帰り花他人の老いはよく分かる  杉山 三薬

帰り花他人の老いはよく分かる  杉山 三薬 『合評会から』(酔吟会) 双歩 確かにその通りで、自分のことはさておき、他人のことはよく分かります。「帰り花」には「狂い花」の傍題もあり、よく合っているかなと思いました。 鷹洋 自分のことを詠まれている気がしました。 春陽子 句を読んで、改めて反省しました。自分のことを脇におき、「あいつ、最近老けたな」なんて言っているのを。 可升 「帰り花」という季語は難しかった。この句はとてもうまく詠んだなと感心しました。 水牛 「帰り花」には寂しい感じがあり、「老い」とよく合いますね。 三薬 今日の句会では勘違いなどもあり、自分の老いを感じさせられました。季語はとってつけたものです(笑)。           *       *       *  この一句の評価のポイントは「他人の老いはよく分かる」だろう。歩き方をはじめ目や耳の具合など老いを窺わせる事柄はいくつかある。古希や喜寿を過ぎた句会のメンバーの多くは、そこに思い至ったのだろう。  ただ、世の中には「まだまだ若い者には…」という手合いの何んと多いことか。政界も財界もである。ちなみに、作者が付け加えたように、季語は帰り花でなくともよさそうだ。 (光 22.11.30.)

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二股の大根切るに忍びなき    廣田 可升

二股の大根切るに忍びなき    廣田 可升 『この一句』    大根は真っ白である。そして太くて長い。私が目にするのは、家内が近くの商店から買ってくるものばかりだから、すべて普通の大根である。作者は大根を作っている人から「こんなモノが出来まして」と二股の大根を頂いたのだろう。その大根を俎板に置き、作者は「さて、どうするか」と腕を組む。何しろ純白の、ずしりと重たげな大根の下半分が、二つに分かれているのだ。  私は俎板に真っ白な二股大根を置き、包丁を持って立つ自分を思い浮かべた。大根の“下半身”が真ん中から二つに分かれているのではなさそうだ。太い一本の胴から細い“足”が伸びているのだと決める。しかしそのように想像しても、大根に包丁を当て、ズバリと切る勇気が私から生まれるかどうか。  ならば細い方をぐいと掴み、ポキンと折るのはどうか。出来るかも知れないし、出来ないかな、とも思う。掲句を眺めながら、私は何とバカなことを、と自分を笑ったが、これは作者の仕掛けた冗談なのかも、と気づく。俳句という短詩は、一筋縄にはいかない手ごわい相手、という思いを深めた。 (恂 22.11.29.)

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山眠る杜氏の仕込み夜もすがら  岡田 鷹洋

山眠る杜氏の仕込み夜もすがら  岡田 鷹洋 『季のことば』  「山眠る」は中国宋時代の画家・郭煕の詩にある「冬山惨淡として眠るが如し」から採られたもの。水牛歳時記によれば「木々の葉が散り尽くした山が、静まり返って深い眠りに落ちているように見える」様を表す。郭煕の詩句は、山笑ふ(春)、山滴る(夏)、山装ふ(秋)と四季それぞれに季語となっているが、山眠る(冬)は、山笑ふと並び人気がある。  掲句は日経俳句会の11月例会「山眠る」の兼題句で、最高点を得た二句のうちのひとつ。ほかの句が「水底の村」や「大伽藍」など眠る山に抱かれた静的風物を詠んでいるのに対し、そのふもとで眠らずに仕込み作業をしている酒蔵に着目した意外性に惹かれた。背後の山の暗さと煌々と灯を点す酒蔵、静かに眠る山と忙しく立ち働く杜氏。明と暗、静と動の対比がまことに鮮やかである。  日本酒は今は冬(12月~3月)に醸造する「寒造り」がほとんである。秋に収穫した酒米を雑菌が繁殖しにくい冬に仕込んで発酵させ、絞って新酒が生まれる。いったん仕込むと発酵状態を24時間見守る必要があり、まさに「夜もすがら」の作業となる。  酒蔵は良水のわく扇状地の山際に設けられることが多い。眠る山の懐で寒さに耐えながら黙々と酒を醸す杜氏たち。句会では「神聖な営みの緊張感が伝わる」、「酒造り唄が聞こえる」といった評があった。悠久の自然と人間の営みの対比にまで思いが及ぶ佳句である。 (迷 22.11.28.)

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古書の値は鉛筆書きや一葉忌  玉田 春陽子

古書の値は鉛筆書きや一葉忌  玉田 春陽子 『この一句』   古書店の好きな筆者としては採らざるを得ない一句である。  古書の値付けは本を毀損するものであり、出来ればない方が望ましい。値付けの仕方は千差万別。市販の値札シールを貼るもの、店名入りのシールを作りそれを糊で貼るもの、あるいは、この句に詠まれたような鉛筆書き。店によってまちまちである。市販のシールや店名入りのシールは剥がしやすいものが良い。糊跡が残るときれいに拭くのは結構難しい。鉛筆書きは、最も古典的だが、買った後消しゴムですぐ消えるから有難い。値段を書き換えられるという、書店の側のメリットもあるのかもしれない。値段表示をしない店もある。例えば「一律定価の半額」というようなもの。絶版本には、定価より高くなっている古本も多く、そういう本をこういう店で見つけると嬉しくなってしまう。   この句の作者は「鉛筆書き」の素朴さに、なにかしら、懐かしさのようなものを感じたに違いない。ただ、合評会の場では、なぜ「一葉忌」なのかという疑問が多くの人から出た。  樋口一葉は、貧乏と戦いながら学び、「奇跡の十四ヶ月」と言われる短期間に、「大つごもり」「たけくらべ」「十三夜」など数々の名作をものにした。「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝(どぶ)に燈火(ともしび)うつる三階の騒ぎも手に取る如く・・・」。「たけくらべ」冒頭の名文を改めて読めば、理屈は定かでなくても、この句を締めるには「一葉忌」しかないと納得する。ちなみに、一葉忌は十一…

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子らも来て妻の傘寿の菊の宴   前島 幻水

子らも来て妻の傘寿の菊の宴   前島 幻水 『合評会から』(番町喜楽会) 白山 こんなにめでたい日はないですね。僕には孫もいないから羨ましいなあとか、ちょっと寂しいなあとかの感情が浮かびます。 水馬 「妻の傘寿の菊の宴」の「の」の畳みかけるような使い方のリズムがお上手だなと思いました。妻や家族に対する愛情があふれています。 愉里 おめでとうございます。お孫さんも集まられたことでしょう。「菊」がしっくりと皆様の品を感じさせます。 双歩 誠におめでとうございます。花期の長い菊がよく似合います。           *       *       *  めでたい、めでたいと、お祝いの言葉がやんやと投げかけられた一句である。それはそうだ。苦労も喜びもともにしてきた妻八十歳、そのお祝いにと集った子や孫。にぎやかな会食になった作者の喜びがあふれる。ドイツ出身と聞く作者の奥様が、日本生活にどっぷり溶け込んでいる様子まで垣間見ることができる。傘寿という日本の祝い事に身をゆだねている様子は嬉しい。めでたいという他ない気持ちの良い句になった。  作者の弁を聞くと、「ただ単に秋の宴会だから、季語として菊を持ってきただけです。家内の誕生日は、ちょうど皆さんが信州蕎麦吟行に行かれていた日です。吟行に行けなくて残念でした」。それに対して「いや当然だ。奥さんの誕生日をすっぽかして吟行に行ったら一生恨まれる」と会場が爆笑になったのを付け加えておこう。 (葉 22.11.25.)

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頼朝の墓の簡素や柊の香     田中 白山

頼朝の墓の簡素や柊の香     田中 白山 『この一句』  小学校の遠足で鎌倉に行き、頼朝の墓を見た、という記憶はあるのだが、どんな墓だったのか、場所は鎌倉の何処だったのか、などの記憶は一切、残っていない。そこで早速、ネットで検索する。「(墓石は)石積み層塔による簡素なもの」「墓前には明治期に白旗神社が建てられた」などと書かれていた。  そうですか、とは思ったが、私が興味を惹かれたのは「柊(ひいらぎ)」の香の方なのだ。子供の頃、隣家の庭に柊が植えられていた。横に大きく広がり、高さは当時の私の背丈を上回る程度だった。隣家の小母さんに「棘があるから近づかないように」と言われていた。辞典類によれば、その柊が「金木犀に似た芳香を発する」のだという。「えっ、あの木から芳香が」と思わざるを得ない。  写真で見た頼朝の墓は、確かに簡素だった。その脇の柊から芳香が漂ってくるのだ。改めて掲句を見つめ、特に「墓の簡素や」の簡素な表現に感心した。その墓に配した金木犀に似た芳香とは何とも素晴らしい。私はこの句を「全投句中の第一位」と決めた。もちろん自分勝手に決めた個人的な順位である。 (恂 22.11.24.)

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行く秋や旅の枕を当て直す    金田 青水

行く秋や旅の枕を当て直す    金田 青水 『この一句』  「旅の枕を当て直す」とは、何んとも巧みな情感にあふれた措辞である。秋の夜も更けたころ、布団の中で天井を見、枕に手をやっている姿が思われる。寝入れないのか、それとも夜中にふと目を覚まし、寝付けなくなってしまったのか。  原因は昼間の紅葉狩りなど行楽の楽しさが蘇ってのことか、松茸をはじめとする秋の味覚が舌に…なのか、あるいは明日アウトレットで手に入れようとしているブランド物のバッグなどを考えてのことか。いずれにせよ軽い興奮に襲われ、身は横たえたもののという状況が想像される。  十月というか中秋以降、世の中が急に賑やかになった。コロナウイルス蔓延に歯止めがかかり、「旅に出よう」のゴーツーキャンペーン再開が大きいと思われる。右見て左見ての同調圧力が大好きな人々が、堰を切ったように動き出した。年老いた親の顔を見に里帰りという親孝行や会食の禁を解き同窓会を開いた向きもある。  ところでこの一句、上五が「行く秋」だとしみじみとした感が深いが、「行く春」に置き換えるとどうなるか。夏を前にした、わくわく感に変わるのか。一文字の違いを考えてみよう。 (光 22.11.23.)

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ママチャリの前は大根子は後ろ  谷川 水馬

ママチャリの前は大根子は後ろ  谷川 水馬 『合評会から』(番町喜楽会) 白山  よくある光景だなと思っていただきました。 春陽子 普通は子が前で大根が後ろじゃないかな、それを逆にしたところが面白い。 的中  後ろに子供用座席の据えてある、ママチャリのごつい自転車でしょうね。前のカゴから大根の葉っぱが垂れ下がっている。 迷哲  スーパーの特売で買い込んだのだろうか、家事と子育てに奮闘するママの姿が浮かびます。           *       *       *  筆者も「よくある光景」を詠んだ句だと最初は思ったが、そうでもないような気がしてきた。最近の「ママチャリ」は的中さんが指摘されるように、ともかくごついのである。後ろの座席には、雨にも負けないフード付きの子供座席が据えられていて、前のカゴも特大仕様である。仮に大根を買ったとしても、普通の大きさの大根なら、エコバッグごとすっぽり収まってしまう。それに、スーパーでは葉っぱの切り落とされた大根しか売っていない。  そんなわけで、大根がカゴからはみ出している光景など、実際には、ほとんど見かけなくなっているように思うのだが、それでもやはり「よくある光景」だと思ってしまう。それはたぶん「前は大根子は後ろ」が、幸福な光景だからに違いない。 (可 22.11.22.)

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はにかみて席譲る子や秋うらら  大澤 水牛

はにかみて席譲る子や秋うらら  大澤 水牛 『この一句』  電車の中で席を譲ったり譲られたりした経験は誰しもあると思う。その時に感じた気恥ずかしさや戸惑いもまた覚えがあるのではなかろうか。掲句は車内の小さなドラマに目をとめ、心がほっこりする句に仕立てている。「はにかみて」の五文字に場面を凝縮させ、思い切って席を譲った子供の心の動きを伝え、それを見守る乗客の優しい視線を感じさせる。秋うららの季語と響き合って、爽やかな印象を残す。番町喜楽会の11月例会で最高点を得たのも納得である。  日本人ほど高齢者や体の不自由な人に席を譲らない民族はないと言われる。なぜ譲らないのかについての調査や分析もたくさんある。遠距離・満員電車という交通事情を指摘する意見もあれば、自己中心主義の風潮や公徳心教育の欠如を嘆く論も多い。個人的には他人の目や評価を気にする日本人のメンタリティーがじゃまをしていると考えている。 大股を広げて優先席を占拠し、スマホに熱中する若者が溢れる時代だけに、はにかみながら席を譲る子供の純真さが心に響く。作者によれば、東横線の車内で中学生ぐらいの子が席を譲り、恥ずかしそうに遠くの車両に行ってしまった場面を句にしたという。「いい光景なので、類句を恐れず出した」との自解があったが、句を読んだ我々もまた、心温まる場面を共有させてもらった。 (迷 22.11.21.)

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猫の手の温かき日や十一月    澤井 二堂

猫の手の温かき日や十一月    澤井 二堂 『合評会から』(番町喜楽会) てる夫 猫好きの人の句かと、その人を思い浮かべて忖度していただきました(笑)。でもその人が採っているので、ちょっと的外れでした。ほのぼのとしていい句です。 青水 悩み悩みいただきました。「十一月」という季語は難しい。この人は、その難しさに正面から立ち向かっている感じがします。「手の温もり」に着眼したのはいいのですが、俳句としてはちょっと生煮え感があります。もう少し推敲すると素晴らしい句になると思います。私にはできませんけれど(笑)。 水馬 外気が寒くなってきて気が付く猫の手の温かさ。リアリティを感じました。 司会 この句は本日欠席の二堂さんです。 誰か あれ、二堂さんは猫を飼っていたかなあ? いや、二堂さんの住まい(谷中)の付近には猫がいっぱいいるんだ……。寄って来るのかな。           *       *       *  小春日和ののんびりとした雰囲気が伝わって来ていい句だ。元々は猫嫌いだったのだが、迷い込んできた子猫をしょうがなくて飼ってから猫好きになってしまった私は、思わずこの句を採った。猫の手は、少し冷たくてざらざらしている。普通はあまり触ったりしない。それをこの人はふと触った。そうしたら意外に温かい。十一月のちょっと寒さを感じる季節に、「猫の手の温かき」を持ってきたのがいいなあと思う。 (水 22.11.20.)

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