名月を眺め重ねし白寿かな    田村 豊生

名月を眺め重ねし白寿かな    田村 豊生 『この一句』  「いいね」と思い、「あの人の句かな」と見当をつけてから、待てよ、と考えた。作者は句会の最高齢だが、九十歳の少し手前のはず。白寿(九十九歳)はまだ先のことだ。しかし俳句は全て自身を詠んでいるとは限らず、父母や知人を詠んだとしても通用するはずだ。選句の終了後、掲句はやはり最初に見当をつけた「あの人」の作と判明する。  作者はほどなく到来するご自身の「卆寿(九十歳の祝い)」をうっかり「白寿(九十九歳)と書いてしまったらしい。続いて、ここに至るまでの経過を説明した。誤りに気付いた作者は「(句会の編集担当者に)この句を削除して頂きたい」と申し入れていたのだ。しかし選句表はすでに印刷済み、インターネットなど通じ、会員への配布も終えていた。「仕方なく、そのままにしたのだが・・・」。その結果、掲句は今句会の最高点獲得、となる。  もし「白寿」ではなく、「卆寿」と直したどうだったか。「白」と「卆」との文字の魅力度を勘案すれば、句会での最高点は無理だったのではないか。では卒寿間近の作者は、他人の「白寿」を詠むべきか。いや、違う、と私は思う。この後は健康に留意し、体調を整え、白寿を待って句会に出すべきだ。作者の元気さからすれば、その可能性は十分である。 (恂 22.10.31.)

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十月をあれこれ詰めて二段重   向井 愉里

十月をあれこれ詰めて二段重   向井 愉里 『この一句』  秋は過ごしやすく、万物の生気満ちる季節である。人も活動的になり、自然の恵みを享受する。実りの秋、収穫の秋、行楽の秋、スポーツの秋といった言葉にその特質が良く表れている。作者は秋真っ盛りの十月の朝、二段重ねの重箱に料理を詰めている。「あれこれ」の言葉から、旬の食材や家族の好物を吟味している姿が浮かび、心の弾みまで伝わってくる。重箱に詰められた料理は何だろうと想像が膨らむ。  秋の味覚と言えば秋刀魚や松茸、栗、果物が思い浮かぶ。秋刀魚はあまり重箱に入れないが、秋鮭や鯖の塩焼き、椎茸と人参・蓮根の煮物、梨や柿などは詰める。新米のおにぎりや栗ご飯もある。句会では「十月は肉も魚も美味しくなる」との声もあった。定番の唐揚げや卵焼きも並んでいたかも知れない。  重箱弁当を用意する秋のイベントも「あれこれ」考えられる。運動会やピクニック、遊園地のほか、優雅な紅葉狩りもある。句会での作者の弁によれば、子供さんの運動会に手近にある食材をいろいろ詰め込んだ思い出を詠んだという。秋の行楽で重箱を広げた時の喜びは、子供心に刻まれている。二段重で十月らしい情景を鮮やかに切り取った掲句は、読者の記憶も「あれこれ」呼び覚ましたに違いない。 (迷 22.10.30.)

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「みんなの俳句」来訪者が18万人を超えました

「みんなの俳句」来訪者が18万人を超えました  俳句振興NPO法人双牛舎が2008年(平成20年)1月1日に発信開始したブログ「みんなの俳句」への累計来訪者が、昨日10月28日に18万人を越えました。これも一重にご愛読下さる皆様のお蔭と深く感謝いたします。  このブログはNPO双牛舎参加句会の日経俳句会、番町喜楽会、三四郎句会の会員諸兄姉の作品を中心に、日替わりで一句ずつ取り上げて「みんなの俳句委員会」の幹事8人がコメントを付して掲載しています。  このブログもスタート当初は一日の来訪者が10人台でしたが、最近は100人を超えることもしばしばになっています。幹事一同、これからも力を尽くしてこのブログを盛り立てて参る所存です。どうぞ引き続きご愛読のほどお願いいたします。      2022年(令和4年)10月29日 「みんなの俳句」幹事一同

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蔦巻くや故郷の家は朽ち果てて  工藤 静舟

蔦巻くや故郷の家は朽ち果てて  工藤 静舟 『合評会から』(日経俳句会) てる夫 どこの地方か、北の方ですかね。蔦が巻く故郷の秋の句です。しんみりします。 方円 やっぱり古い家で、もう誰も住んでなく朽ち果てている。「蔦巻くや」がいい。 双歩 まあ割とよくある光景だと思いますけど、その廃屋になったような荒れた家がなんとなく寂しさを感じさせる句だなと思った。 反平 ドライブしているとそれこそ廃屋だらけ。これからの日本はどうなるんだろうとまで考えてしまう。 操 わが街にもこのような情景があちこちに。蔦が覆い廃墟と化し、かつての営みの影はない。           *       *       *  勉学に就職へと都会に出て来た地方人にとって、故郷の家の行く末は気になるものだ。この句の作者の両親はすでに亡いのだろう。兄弟姉妹が後をうけて住んでいる様子もない。人の住まなくなった家は朽ちるのが早い。作者は古家に蔦がからまった状態を見ている。おそらく言葉もなく佇んでいる。「廃屋と決まりし生家いわし雲」と、以前わが事を詠んだ筆者にはよくわかる心情である。さて、この家をどうしようかと。思い出の詰まった家を結局は毀(こぼ)つ羽目になるのだろうか。一家屋のことに過ぎないのだが、日本全体の縮図を見るような句だと思う。 (葉 22.10.28.)

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打っちゃれと客も反身の草相撲  中村 迷哲

打っちゃれと客も反身の草相撲  中村 迷哲 『この一句』  「寄れっ、寄り切れっ」「踏ん張れっ、打っちゃれっ」――神社の奉納相撲か、町内の相撲大会かはともかく、なんとも面白い光景を射止めたものだ。土俵を取り巻く観客の、身振り手振りが加わってのわいわいがやがや、盛大な声援が聞こえて来る。相撲は中学生や社会人によるものか、白熱の一戦に周囲が沸き返っている。  合評会では「応援している風景を『客も反身』と詠んだのが面白い」(春陽子)という見方がある一方、「打っちゃりは高度な技なので、草相撲では現実的じゃない」(双歩)という意見があった。「『客も反身』というのは作り過ぎ。月並み俳句の高点句じゃないか」(水牛)という、いささか手厳しい批評も。  「俳味のあるいい句だと思いましたが、草相撲は入場料をとらないので『客』という表現には違和感が…」(木葉)という短評、さらに「テレビの前で体を動かしながらプロレスを見ていた親父を思い出して」(可升)という感想も。コロナ騒動も下火となっての、再開されたイベント風景と受け止めたいのだが・・・。 (光 22.10.27.)

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十月の外出今日は何を着る    横井 定利

十月の外出今日は何を着る    横井 定利 『季のことば』  月名を詠むのはなかなか難しい。旧暦の「睦月、如月、弥生・・師走」はそれぞれ特有の意味を持っているからまだ詠みやすいが、これをそのまま現代のカレンダーに当てはめて、十月を「神無月」と詠んでしまうと季節感をはずした句になってしまう。神無月は現代暦に当てはめれば11月で、冬の季語だから、これで10月を詠むとおかしな句になってしまう。  というわけで、味も素っ気もない数字の月名を季語に立てて詠むとなると、さて「十月とは」と考え込んでしまう。晩秋なのだが、温暖化の昨今は結構暑い日もある。それに、「天高く」などと言うけれど、十月は天候定まらず、二日も三日も雨が降ったり止んだりのぐずついた天気の続くことが多い。「実りの秋」と言っても、都会暮らしの身には農業が遠い存在になってしまっている。農家も昔のように一族郎党寄り合っての稲刈りなどは無くなって、コンバインがざーっと刈り、脱穀、という具合に、収穫風景もすっかり変わってしまった。  ただ、万古不変なのは「十月の気温変化の激しさ」である。寒気を伴った大陸の高気圧が張り出したり引っ込んだりするたびに天気が変り、気温が激しく上下する。さしあたりこの「気温変化」を「十月」という季語の特徴と定めると句が作りやすくなる。この句はそのお手本を示してくれた。「薄いシャツじゃ寒いし、厚ぼったい上着は着たくないし」と、外出のたびに悩む十月である。 (水 22.10.26.)

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十月や夢百歳へ十五年      岡田 鷹洋

十月や夢百歳へ十五年      岡田 鷹洋 『この一句』  作者はこの十月、八十路半ばの誕生日を迎えた。その感慨が百歳まで生きようという決意だったのである。その意気や良し、である。齢八十に到達すると、折に触れて人生の終わり方に思いが向く。あと何年生きられるかとか、五年か十年か、いや十年ももつかなあ、とか。それが作者は十五年という設計図を描いたのである。心身健康で大きな故障もない。気宇壮大である。  現役時代、新聞社の記者だった。一九七六年~七九年の三年間、北京駐在の特派員。中国は「四人組」の混乱から抜け出て華国鋒体制が鄧小平体制へと向かい、日中経済関係の興隆期であった。日々、忙しい思いをされただろうし、両国関係への気遣いもあったっただろう。  句会に参加され、驚かされたのは、毎週一回、川口市の夜間中学に通い、中国人のための日本語教室で教壇に立っていると知らされた時。もう七年も続いているという。若き日の血潮が今もたぎっている人である。  令和三年度の日経俳句会賞の英尾賞に輝いた一年ほど前のこと「句作十年、新境地を目指します」とあいさつされた。「オカチャン、畏るべし」である。 (てる夫 22.10.25.)

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十月や空へと続く千枚田    溝口 戸無広

十月や空へと続く千枚田    溝口 戸無広 『合評会から』(日経俳句会) 鷹洋 熊野古道に行った時のことを思い出しました。馬越峠を登りきるといきなり空が広がっていてすごい。感動しました。その思い出がこの句につながりました。 明生 十月の青空に溶け込んでいる情景が鮮やかに浮かんできます。ただ北陸地方の千枚田を詠んだのなら、空が良いのか、海が良いのか迷うところです。 芳之 下から見上げる視線は雄大で新鮮です。 十三妹 人間のたゆまぬ努力。その壮大なスケール感が心を打ちます。 定利 中七の「空へと」がいい。 迷哲 季語が動くような感じがしたんですよね。初夏の空でも合わないことはない。           *       *       *  私は句会の合評会で「十月には刈り取りが済んで、田んぼには稲が無くなっちゃってるんじゃないか」などとつぶやいた。しかし、これは関東に住み、関東から東北の米どころを見ての感想で、後でよく考えてずいぶんいい加減なことを言ってしまったと恥ずかしくなった。寒さの来るのが早い北国では稲刈りはずいぶん早く9月に行うところが多いが、南の地方は十月に入ってからも盛んにやっている。  平地の少ない日本列島。田や畑は山をどんどん上って行く。「耕して天に至る」である。この句は下から千枚田を仰ぎ、さらにその上の真っ青な十月空を仰いでいる。思わず深呼吸したくなるようだ。 (水 22.10.24.)

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屋形船月見も忘れもんじゃ焼き   石丸 雅博

屋形船月見も忘れもんじゃ焼き   石丸 雅博 『この一句』  私は屋形船に乗ったことがない。もんじゃ焼きも食べたことがない。そんな事情から、掲句を注目せずに終わったが、合評会の場では、東京湾における遊覧船のことが大きな話題となった。中でも話題の中心になったのは何と、航海の楽しさや、海上の夜景ではなく、もんじゃ焼きだった。句の作者ら、もんじゃの「通」によって、句会は大いに盛り上がる。  さて、もんじゃ焼きとは? お好み焼きに似た食べ物だが、生地の小麦粉を相当に多めの水で溶き、ソースなどの調味料を混ぜて鉄板の上で焼き上げるものだという。東京の下町の駄菓子屋には昭和四〇年代から、もんじゃ焼きの店があったそうだが、客層が子供たちから次第に観光客などに変わり、店はやがて東京・中央区の月島あたりに集中して行く。そして近年は夜の東京湾周遊の観光船には欠かせない料理となって行ったという。  句の作者はこんな風に話していた。「もんじゃは安くて美味いですよ。料理込みの船の料金は、もんじゃなら一人七千円で済みますが、天ぷらなどを頼むと一万円ですからね」。こんなことも話していた。「もんじゃを食べ出すと、美味しくて止められない。乗客は海の夜景などに目もくれないで食べ続けるから、船は遠くまで行かない」のだという。東京湾にそんな観光があったのか! 当方は新たな知識に出会い、驚くばかりであった。 (恂 22.10.23.)

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大木に添ふ野仏に千草添へ    向井 愉里

大木に添ふ野仏に千草添へ    向井 愉里 『この一句』  酔吟会9月例会に出され人気を呼んだ句である。「里山の風景が浮かんできました。やさしさのある句ですね」(道子)。「感じの良い句ですが、千草って何だろう。具体的な花の方がよかったかな。あかまんまとか」(百子)。「野仏に千草がいい。ただ『添へ』が重なってるが、これは意図したものですかね」(双歩)といった意見が出た。  私もいい句だなと思ったのだが、やはり「添へ」の重複に引っかかって採れなかった。作者は「本当は『供へ』なんですが、字余りになっちゃうのでこうしました。どうしたらいいでしょう」と言う。さてどうじたらいいだろう。最も簡単に直すとすれば『大木に寄る野仏に千草添へ』あたりだろうが、「寄る」と「添へ」という動詞の重なりと、説明調が際立ってしまう。  大きな欅や椋の木の根方の道祖神に秋草を供える情景には捨て難い風情がある。なんとかならないものかと句会の後も大分考えた。  考えに考え、何回もこの句を口ずさんでいるうちに、「なんだ、このままでいいじゃないか」と思えてきた。「添ふ・・添へ」の反復がリフレイン効果というか、却って心地よく響いて来るのだ。動詞の重なりも不思議に気にならなくなる。作者は「意図してやったことです」と胸を張ってしまった方が良かったんだなあと笑いがこみ上げてきた。 (水 22.10.21.)

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