梅雨明や富士がこちらへ近づけり  前島幻水

梅雨明や富士がこちらへ近づけり  前島幻水 『合評会から』(番町喜楽会) 愉里 梅雨の間、ぼうっと見えていた富士山が、梅雨が明けて空が晴れ渡ると、はっきり見えた、ということでしょうか。それを「近づけり」としたのが面白いですね。 可升 ありもしないことを躊躇うこともなく「近づいた」と言い切ったところが面白いです。 水兎 梅雨が明けて、電車から見える富士山にハッとすることがありますね。           *       *       *  きわめて分かりやすい感覚を詠んだ句である。何がどうであれ、物理的には富士山が近づいて来ることなど起こりえない現象だ。梅雨空続きのもとでは富士の山容も定かでなかった。梅雨が明けて遮るものがなく視界が開けると、富士山が「近づいてきた」感じがしたというのだ。たしか作者の住まいは横浜方面だったと覚えている。自宅のマンションかと思うが、毎日毎日ベランダか窓ガラス越しに富士山の姿を眺めていると、このような感じがしてしまうのに違和感はない。  こんな小咄があった。富士に登った友だちに、「そこから江戸の俺の長屋が見えたろうと聞く。見えないと友だちが答えると、変だな、俺のところからは富士山が見えた」という他愛のない小咄。これとはもちろん趣は違うが、物理的ではない人間の距離感覚を詠んで納得する。ことに「富士がこちらへ」の表現がいい。 (葉 22.07.10.)

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