクゾクさせた、今は昔。  掲句は民話の登場人物を借りて実は雪国の実景を詠んだとみた。一晩に1㍍も積もる豪雪地方では、屋根も道端も冬の間数メートルの積雪となる。屋根から下ろした雪をダンプカーに積み、大河や海に投げ棄てなければ家は重さに耐えられない。この句は海への投棄場面を詠みながら、ファンタジックな趣きを出している。ダンプの雪を雪女に譬えたのは積雪のなれの果ての姿と言えるし、「水母となるや」は投げ込まれて海に浮かんだ雪の塊そのものということになる。不思議な句と票を集めたが、大雪を雪女になぞらえて見事なメルヘンの句になった。 (葉 23.02.09.)

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冬晴れやこの大窓のこの青さ   大沢 反平

冬晴れやこの大窓のこの青さ   大沢 反平 『この一句』  技術革新の成果を身近に感じるのがガラス窓の大きさである。高度経済成長のⅠ970年代には開放感を示し、「明るさ」を誇示した大きなガラス窓を設えたビルや住宅が現れた。バブル経済と言われた90年代にかけては更に“ガラス窓の進化”が進み、東京・丸の内、大手町に続々立つ高層ビルの総ガラス張りの表玄関は目をみはるものがあった。成長企業は業績好調を誇示するかのように新ビルを建て、一階の玄関口は二階まで達する一枚張りのガラスで人目を引いた。せっかちでおっちょこちょいが、そういったビルのガラス扉に激突して昏倒する事故も起こった。  いまや一般家庭の住宅でも戸建て、マンションを問わず、桟の無い総ガラス張りの大窓が珍しくない。  確かに大窓ガラスは気持が良い。この句はそれをおおらかに詠み上げている。それがまた素直で気持いい。ことに冬晴れの、奥深くまで見通せるような青空を見上げると、一瞬憂さを忘れる。しかもこちらは大窓に守られた温かい室内に居る。天国、極楽とはまさにこういう気分のする場所ではなかろうかと思う。  しかし我に返れば、悲しいかないつまでも極楽に座って青空を眺めてばかりも居られない。あれもしなければ、これもしなければ・・と浮世の柵にかけられた野暮用が山積している──と、大窓の青空を見上げて吐息つく。 (水 23.02.08.)

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松過ぎて犀川彩る加賀友禅    吉田 正義

松過ぎて犀川彩る加賀友禅    吉田 正義 『この一句』  「犀川」という河川は本州に複数(ある資料によれば七河川以上)存在する。中でも広く知られているのが長野県北部を流れ、千曲川と合流する犀川。続いて石川県金沢平野の中央部を行く二級河川の犀川。こちらは金沢市の北部を水源とし、市内を流れて日本海にそそぐが、特に冬季の、加賀友禅流しで広く知られるようになったという。  友禅は京都に生まれた染色技術だった。元来の技法は江戸時代の京都の扇絵師・友禅の絵に由来し、その画風を着物の文様に応用したとされる。京都の絵師によって友禅の技法が完成後、友禅の技法が加賀藩の金沢に持ち込まれ、独自の発展を遂げて「加賀友禅」となり、現在は金沢の冬の犀川を彩る風物詩として知られるようになった。  掲句の作者はこじんまりした商社の経営者である。旅好きで、商売がらみに関わらず国内あちこちへの旅を続けているようだ。句会で特に中部地方、関西地方などを詠んだ句が出てくると、タイミングよく「このあたりはねぇ」「あの寺はねぇ」と蘊蓄を披瀝する。掲句の場合も、犀川や京都友禅と加賀友禅の関係などを、適切に説明していた。 (恂 23.02.07.)

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O脚も生きた証ぞ初詣      岡田 鷹洋

O脚も生きた証ぞ初詣      岡田 鷹洋 『この一句』  「初詣とO脚の取合せが可笑しいですね。初詣する人を後ろから見たところでしょうか」(木葉)、「『生きた証ぞ』に自嘲や自虐につながるものを感じました」(靑水)といった句評が寄せられた。戦中戦後の食糧難・栄養不良時代を生き抜いた「貴重な証拠」だというわけである。  作者によると、「元旦に近所の神社に行ったら老人がたくさん並んでいて、O脚の人がたくさんいた。この世代はO脚でもこうしてじっと並ぶのだと感心したのですが、ぼくは並ぶのが嫌で、すぐ引き返してきました」のだという。  O脚というのは両脚を揃え、くるぶしをくっつけるように立った時に、太腿から膝、脛で作られる形がO(オー)の字になるものを言い、医学的には「変形性膝関節症」と言う。加齢や極端な体重増加で、筋肉が骨を直立させることが出来なくなって、膝関節が変形することにより発生するらしい。  成長期の栄養不良で、骨や筋肉の発達が思うにまかせなかったことにより発症度合が高まるとの説もある。今日80,90歳台のいわゆる戦中戦後派にO脚が目立つのはそれか。O脚は大昔からあり、もっぱら「がに股」と呼ばれていた。  作者も苦しい戦中戦後を掻い潜ってきた世代。失礼ながら後ろから拝見すると明らかにこの傾向が見られる。しかし、この句からうかがえるのは悲嘆ではなく、一種の開き直り精神だ。「生き抜いた証だ」と吼えているところが微笑ましい。 (水 23.02.06.)

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