母港へとくぐる海橋朝の月     河村 有弘

母港へとくぐる海橋朝の月     河村 有弘 『合評会から』(三四郎句会) 進 船が例えば瀬戸大橋をくぐり抜け、船員は朝の月を眺める。さぞや爽快だろう。 信 遠洋の旅から数カ月ぶりに日本へ、という状況を想像する。船員たちの心の高ぶりが感じられる句だ。 豊生 大漁に胸張る夫。安否を気遣う妻子。それぞれを照らす名月。雄渾な一幅と言いたい。 尚弘 朝の月が句を引き立てていますね。 雅博 私の生まれ故郷、関門大橋の光景を思い浮かべました。           *       *       *  遠洋の航路から帰港の大きな船、大漁の漁船、そして瀬戸大橋、関門大橋――。選ぶ側が心に描く対象はそれぞれに異なっていながら、どれもが納得できる情景となる。俳句と言う小さな文芸の持つ不思議な力と言えるだろう。さらにこの海橋の長さや壮大さによって、長い航海、乗組員の努力、苦闘、母国へ帰還の喜びなどが、浮かび上がってくる。  句会後、作者から句の風景を見た場所を聞いた。「横浜にある住居(マンション)の窓から、横浜港がよく見えます」とのこと。朝月の残る横浜港。なるほど、と思う。 (恂 22.11.07.)

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妻と越す七十の坂温め酒     谷川 水馬

妻と越す七十の坂温め酒     谷川 水馬 『この一句』  本屋に行くと高齢化社会を反映して「老い方」に関する書籍や雑誌がたくさん並んでいる。最近では「70歳の壁」と「80歳の壁」がよく売れているという。健康で長生きする食事術や病気との向き合い方、ボケない暮らしなどを解説したものだ。ちょっとだけ立ち読みしたが、人生100年時代を全うするためには、70歳からの食事、ライフスタイル、心がけが大事だと説いている。  掲句の作者はその70歳の坂に差し掛かり、奥様と一杯やりながら、坂の越え方を思案しているのであろう。これまで歩んできた道のりを振り返り、これから越えて行く坂の先に思いを馳せる。しみじみとした夫婦の情愛が伝わり、季語「温め酒」が効いてほのぼのとした気持ちになる。  定年が55歳や60歳だった昭和の時代は、60歳の「還暦」を区切りとして、人生を考える人が多かった。しかし平均寿命が延び、定年も65歳に延長された今は、「古希」の70歳が大きな節目といえる。「70歳の壁」の著者によれば、体と脳を100歳まで若々しく保てるかどうかは、70歳が分岐点になるという。本には「美食のすすめ」「走るより歩く」「仕事と勉強は死ぬまで」など、老いを遅らせる秘訣が紹介されている。  作者は数年前に大病を患い、夫婦二人三脚で乗り越えられたと聞いている。ともに今68歳という二人が越える「七十の坂」には格別の思いがこもっているに違いない。温め酒もほどほどにして、次の「八十の坂」に向けどんな暮らし方をするか、奥…

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十月の果実に我が身甘やかす   大下 明古

十月の果実に我が身甘やかす   大下 明古 『合評会から』(日経俳句会) 健史 秋の恵みが次から次へと浮かんできます。「甘やかす」から果実の甘さを連想します。 青水 糖尿病なんてクソ喰らえって言うくらい、私自身の実感。下五の「甘やかす」が秀逸。 双歩 十月は果物が豊富ですよね。ついついあれもこれもと手が出て、なんとなく甘やかしそうだな。 芳之 美味しい、いや上手い句だと感じました。           *       *       *  桃、梨、葡萄、栗、柿、林檎、青蜜柑、無花果、石榴。さらに、柚子や檸檬なども加えると季語になっている秋の果実は枚挙にいとまが無い。どれも個性的な味で、彩りも豊か。正に実りの秋の面目躍如だ。  では、作者の目の前にはどんな果実があるのだろうか。桃や梨などは概ね盛りを終え、十月に店頭を賑わせているのは、柿、林檎、葡萄、蜜柑、栗、無花果などだが、果たして作者の好物はどれか。などと想像はふくらむが、上五の「十月の」からは、ある日一日の景というよりも、十月という長いスパンの食卓のことと推察される。「軽み」の句風が魅力的な作者だけに、果糖の取り過ぎはよくないと知りつつも「旬の味覚には逆らえない」、という開き直り宣言が微笑ましい。 (双 22.11.05.)

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黄落の一葉拾いつ墓地探し   藤野 十三妹

黄落の一葉拾いつ墓地探し   藤野 十三妹 『この一句』  落葉降る墓苑を歩いているのだろうか。作者は、梅雨時六月に.掛替えのない伴侶を失った人であった。コロナ籠り、句会で対面する機会もなく、お悔やみの一言も申し上げていなかった。恐るおそる携帯電話を取り上げた。電話の第一声は、はきはきと「うわあ、声が聞けて嬉しい」と明るかった。  でも語る近況は暗かった。亡くなったご主人の銀行口座は相続の手続きが済んでいないので封鎖され、親戚に支援を頼んでいるという。納骨も手がついていない。「涙をふく間もありません」とこぼした。それでは墓所探しも急いで具体化できそうにあるまい。気分転換の散歩替わりだったのだろうか。  夫婦二人きりのスイートホームも老老介護の年代になると、大所帯が羨ましくなる。いざという時、頼りになるのはやはり家族、親族だ。作者は今や天涯孤独、黄落の一葉だろうか。早く元気を取り戻し、心身健康な日々を取り戻すように願わずにいられない。「黄落の句」とともに、作者が同じ句会に出したのは「独り身の骨を噛むよな秋時雨」の一句。  どうか句作にも精を出してください。 (てる夫 22.11.04.)

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鰯焼く遠き昭和の夕支度     久保田 操

鰯焼く遠き昭和の夕支度     久保田 操 『合評会から』(日経俳句会) 鷹洋 今どき、こんな風に鰯を焼くことはないでしょう。昔は結構ありました。ノスタルジーですね。古き良き時代、ということで採らせて頂きました。 而云 本当にそーだったなあ、って思った。終戦直後、鰯ばっかりだった。ボクはそれで鰯が好きになった。それでカミさんに頼むんだが、鰯を買ってきてくれないんだなあ。昭和は本当に遠くなった。しみじみと実感しますよ。 静舟 七輪を外に出して団扇でパタパタ。煙もうもう、目に染みる。ああ、昭和!鰯もうまかった! 昌魚 七輪を外に出して焼いて、よく食べました。懐かしい。 豆乳 鰯やサンマを焼く夕餉も、懐かしい情景になりつつありますね。 戸無広 昔懐かしい、田舎の家族との食事を思い出す。           *       *       *  合評会では「鰯でなくて秋刀魚にしても成立する句ではないか」という意見があった。しかし、それは違う。確かに秋刀魚も猛烈な煙を上げる。だが鰯の煙はもっとドロくさい、独特の臭みで、秋刀魚の煙とは全然違う。秋刀魚も大衆魚だが、秋の味覚としていわゆる上流階級の食膳にも乗った。しかし、鰯は完全に「庶民のおかず」だった。東京の下町にまだ長屋というものがあった昭和40年代、秋から冬にかけて、向こう三軒両隣すべて外に七輪を出して鰯を焼いた。その煙のなかをお父ちゃんが勤め先から帰って来るのだった。みんな貧しかったが、イキが良かった。 (水 22.11.02…

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秩父路や門扉に鹿の皮を干し  玉田 春陽子

秩父路や門扉に鹿の皮を干し  玉田 春陽子 『この一句』  合評会で高点を得たが半面異論も出た一句である。筆者は採らなかったのだが、「鹿」の兼題にこたえるのに十分雰囲気がある句と思う。いまどき、仕留めた鹿の皮を剥いで干す生活場面があろうかという気は確かにする。しかし秩父なら今もあり得る。なにも昔話だと断ずることはない。鹿の食害は山を持つ人たちにとって悩みの種だ。苗や若木を植えても鹿に食い荒らされて、山の再生ができないという。有害獣として駆除しようとしても、駆除後の始末にいろいろな隘路があったとも聞く。現在はジビエとして都内のレストランや道の駅などで供されるようではある。エゾシカの北海道では、以前から鹿肉ステーキは地元でお馴染みである。  たとえ昔話にしろ、民家のどこかに鹿の皮が干されている光景を見たことがない。奈良公園や宮島の鹿を詠んだ投句が多いなかで、異彩を放つ句であった。  何に異論が出たのか。まず「門扉に干す」である。人の出入りする家の門に鹿の生皮など干さないという声。でも筆者は秩父なら許されるかとも思うが、作者によれば実は場所は裏木戸だったと言う。それなら「門扉」は修辞ということでよかろう。「秩父路」も安易だとの声。何々路というと、句が緩んでしまう気がするとの指摘があった。異論は異論として措いて、五十年前を詠んだという秩父出身の作者は、いつもの巧者ぶりを発揮した。なめした鹿皮のあのぬめるような手触りを感じた句である。 (葉 22.11.01.)

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