八月や此の世を去るを思い初め  鈴木 雀九

八月や此の世を去るを思い初め  鈴木 雀九 『季のことば』  「八月」という季語、一年の月ごとにある十二の季語の中でも心情的に別格の感がある。リズムの好さもあって「八月や六日九日十五日」の句がすぐ頭に浮かぶ。作者は長らく長崎・諫早の医師による平成四年の作品となっていたが、好事家が調べたところ、初出はそれより十六年前の昭和五十一年、福岡出身の小森白芒子の作ということだ。悔恨、鎮魂、無常などの情念を内に包む名句と筆者は思っていたが、その好事家によると名句じゃないが、心に残る句と捉えていると言う。  それはさておき、今月の兼題「八月」にはそれらの情念を詠んだ句が少なからず投じられた。「八月の風は冥府の匂ひあり」「八月は少し重たきカレンダー」「慰霊碑を照らす赤光八月尽」などである。掲句もその一つ。「此の世を去る」という言辞だから、穏やかな心情ではない。八月は先祖を祀る行為のほか、自ら残りの人生を考えよと迫られる心持ちがする月ではないかと思える。句の意味はごく単純で、自分が死ぬことを考え始めたとなっている。これも八月ならではの心情であると納得する。自己の死は自分ひとりの死ではない。まず妻のこと、息子・娘・孫のこと。作者は医院を経営する医師だから、さらに思いを及ばすことが多々あるに違いない。余技(失礼)の俳句を借りて内面の心情をさらりと詠み、切実味をほどよく吐露した八月の俳句とみた。 (葉 22.08.24.)

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