姑は嫁の孕むや鰯摺る      鈴木 雀九

姑は嫁の孕むや鰯摺る      鈴木 雀九 『この一句』  日本人は世界で最も魚を食べる民族と言われる。黒潮と親潮の交じり合う豊穣の海に恵まれ、太古から様々な魚を食べてきた。そうした歴史を反映し、魚に関することわざや慣用句もたくさんある。兼題となった鰯に関しても、「鰯も七度洗えば鯛の味(脂の多い鰯もしっかり洗えば鯛にも劣らない)」とか「内の鯛より隣の鰯(隣の芝生と同意)」などいくつかある。  掲句を見て、こうした言い伝えを踏まえたものと思い、ネットなどで調べたが見当たらない。魚と嫁と言えば、「秋鯖は嫁に食わすな」がすぐに思い浮かぶ。「秋の秋刀魚は孕み女に見せるな」というのもある。鯖も秋刀魚も秋が旬であり、脂がのって美味しい。それを食べさせないのは、嫁いびりであるという解釈が一般的だが、鯖などの青魚は痛みやすいので、食べすぎて体を壊さないよう嫁を気遣ったという説もある。ましてお腹の大きい嫁なら、尚更であろう。  ではこの句の場合はどうであろうか。鰯は良質の脂肪酸やミネラル類、ビタミンDなど栄養豊富で、骨ごと食べればカルシュームを効率的に摂取できる。妊娠を知った姑は、お嫁さんの体力をつけ、お腹の子供の成長を促すために鰯をすり鉢でせっせと摺っているのである。つみれ汁にでもして、食べさせるのであろう。「孕むや」の措辞に、跡継ぎを待ち望む姑の気持ちが表れている。作者は経験豊かな内科の医師である。栄養学的に十分考えられた句であることは言うまでもない。 (迷 22.10.09.)

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秋蝿のわざわざ寄りて叩かれり  向井 愉里

秋蝿のわざわざ寄りて叩かれり  向井 愉里 『この一句』  「蝿」は夏の季語である。蝿は気温が高い夏に多く、活発に動き回ることから夏の季語となったのだろう。「五月蝿」と書いてウルサイと読ませることに、夏の蝿の特徴がよく現れている。  これに対して「秋の蝿」は飛ぶ数もぐんと少なくなり、存在感も薄まり、なにやらもの悲しさを感じさせる。さらには「冬の蝿」も俳句ではよく詠まれる。夏には嫌われていた蝿も、冬にはすっかり弱ってしまい、生きもののあわれさや、生命の実相を見せてくれる存在となる。  掲句は、決してうるさくない秋の蝿なのだから、わざわざ人のそばに寄って来なければ、叩かれることもなかったのになあ、という意味にとれる。「雉も鳴かずば撃たれまい」と意味はよく似ているが、そんな警句のもつ教訓めいた臭さをちっとも感じさせない句である。  作者は、蝿を叩いた人を非難するのでも、叩かれた蝿を貶めるのでもなく、蝿が「寄りて叩かれ」たことを、一つの事象として淡々と伝えている。そのことによって詠まれているのは、蝿のことよりもむしろ、秋のもの悲しさであり、この光景に立ち会っている作者自身の心の内だろう。「わざわざ」の四文字が効果的に使われ、とても俳句らしい俳句になっている。 (可 22.10.07.)

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うそつくな閻魔の声や秋暑し   岩田 三代

うそつくな閻魔の声や秋暑し   岩田 三代 『合評会から』(日経俳句会等々力渓谷・九品仏吟行) 三薬 現代的というか、商売上手というか、九品仏の声をだす閻魔大王。嘘を言い尽くした我ら老輩より、若い孫たちを連れてきたい。季語もぴったり。 光迷 改築された浄真寺の閻魔堂。お賽銭をあげると訓戒を垂れ始めるといういかにもAI時代にふさわしい仕掛け。訓戒にも何種類かあるようで……。 水馬 喋る閻魔様。季語と合っていると思います。 春陽子 賽銭を入れると「嘘つくな〜嘘は~」と声を出していた。からくり閻魔を一句に。目の付け所に一点。季語の選択もぴったり。 木葉 閻魔堂の外まで大音声が聞こえて来た。永田町と霞が関にこの「嘘つくな~」の閻魔堂を置いて欲しいものだ。 愉里 子供の頃はもっと身近に感じていた閻魔様。大人になって、すっかり遠ざけてしまっていました。           *       *       *  世田谷の名刹九品仏浄真寺は戦国時代の吉良氏の奥沢城が廃城になっていたのを利用し延宝6年(1678年)珂碩上人が開山した。徳川幕府が幕藩体制を完全に固めた4代将軍家綱の時代で、実際には不要だったが“万全の備え”として江戸の南西の固めに築いた豪壮な寺である。広壮な寺内には桜、紅葉が春秋を彩り、上品・中品・下品それぞれ三体、計九体の巨大な阿弥陀如来を祀る御堂がある。山門をくぐると間もなくある閻魔堂は数年前建て替えられたものだが、それを機に賽銭が放り込まれると閻魔大王ががなり出す仕掛け…

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孫の問ふ何であの雲いわし雲   高井 百子

孫の問ふ何であの雲いわし雲   高井 百子 『季のことば』  幼い頃のことは結構、覚えているような気がしていたが、八十歳の大台を越せば、おおよそは忘れ去っているものらしい。何かの折に「そうだった」と思い出すくらいが関の山。しかし何らかのヒントによって次々にさまざまなことを思い出し、汲めども尽きぬ思い出が甦ってくることもある。掲句に出会い、そのようなことを、しばらく考えた。  私が小学校高学年の項のこと。「鰯雲」も「鱗雲」も、名前だけは知っていて、その頃は別々のもの、と思っていた。秋日和の一日、鰯雲状の雲が空を覆っているのを見て、母親に聞いた覚えがある。「あれ、鰯雲? 鱗雲?」。母親は「そうねぇ」と呟いて空を見上げた。「どっちかな。分からない」。母はその頃、俳句をやっていたはずである。  掲句を見て、忘れていた母親とのやりとりを思い出し、やがて雲の真実が浮かんできた。鰯雲と鱗雲は同じものだったのでは? 歳時記を見たら、その通り。私はいつの頃か雲のことは忘れ、母との会話だけを覚えていた。それが頭脳の特質かも知れない。句のお孫さんも祖母に問うたことだけは、何時までも確実に覚えているに違いない。 (恂 22.10.05.)

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スケボーの子の股座から鰯雲   中嶋 阿猿

スケボーの子の股座から鰯雲   中嶋 阿猿 『おかめはちもく』  スケートボード(スケボー)は二十世紀の後半、若者たちの間で始まったスポーツだ。昨年の東京オリンピックで、スケートボードは初めて夏季オリンピックの追加種目に採用された。しかも、日本の選手が大活躍をしたこともあり、人気を集めている。  日本では路上や公園などで器物を壊したり、通行人との接触など危ないこともあり「スケボー禁止」の場所が多い。そんな中、世田谷区にある駒沢オリンピック公園にはスケートボード専用の施設があり、若者で賑わっている。作者はジョギングをしている最中にでも、スケボーに熱中している若者を見たのかもしれない。宙に舞ったスケートボーダーの脚の間から鰯雲がのぞいた、というのだ。いかにも現代的な情景を切り取った独創的な句だと思った。  ところが、この句を採った木葉さんから「子の股座(またぐら)から」は八文字で、さらに、鰯雲が股座から飛び出したわけじゃないから「から」はおかしい、と指摘があった。すると、『「股座に」にすればいいんだよ』と何人かの声。水牛さんは「こういうウィットに富む句は、定型を守らなければ駄目。読み直せば分かるんだから」と手厳しい。確かに「スケボーの子の股座に鰯雲」の方がはるかに良い。助詞の選び方一つでがらりと変わる好例だ。  それとは別に筆者は、「股座」というちょっと下世話な言葉がどうにも気になる。「股座」を使わない言い方はないのか。例えば次のように直すと原句から離れ過ぎ、印象が変わってしまうだろ…

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路地裏に一坪ほどの竹の春    久保田 操

路地裏に一坪ほどの竹の春    久保田 操 『合評会から』(日経俳句会) 三代 路地裏の小さな竹の春に注目しているのが新鮮です。 朗 竹には風情がありますが、根を張り家や塀を壊しかねません。他家(?)のことながら、いささか心配です。 豆乳 郊外の宅地によくある光景。懐かしい。 十三妹 ああ。なんて良い句なんでしょうか。ほのぼのと、荒れた心を癒してくれます。 戸無広 小さな場所でも竹の生命力を感じます。           *       *       *  ごちゃついた町中でも、背戸にささやかな竹やぶがあると落ち着いた感じになる。バブル経済が訪れる前の70年代には、東京23区内にもそうした家屋敷がたくさんあって、ごく普通の勤め人家族が住んでいた。しかし地価の暴騰とともに竹やぶや植え込みは片端から切られてしまった。この句はそうした中で奇跡的に残されている竹やぶだ。たとえ一坪でも心が休まる。  ただ朗さんが言うように、竹は油断するとぐんぐんはびこる。私の家も裏庭に植えた竹が猛烈に繁殖し手に負えなくなり植木屋に大枚払って根こそぎ抜いてもらった苦い経験がある。  「竹の春」と言われる9月、10月に「ひやおろし」という美味しい秋の酒が出る。春先に醸して火入れして貯蔵、夏を越して熟成した酒を二度目の火入れをせずに「冷や」で売り出すものである。爽やかにそよぐ「竹の春」を愛でるにふさわしい酒だ。しかし、我が家にはもう竹藪は無い。 (水 22.10.03.)

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梅干は三尾に一つ鰯煮る    星川 水兎

梅干は三尾に一つ鰯煮る    星川 水兎 『季のことば』  家庭料理のレシピのような句である。「鰯」という9月句会の兼題に鰯を焼く、煮る、叩くなどの句が出るのは想定内だった。ほかの句は鰯そのものを詠んだり、鰯のある生活風景を詠んだりしたものが多かった。しかし、鰯の梅煮のレシピが句になっていることには少なからず新鮮味があった。この日の他の兼題「竹の春」と「当季雑詠」をふくめても、この句が最高点を得たのも新味があったということだろう。  実はこの句、合評会のなかでちょっとした改作が行われた。原句は「梅干しは二匹に一つ鰯煮る」だった。点を入れた人の一人、鰯の梅煮に一家言ある長老から異論が出た。曰く、「二匹に梅干し一つじゃしょっぱ過ぎ。せいぜい三尾に一つだね」。これに作者は「すみません、煮たことないので当てずっぽうでした」と白状し、会場は笑いに包まれた。さらに長老は、最近の若い主婦らは魚を数えるのに匹と言い、本来の尾を使わないねと指摘。もともと素直な作者はただちにこれを受け入れ、掲句のように改めることを申し出た。  合評の場の利点は句友たちがあれこれ意見を言い合い、句がブラシュアップされることにある。欠席者の投句だと、こう工夫すれば秀句になるのにという声が出ても勝手に改作できず、もどかしい気がすることがしばしばある。世の俳句愛好者のなかには、改作を良しとしない人もいるが、あの俳聖芭蕉も改作で名句を生んだと思えば、こだわることはないと筆者は思うばかりである。 (葉 22.10.02.)

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