ただいまと覗く夜更の金魚鉢   廣田 可升

ただいまと覗く夜更の金魚鉢   廣田 可升 『この一句』  夜はドラマを生む。逆にドラマに夜は欠かせない。例えば、一本の映画に夜のシーンは結構多い。昔の西部劇映画などはフィルム感度が悪かったため、夜景の代わりに白昼下、特殊なフィルターなどであえて暗く撮る「擬似夜景」という手法が生まれたほどだ。  思うに夜は、視覚からの情報が極端に少なくなるので、聴覚、嗅覚、(場合によっては触覚)が研ぎ澄まされるからではないだろうか。俳句でも「朧夜」、「夜長」など夜の季語を挙げればきりがない。  掲句は「夜更」が効いていてドラマチックだ。作者が独り者だと仮定してみよう。仕事か付き合いか、今日も遅くなってしまった。ドアを開け、手探りで灯りを点ける。靴を脱ぎながら、下駄箱の上の金魚鉢に声をかける。「やあ、元気?」。急に明るくなり、音に驚いた金魚が鉢の中で尾を振って方向転換する。なんだか「おかえり」とでも言っているようで、かわいい。今日一日の嫌なことも、いくらかは癒やされるというものだ。なまじ、しゃべらないだけに、自分の都合のよいように解釈できるのも金魚だからこそ。  金魚や熱帯魚などを飼う魅力の一端を十七音で上手く掬い取り、句会では一番人気となった。 (双 22.08.10.)

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夜濯ぎや男やもめの独り言    加藤 明生

夜濯ぎや男やもめの独り言    加藤 明生 『合評会から』(日経俳句会) 鷹洋 情景が浮かんできた。こうはなりたくないなあと思い、一票入れました。 方円 男やもめの独り言ってのはまあ、想像がつくというか、よくわかる。「夜濯ぎ」の季語と「男やもめ」がぴったりだ。 青水 どこかで出会った記憶があるような句ですが、敢えて頂きました。古めかしい季語とそれにぶつけた男やもめの十二音とのバランスが、最近のボクの気分にうまくマッチしました。 てる夫 夜濯ぎは今どき、死語だろうが、いろいろ思い浮かぶ。夜中の洗濯、手製の銃器?ひとり言?不審な話題になりそう。 木葉 「夜濯ぎ」で成立しているが、「男やもめの独り言」は定型句で、何にでも合いそうだ。 朗 夜の洗濯は近所迷惑なんで、恐る恐るやりました。支局時代の切ない思い出がよみがえります。           *       *       *  「男やもめの独り言」は言い古された文言だと、句会では貶す声が多かったのだが、これに「夜濯ぎ」という季語を取り合わせると、ぱっと生き返る。幸いまだ男やもめになってはいない筆者も、「そうだろうなあ」としみじみとして一票投じた。季語の力は大したものである。 (水 22.08.09.)

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滴りや俺への弔辞君のはず   旙山 芳之

滴りや俺への弔辞君のはず   旙山 芳之 『この一句』  「滴り」は7月の兼題。季語の本意を詠んだ句が圧倒的多数だったのに対し、この句は時事を兼題に合わせた。最近の関心事と言えば安倍元首相銃撃死亡事件と、その後の参院選が一頭地を抜いている。もちろんコロナ第七波はいぜん重要なトピックではあるが、衝撃的ということなら元首相銃撃死であるのに異論はないだろう。  事件後いろいろな反応が国の内外から起こった。故人の功績を称賛する声の高まりと、逆に数ある疑惑の終止符となるのを厭う声が交錯している。国葬が妥当との世論が多数を占めるのは事実だが、反対意見も少なくない。「棺を覆いて事定まる」というが、元首相の死が人々の心の内で整理されるのにはかなりの時間が必要だ。  それはさておき、まずは内輪の葬儀があった。「俺への弔辞君のはず」の中七下五は知っての通り、盟友・麻生自民党副総裁の弔辞の一部分である。それをそのまま借用して時事句としたところが面白い。上五に季語を置いただけという簡便さである。それでも川柳ではない時事句となったのには新鮮な驚きがある。  時事句といっても、やや息長い生命力をもつものと瞬間的な光彩を放つ作品に分かれると常々思っている。この句はどうだろう。元首相への弔辞を詠んだだけとも取れるし、友を悼む世間一般の情念を詠んだ俳句として記憶に残るとも思える。「滴り」は、岩から滲み出るように声を絞り出している弔辞を表したのだと取れば、納得できる。 (葉 22.08.08.)

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日傘閉じ乗車間近の列の尻   向井 愉里

日傘閉じ乗車間近の列の尻   向井 愉里 『この一句』  令和4年の夏は異常で、六月から猛暑日が連続し、39℃、40℃といった恐ろしい気温になることも珍しくなかった。「外出は控えましょう」などという呼びかけがラジオから流れている。しかし、ずっと閉じこもってばかりも居られない。仕事を持つ人は言わずもがな、専業主婦だって、おじいさん、おばあさんだって日々の買物がある。通販代金の振込みもある。猛暑の町に出ざるを得ない。  日傘というものは実用というより半ば夏場のおしゃれだったのが、今年は完全に必需品となった。この作者は日傘に慣れた人のようだ。バス停の行列の尻につき、日傘を差して中々来ないバスを待っている。タオルハンカチもすっかり湿ってしまった。  ようやく来た。長い列がのろのろと動き出す。待ちかねて、いじいじしていたものだから、まだ10数人も先客があるというのに、早々と日傘を閉じてしまった。そうしたら何としたこと、列がぴたりと止まってしまった。乗る段になってスイカだか老人パスだかを取り出すのに手間取っているドジなのが居るようだ。思わず「チェッ」などと淑女にあるまじき舌打ちなんかしている。  この「日傘閉じ・・列の尻」という詠み方が絶妙である。乗るまでにはまだ間があることは分かっていながら、ついつい早めに乗り支度して、焦れてしまうのが人間だ。どうと云うこともないフレーズなのだが、こういう風にすいと詠めるところをみると、どうやら俳諧の骨法を会得したようだ。 (水 22.08.07.)

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岸壁に夜露死苦スプレー晩夏光  金田 青水

岸壁に夜露死苦スプレー晩夏光  金田 青水 『季のことば』  歳時記を見ると、晩夏光は晩夏の傍題として載っている。晩夏は夏を三分した三番目。七月上旬から八月上旬のまだ暑い盛りにあたるが、空の色、雲の形、吹く風にそこはかとなく秋の気配を感じるようになる。従って晩夏光は夏の終わりのまだ強い日射しの中に、どこか衰えを感じている微妙なニュアンスの季語といえる。意識されるのは「終わり」であり、夏の日を惜しむ感傷が潜む。  掲句は夏の終わりの海岸で、岸壁のスプレー文字にその感傷を重ねている。晩夏光を照り返す白い岸壁に、黒いスプレーで吹き付けられた「夜露死苦」の文字。夏の海岸の昼間の賑わいと、夜にたむろする暴走族のバイクの爆音。ひと夏の喧騒と冒険が終わり、過ぎ去っていく出来事のいろいろを思い返す。  「夜露死苦」は1980年代に暴走族やヤンキーが使った「よろしく」の当て字。威圧感のある漢字を使って存在を主張するもので、岸壁やトンネルで落書きをよく見かけた。しかし暴走族は少子化と取り締まりの強化で最盛期の二割ほどに減り、集団を嫌って個人で走るケースが多いという。スプレー文字はいなくなった暴走族の残滓かもしれない。作者はそこに過ぎ去った自身の青春の思い出を重ね、夏の終わりを惜しんでいるのではなかろうか。 (迷 22.08.05.)

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苔つたふ滴り碧き玉となり    岩田 三代

苔つたふ滴り碧き玉となり    岩田 三代 『合評会から』(日経俳句会) 迷哲 この句はまさに季語の本意を捉えています。苔からにじみ出た滴りが苔の緑色を映して碧い玉になる、という非常に爽やかな印象です。 青水 ややもすると季語解説になりかねないところを、丁寧な観察と豊かな語彙でさらりと詠み下している。特に「碧き玉」の気障な措辞が効いている。 明生 その通り。苔を伝い落ちる滴りが碧い雫、玉となってゆく様子が目に浮かぶ。 十三妹 清涼。心に沁みる一服の絵。 昌魚 苔の滴りが徐々に大きくなって碧い玉のようになる、綺麗な景です。 弥生 滴りの本来の姿を真正面からとらえて詠んだ一句。           *       *       *  この句を選句表で見た時、「これは言い過ぎ」と思った。苔、滴り、碧き玉、と美辞を連ね過ぎているのではないかと貶した。私は同じ句会に、「滴り」の写生句で「にじみ出て玉と光りて滴れり」を投句した。滴りが生じる経過を素直に詠めたと思ったのだが、句会では一顧だにされなかった。それに対する口惜しさが、この句を必要以上に貶める思いを掻き立てたのかもしれない。老いると幼児に還るというが、実に子供っぽく、恥ずかしい。  冷静になってこの句を読み直すと、言い過ぎでも何でも無い、まさに見たまま感じたままを詠んだものだと頷ける。拙句の中途半端な詠み方に比べ、具体的で断然力がある。「写生」とその「表現」の難しさを改めて知った。 (水 22.08.04.)

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葉を丸め受ける滴り山の味    中村 迷哲

葉を丸め受ける滴り山の味    中村 迷哲 『合評会から』(日経俳句会) 反平 子どものころ、同じことをよくやったな、と思い出して戴きました。 三代 私も、崖を伝ってくる滴りを、笹かなんか柔らかい葉っぱを丸めて受けて飲んだ記憶を思い出し、実感で採りました。 方円 私は「滴りや行列をして出す両手」と詠みました。でも、自分でも葉っぱで受けて飲んでいたのを思い出しました。 水牛 実体験の句でしょう。わりに大きな葉っぱを丸めて、滴りを受けて飲む。滴りのおいしさが伝わってきて、とってもいい句です。 三薬 ボクは山歩きで水を飲むときは、大体、そうする。みんなやる。だからあんまりにも当たり前なので、採れませんでした。           *       *       *  季語「滴り」にもっとも相応しい句として、兼題トップの点数を得た。なるほど、多くの人の記憶の中の「滴り」である。本格的な登山や山歩きのとき、崖や岩場から滲み出す水に出会えば掬って渇きを癒す。手で掬うかコップがあればコップ。なければ大きめの葉っぱを利用して水を掬う。「甘露」というが、喉元をすべりおちる冷たさに疲れが吹き飛ぶ心地がするものだ。山の地層を抜けてきた水は、その山の特徴をそなえている。ミネラルが多いとか、花崗岩で濾過され味がよいとか、それがその山の味。なんの葉で掬ったのか知りたいとの声が多かったのも体験者の多い証拠だ。 (葉 22.08.03.)

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あの人をいい人にして蝉時雨   杉山 三薬

あの人をいい人にして蝉時雨   杉山 三薬 『この一句』  「あの人」とは誰のことだろう。手がかりは「蝉時雨」にありそうだ。山本健吉によると「多くの蝉がいっせいに鳴き出すと、沛然と驟雨が到ったような感じがするので、蝉時雨と言っている」だそうだ。「鳴く」は「泣く」にも通じるためか、蝉時雨には何となく物悲しい気分も潜んでいる気がする。となると「あの人」は亡くなった人ではないか。  生前は何かと苦労させられた夫に先立たれた妻が、『とはいえ、居なくなってしまえば寂しい、葬儀に来てくれた人は口をそろえて「いい人だったのに、残念ですね」と言ってくれたし』などと述懐しているのだろうか。  しかし、改めてよく読んでみて、待てよこれは安倍元首相のことかな?と思い到った。「もりかけ」やら「さくら」やら何も説明しないまま有耶無耶にして、再登壇の可能性も、などと取り沙汰されていた「あの人」が、手製の銃で撃たれ亡くなった途端、「いい人」の賞賛の嵐。まさに蝉時雨のようだ、と詠んだのだろうか。だとしたら、割と賞味期限の短い時事句になりそうだが、短絡的にそうと決めつけるのは早計かもしれない。最初に感じた「長年連れ添ったあの人」ととる方が、自然ではないか。  そんな思考の中、作者は時事句が得意な三薬さんと判明。やはり事件を扱った句とわかったが、ほのめかすだけで声高に表現しなかった分、解釈が広がり普遍性が出たのではないだろうか。 (双 22.08.02.)

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阿弗利加のタコに慣れたる半夏生  工藤 静舟

阿弗利加のタコに慣れたる半夏生  工藤 静舟 『季のことば』  「半夏生(はんげしょう)」とは暦の七十二候の一つで、現在のカレンダーでは7月1日か2日。サトイモ科のハンゲという植物(カラスビシャクとも言う)が芽生える頃なのでこう言った。稲作が何より大事だった昔の日本では、この日までに田植えを済ませないとよく実らないと言われ、農家は一家総出で懸命に頑張った。そしてこの日からちょっとした「休暇」に入る。農作業を休み、餅をついたり赤飯焚いたり、煮しめを作ったりしてちょっとした宴を持ったりした。  いわゆる「物忌」で、家に籠もり余計なことをせず、斎戒沐浴、神仏に無事を祈るわけだ。そういう“禁忌”の日を設けたのは、働き者の多い農村地帯で「村中一斉休暇」を取るため自然に生まれた智慧なのであろう。すぐにまた田草取り、畑の雑草取りなど過酷な作業が待っている。ここで一息入れておくことがとても重要なのだ。  中国から伝わった二十四節気とそれを細分化した七十二候は日本でも重きをなして明治時代まで用いられたが、それと並んで特に日本人の暮らしに重要な季節の替わり目を示す日を九つ選び出して「雑節」として暦に載せた。節分、彼岸、社日、八十八夜、入梅、半夏生である。ここからも「半夏生」が大切に扱われていたことがわかる。  半夏生で特に持て囃されるのがタコである。ことに関西地方では今でも半夏生というとタコの売上が激増する。なぜ半夏生にタコなのか。八本の足で吸い付くように、植えたばかりの早苗がしっかり根付きますよう…

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