約束を果たせぬ予感十一月    廣田 可升

約束を果たせぬ予感十一月    廣田 可升 『季のことば』  朝晩めっきり寒さがつのる十一月だが、季語としての「十一月」はやや捉えどころのない感じがする。きっぱりと冬の到来とは言い切れない。時期ものの紅葉や菊を句に織り込むわけにもいかない。生活面から見れば寝具・衣服などの冬用意、芸術・文化行事、新酒の出来、庭木の剪定その他もろもろがある。つづめて言えば、「十一月」は冬への準備月ということになるだろうか。喪中葉書がぼつぼつ舞い込むことで、そろそろ年賀状を考えなければならないことにも気づかされる。せわしない師走を前にいろいろやらなければと思うことは多いのだが、まだ四、五十日もあるぞという気持ちが、なかなか重い腰を上げさせない。  この句の「約束」とはいったいなんだろうか。奥方や家族に約束をしたことがあって、年内には果たすことが無理かもしれない、ということなのか。コロナ流行の第8派が予見されるなか、家族旅行の計画でもあったのか。それとも交友範囲の広い作者のことだから、友人と一杯やろうという約束なのか。はたまた忘年会の約束が多すぎてとても全部に出席できないと思い始めたとも。いずれにしろこの約束の中身が気になる一句だ。十一月というこの時期、手帳あるいはスマホを手に思案する作者の姿が浮かんでくるのである。約束のなにかを言わず、さらに「予感」という曖昧模糊とした言葉で読む人に預けたのが、この句の持ち味であろう。 (葉 22.11.18.)

続きを読む

祖母が着て母着た晴れ着七五三  池内 的中

祖母が着て母着た晴れ着七五三  池内 的中 『この一句』  七五三は子供の健やかな成長を祝う伝統行事である。11月の吉日に三歳、五歳、七歳の子供と親が神社や寺にお参りし、子供の無事を感謝しさらなる成長を願う。掲句はその七五三を晴着に着目して詠む。おばあちゃんが着て、その娘であるお母さんが着たという晴着が秋の陽に映えている。「着」の文字を繰り返し使うことで、晴着が代を重ねて大事に受け継がれてきたことを印象付けている。  ところでこの晴着を着ているのは誰であろうか。七五三の主役は子供だから、三歳か七歳の娘さんと考えるのが普通だろう。祖母、母、娘と三代に渡って使われた晴着ということになる。しかし子供の着物は汚したり傷んだりしやすいので、子供を連れて来た母親の着物ととれないこともない。その場合は若い母親が着る色留袖などの晴着となるが、いずれにしても七五三との組合せから、秋晴れの境内と幸せそうな家族の姿が浮かんでくる。  和服は洗い張りをすれば生き返る。仕立て直しも容易で、何代にもわたって着ることが出来る。求められる循環型社会にぴったりの衣料だと思うが、残念ながら日常的に着る人は減るばかりだ。句会での作者の弁によれば、川越の古着屋で着物を見ていて着想を得た句だという。自分の子供の七五三はレンタルで済ませたというオチが付いて、大笑いとなった。 (迷 22.11.17.)

続きを読む

木の瘤も拝めば仏秋うらら    星川 水兎

木の瘤も拝めば仏秋うらら    星川 水兎 『合評会から』(上田新蕎麦吟行) 三薬 「ほら仏の横顔に見えるだろう」。そう言われると、そう見えてくる。人なんて騙されたやすいもんですなあ。秋うららのひと時。 青水 ブナ観音をめぐっての木葉氏の堂々たる観察とご講義。オチがついての一幕を巧みに一句とした。 迷哲 観音の横顔に見える木の瘤を〝発見した観察眼に一同感心。その後、本物が見つかった顛末がユーモラスに詠まれています。 春陽子 日本人は何にでも神仏が宿るとしてきましたから、「拝めば仏」に納得。 木葉 日本では森羅万象にすべて神仏が宿るようで、文字通り「秋うらら」です。 百子 ブナの観音様が見つかるまでの皆様の会話、楽しかったですね。 双歩 思い込みとは恐ろしい。「鰯の頭も信心から」。           *       *       *  信州上田在の青木村へ名物の新蕎麦を目当てに吟行した。ハイライトは背後の険しい上りの修那羅山の石仏巡り。中でもブナ観音は面白かった。ブナの老樹のウロの中に観音様が祀られているのだが、薄暗くてよく見えない。木肌の瘤やくすんだ樹皮が見ようによっては仏様のようでもある。実際、それに向かって手を合わせた人もいた。それが大間違いと分かって一同大笑い。しかし木の瘤だって、拝めば観音様。「秋うらら」の季語との取り合わせが絶妙だ。 (水 22.11.16.)

続きを読む

クーポンで美酒酌み交し秋惜しむ 嵐田 双歩

クーポンで美酒酌み交し秋惜しむ 嵐田 双歩 『合評会から』(上田新蕎麦吟行) 方円 クーポンがミソですね。後世、コロナ騒ぎで内需振興のためお国が旅行クーポン券を発行したなんて、語り継がれるでしょう。 水牛 幹事の百子さん推奨のワインは確かに美味かった。クーポンのおかげです。これまた令和四年上田吟行の善き思い出。 愉里 幹事ご夫妻のとっておきのワインと日本酒。満喫させていただきました。クーポンさまさまです。 てる夫 高級ワインが次々に!うひょー! 水兎 ホテル代は五千円を切るし、その上三千円もクーポンをもらって、税金払ってきた甲斐がありました。           *       *       * ご隠居 熊さん、黙ってるけど、あんたもずいぶんはしゃいだ方だろう。 熊公  そりゃあもう、割り勘負けしないようにしこたまやらせてもらいました。それにしても、あっしもそうですが、いつもはお上のやることに何かとケチをつける面々がこんなに喜ぶなんて、ずいぶん現金な話ですね。 ご隠居 いやあ、現金じゃなくて・・・クーポンの話だ。    お後がよろしいようで。 (可 22.11.15.)

続きを読む

三十歳花嫁となる十一月     向井 愉里

三十歳花嫁となる十一月     向井 愉里 『季のことば』  私(筆者)のパソコンに残る今年の各句会の兼題を調べたら、日経俳句会の八月句会に「八月」があった。続いて番町喜楽会の九月句会に「九月」。そして十月の日経俳句会の「十月」が続く。この時点で私は一つの期待を抱いた、来月のどこかの句会に「十一月」が出てくるか」ということである。  十一月は捉えどころのない月だ、と私は思う。一生のうちに十一月という季語を詠むことがあるだろうか、とぼんやり考えたこともあった。日経句会系の各句会の兼題を、どなたが決めているのか私は知らない。果たして今月はどうか、と待ち受けていたら、番喜会についに「十一月」が登場した。  選句表が到来、ずらりと並ぶ十一月の句の中から、掲句に眼が止まった。「六月の花嫁」は幸福になるのだという。では十一月の花嫁は? じっと句を見つめていたら「この人も幸福なる。絶対に」との確信が湧いてきた。理屈ではない。句を見てそう思えてきたのだ。三十歳の花嫁と十一月の小春日の醸す雰囲気を感じ、私は「うまく詠むものだな」と頷くばかりであった。 (恂 22.11.14.)

続きを読む

コスプレの少女の夜寒渋谷駅   徳永 木葉

コスプレの少女の夜寒渋谷駅   徳永 木葉 『この一句』  渋谷をよく知る人は、渋谷駅では普通の日にもコスプレを見かけるというが、やはりこの句はハロウィンを詠んだ句だろう。  ハロウィンは好きではない。なにが面白くて、あんな格好で騒ぐのか訳がわからん、と常々思っている。ハロウィンを季語にしたい向きもあるようだが、出来るかぎり引き伸ばしてほしいと思っている。一方で、「最近の若者は」などとは、間違っても言いたくない。むかしの、ヘルメットとゲバ棒の時代、あるいは、ジュリアナ東京に代表されるディスコの時代など、いまのハロウィンと似たようなものではなかったか。どこかで発散させたい若さは、いつの時代にもあったし、これからもあるだろう。  掲句は「少女の夜寒」がとてもいい。肌寒い季節に、露出度の多い、いかにも寒そうなコスプレをしていることを指すのだろうが、この言葉は少女の内面の「夜寒」も指し示しているように思う。ひょっとしたら、「ほんとは、コスプレなんか好きじゃないけど、仲間はずれになりたくないし」と思っているのかもしれない。年寄りの妄想であることは言うまでもないが、「この子に幸あれ」と思わずつぶやいてしまう。時代を写しとった、せつない一句である。 (可 22.11.13.)

続きを読む

善き人の往き交う句会秋闌ける  堤 てる夫

善き人の往き交う句会秋闌ける  堤 てる夫 『この一句』  句会をテーマにした俳句である。俳句は座の文学といわれるが、この一句からは、句会に集った人々が句友の句に共感し、あるいは対象の捉え方や表現、解釈をめぐって談論風発しという、和気藹々とした光景が想像される。しかも季語は「秋闌ける」つまり秋の深まったころとなっており、しみじみとした情感の高まりも覚える。  ところで、この句には前書きが付いていた。「二百回例会に寄せて」と。月例会とすれば、すでに十七年を数え、十八年目も目前である。合評会では「善き人は誰?」という問いが出、作者から「亡くなった人も…」という説明も。鬼籍に入った人もいれば、体調を崩した人もいて不思議はない。だが、一期一会を心に、句会は続く。  俳句のいいところは肩書、すなわち会社など俗世間の組織の上下関係にとらわれず、座を共にできることだ。しかし、コロナウイルスの蔓延により、郵便や電子メールへの切り替えを余儀なくされたこともあった。この一句には、そういう事態を乗り越え、対面の句会がかなった喜びも含まれている。俳句を絆に心豊かな日々を送りたい。 (光 22.11.11.)

続きを読む

ちよいと出て秋澄む街にモンブラン  金田青水

ちよいと出て秋澄む街にモンブラン  金田青水 『この一句』  「モンブラン」とはモンブランケーキのことだ。形がアルプス山脈の最高峰モンブランに似ているのでそう呼ばれている。もともとはイタリアの家庭菓子だったのを、フランスの老舗カフェがデザートとして供していたそうだ。日本には自由が丘の洋菓子店「モンブラン」が持ち帰りできるケーキとして売り出し、やがて全国に広まったという。今やショートケーキと並ぶケーキ屋さんの看板メニューだ。  その「モンブラン」は栗のクリームを使うので、栗が出回る今ごろが旬といえるかもしれない。少なくとも、作者にはその辺の事情が計算に入っていると思う。健康に良いのと句材探しを兼ねて、散歩を日課にしている句友は多い。作者もご多分に洩れず、あちこち歩き回っていると聞く。秋の田園風景をじっくり堪能した後は「ちょいと」駅前に出て、しゃれたカフェで一休み。「そうだこの時季はモンブランだ」とばかり熱い紅茶とともにフォークを口に運んだに違いない。一読、作者の気持ち良さそうな気分が伝わる一句だ。  ところで、作者は句会に掲句のほかに「十月のどんぐり無造作に踏み割る」などの定型を外す作品を出句した。掲句も定型とはいえ、詠み方が独特だ。個性的な句に出会うのは句会の醍醐味。これからも作者がどんな刺激的な句を作るのか、楽しみでもある。 (双 22.11.10.)

続きを読む

黄落や踏んだ踏まぬの通学路   伊藤 健史

黄落や踏んだ踏まぬの通学路   伊藤 健史 『合評会から』(日経俳句会) 三薬 踏んだのが葉っぱなのか、あるいは「お前、俺の足踏んだろう」というのか。どちらにしても子供の会話が聞こえてきそうだ。 方円 落ちた葉を踏んだ踏まないと、遊びながら学校へ行き帰りする状況ではないかと思う。 三代 黄落とはたぶんイチョウで、一緒に銀杏が落ちてたんじゃないかと思うんですね。 阿猿 落ち葉などおかまいなしの子供らの小競り合い。穏やかな秋の光景です。 百子 昔登校するときに道いっぱいに広がった黄落を踏みつけるのが楽しみでした。            *       *       * 読めば情景が浮かび、にぎやかな声が聞こえてきそうな、ほのぼのとした味わいの句である。十月の日経俳句会で「黄落」の兼題句では最高点を得た。句会では何を踏んだのかが話題となり、銀杏ではないかとういう三代さんの意見に賛同する人が多かった。  作者は京都在住なのでメールで問い合わせてみた。すると家の近くの通学路に銀杏が山ほど落ちて匂っていたので、「子供たちが踏んだら臭い臭いと大騒ぎしたのでは」と発想して詠んだという。俳句はわずか十七音。句が詠まれた状況を全部は盛り込めない。踏まれたものは分からなくても、黄落の通学路に元気な声を響かせたこの句からは、子供たちへの優しい視線と詩情が十分に伝わってくる。 (迷 22.11.09.)

続きを読む

家族葬にてとの便り秋時雨    須藤 光迷

家族葬にてとの便り秋時雨    須藤 光迷 『この一句』  コロナ禍は旧来の習俗慣習を変えてしまった。マスクは必須アイテムとなって、三年近い流行の間なくてはならないものになった。外出時に着けていないと落ち着かない気になるのは、ある意味習慣の恐ろしさでもある。人を識別するのに顔かたちではなく目元を見なければならないことにもなった。「目元は人を表す」と新しい俗諺が出来るかとさえ思う。  お葬式も大きく変わったものの一つだ。以前は両親の死に際し、子は世間体もあるだろうが身の丈いっぱいの葬儀をやり、親に受けた恩に感謝する。コロナを契機にこれが出来なくなった。強烈な感染力から大勢の人が集まる密はいけないという制約がある。しかたなく家族と親戚の近しい人だけに参列してもらう、いわゆる家族葬が主流となる。簡素な葬儀となるもう一つの理由は、三十年来続く低成長社会にあると思う。富裕層はさておき華美贅沢を控える風潮が浸透している。社会的に地位ある故人でも大々的に葬儀を営むことは少なくなり、後日偲ぶ会を行う例が多い。  掲句は以上のような世相を詠んだ。この状況にはそれぞれが気付いていることだが、あらためて俳句になると一、二もなく共感できる。句会で十二点と最高点を得たのは当然のことである。「家族葬にてとの便り」の措辞がことに上手いとの評が出るとともに、「秋時雨」の季語が揺るがず情感を増幅したと言える。(葉 22.11.08.)

続きを読む