夏闌くやソーラーパネル捨畑に   廣上 正市

夏闌くやソーラーパネル捨畑に   廣上 正市 『この一句』  郊外の山間地であろうか、耕作放棄地に太陽光発電の黒いパネルが敷き並べられている。平滑なパネルが夏の強い日射しを反射し、何やら異世界の基地のようだ。現代的なソーラーパネルと捨畑の悲しい響きが奇妙にマッチしている。今や全国どこでも見られる農山村の現実を切り取り、さらに夏闌(なつたけなわ)というめったに見ない季語を取り合わせることで印象深い一句になっている。  政府が旗を振る太陽光発電の設置面積は、環境省の2021年調査で229平方キロメートルに及ぶ。森林や草地が過半を占めるが、水田や畑が転用された場所も多い。少子高齢化で後継者のいない耕作放棄地は狙われやすく、掲句のような光景があちこちに現出することになる。あまりに急速に開発が進んだため、土砂崩れや環境破壊、管理放棄などの問題があちこちで出ているという。  「夏闌く」は夏が極まるという意味で、「夏深し」の傍題として歳時記にある。盛りを過ぎた夏は衰え(秋)に向かうことになる。電源多様化が叫ばれながら、太陽光以外の風力や地熱開発は進まず、原発の再稼働もメドが立たない。大事な農地や森林を削ってソーラーパネル設置に狂奔する現実は、政策矛盾、行き詰まりを象徴している。作者は「夏闌く」の季語をあえて選び、少子高齢化とエネルギーの制約で、盛りを過ぎて衰退に向かう日本を描いたというのは強引すぎる解釈であろうか。 (迷 22.07.31.)

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板の間にぺたりと座り夏深し   星川 水兎

板の間にぺたりと座り夏深し   星川 水兎 『季のことば』  「夏深し」は夏もピークを迎えたという晩夏の季語。水牛歳時記を読むと、「春深し」や「秋深し」に比べ、やや中途半端な感じを抱かせ、「晩夏」や「秋近し」を詠んだ方が面白いと思う人が多いのか、歳時記によっては「晩夏」の傍題になっているのもある、という。確かに兼題に出され作句してみると、季感のキャラクターが掴み所なく、「秋深し」のようなイメージが湧きにくかった。投句作品も夏の盛りを過ぎた気分を上手く捉えた句は少ないように感じた。  そんな中、掲句は実に上手く「夏深し」を表現していると思った。「板の間にぺたり」で、ひんやりとした板の間を素肌で感じている年配の女性が想像される。「アッパッパ(夏の季語)」のようなふんわりとした服を着て、横座り。うーむ、確かに「晩夏かな」や「秋近し」、「秋隣」どれも合わない。「夏深し」がぴったりだ。案の定、句会では人気を集め最高得点だった。  作者はこれまでも「ひやひやと肌につけたる黒真珠」や「木の実ふむパチンと山の音がする」など、皮膚感覚の鋭い作品をよく詠んでいる。掲句もその系譜に連なる独特の表現で、読者の心をしっかり掴んだ。 (双 22.7.29.)

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大楠の木陰の広さ梅雨明ける   中村 迷哲

大楠の木陰の広さ梅雨明ける   中村 迷哲 『季のことば』    日本における巨木と言えばまずクスノキ(楠)を挙げなければならない。天然記念物級になると高さが二十㍍、幹回りも二十㍍以上、こんもりと広がる枝葉の差し渡しは四十㍍以上になるものもあるという。まさに大樹中の大樹というべき貫禄を備えており、真夏の日中、この木陰に来て一息ついたりすると。いつまでもそこから離れられなくなる。  掲句は本年、東京の梅雨明け間もなくの頃、句仲間十余人と東京・小石川植物園に出かけた時のもの。だれもが同植物園のあちこちに立つ楠の根方で一休みしたはずで、それぞれが今、あの広々とした木陰を思い出しているに違いない。その後に東京地方の天候は「再び梅雨入り」の様相を示しており、七月末にようやく“二度目の梅雨明け”を迎えたのだと思う。  もう七十年以上も前の私の小中学生時代のこと。その頃の梅雨明けはおおよそ、夏休みに入る七月の末と決まっていた。夏休みの初日、キャンプに出掛ける日の朝に長雨がぴたりと止み、梅雨明けだったこともあった。梅雨明けのあの晴れ晴れとした気分。それを今年は二度も味わえるとは・・・。植物園の楠の木陰に、もう一度、腰を下ろしたくなった。 (恂 22.07.28.)

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曲っても突き当っても炎天下  玉田 春陽子

曲っても突き当っても炎天下  玉田 春陽子 『合評会から』(酔吟会) 双歩 上五、中七の後に、「なにをやっても炎天下」と入るのでしょう。なにしろ暑いのだということが伝わって来て、とても共感できる句です。 道子 暑さを、思い切って、そのまま表現した句だと思います。 三薬 尾崎放哉の「咳をしても一人」の雰囲気を感じさせる句です。「曲っても突き当っても」の措辞がうまいですね。 而云 この句は読んだ瞬間に採ろうと思いました。こういう句はあれこれ考えた末に出来るものではなく、さっと一気に出来たのではないでしょうか。 水馬 僕は山頭火のイメージが強くて採りませんでした。           *       *       *  放哉を連想する人もあれば、山頭火を連想する人もあった。たしかに言われてみればそんな気がする。彼らの句には、ため息とともに言葉を漏らしたら、それがそのまま俳句になってしまった、と思えるような句が多い。而云氏の、「あれこれ考えた末ではなく、さっと一気に出来た句」という評言もほぼ同じことを言っているような気がする。定型であれ、自由律であれ、そんなふうにして出来た句はとても幸福だという気がする。逃げ場のない暑さをこんなふうに詠めるのはどういう資質の持ち主だろうか。作者の名を聞いて、「えっ?」という思いと、「やっぱり」という思いが交錯した。 (可 22.07.27.)

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蘭鋳の王の顔して鉢の中     徳永 木葉

蘭鋳の王の顔して鉢の中     徳永 木葉 『合評会から』(番町喜楽会) てる夫 蘭鋳ってすごい顔しているんですよね。王様に置き換えたところが面白い。 迷哲 蘭鋳を王にみたてて、それが鉢に捕らわれているという諧謔味が面白いなぁと。 白山 蘭鋳が王様とは……そこがいいですね。 光迷 蘭鋳は頭でっかちで不格好ですよね。それを王冠に見立てたんでしょうか。 幻水 比喩が面白い。また王と「鉢の中」の落差も面白い。            *       *       *  蘭鋳(らんちゅう)は高級金魚の代表品種のひとつで、背びれのない丸い体と頭部の肉腫が特徴である。江戸時代に品種改良で生み出されたものだが、品評会クラスのものは10万円前後するらしい。その蘭鋳を「王の顔」に見立てた着想にまず驚いた。確かに蘭鋳の特異な体形、希少性に加え、瘤が王冠と言われると、金魚の王様らしく見えてくる。  さらに「鉢の中」の結語も何やら意味深長だ。単なる金魚鉢ではなく、王の顔をした者が囚われている心の囲いとも読める。クレムリンに籠る王は、帝国主義に囚われ戦争のやめ時を見失っている。作者は二重三重の見立てを企んだのではなかろうか。 (迷 22.07.26.)

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土用鰻ぬるりと沈み籠の中    宇佐美 諭

土用鰻ぬるりと沈み籠の中    宇佐美 諭 『季のことば』  土用丑の日が近づくとどこの鰻屋も一杯仕入れて生簀に入れている。弱ったのから順番に籠に入れて取り出しやすくしておく、なんて話を聞いたことがある。鰻の方も観念しているのか、あまり動かない。時々、ぬるりぬらりとぬたくっている。この句はそんな土用鰻の様子を詠んで、とても面白い。  「土用」というのは古代中国の哲理陰陽五行説から出たものだ。万物は陰と陽の二気によって生じ、五行(五元素)の中の木と火は陽、金と水は陰に属し、土はその中間的性質を備える。五行の勢いの消長によって天地の気候、温暖から瑞祥災禍、人事の吉凶すべてが生まれるという。  草木の芽吹く春は「木」、燃え盛る夏は「火」、静まる秋は「金」、冷気の冬は「水」、それらの気を集めてどっしりとした大地を成す「土」が中央に位置し、各季節の末期十八日間を支配するというのが陰陽五行説の四季循環の教え。つまり、「土用」はそれぞれの季節にあり、夏で言えば立秋の前十八日間がそれに当たる。各季節の絶頂期に当たる。中でも夏季の土用が最も印象深いので、いつの間にか「土用」と言えば七月二十日ころから八月六日か七日までの夏の土用を言うようになった。  今日では「土用鰻」がすっかり定着しているが、これは江戸中期の博物学者で戯作者でもあった平賀源内が「土用丑の日うなぎの日」とした宣伝文句と言われている。その真偽はさておき、この宝暦・明和年間あたりに蒲焼が江戸っ子の間に夏負け防止には飛び切りのものとして定…

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無マスクは素裸の如歩みゆく   鈴木 雀九

無マスクは素裸の如歩みゆく   鈴木 雀九 『季のことば』  句会でおずおずと「この句、季語はなんですか」と聞かれた。「裸ですよ」と小声で教えた。昔は真夏になれば子供はもちろん大人だって裸になった。下町ではステテコで上半身ハダカなど平気で、中には越中褌だけというオヤジもいた。オッカサンだって湯文字(腰巻)に帷子一枚というのがめずらしくなかった。「裸の子裸の父をよぢのぼる 津田清子」という句があるが、夏の宵の口、行水浴びてさっぱりした親子があけっぴろげの部屋で戯れているのが外から自由に覗けた。「夏の醍醐味は真っ裸の夕涼み」という時代があって「裸」という季語が生まれたのだが、エアコン時代には通用しにくくなった。  さてコロナ禍長引くこの時代。国民はもとより、政府も「コロナ対策」にくたびれてしまったらしい。新規感染者はどんどん増え続けているのに、もう打つ手が無い状態のようである。それどころか、飲食店の営業時間短縮や旅行制限などの規制を続けていては経済が保たないと、次々に緩めている。あれほど厳しく言い募っていた「マスク着用」も、「屋外では外して良い」と言い出した。なんだかソーリダイジン以下、「コロナになるならなーれ」といった感じで、ついには政府スポークスマンの内閣官房長官が感染しちゃった。笑えない笑い話だ。  お言葉に甘えてマスク無しでオモテに出た。なんだか素っ裸になったような感じで、気恥ずかしいような、おぼつかない感じである。でもしばらくすると、空気がおいしくて実に気持がいい。裸の大将の…

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熊谷に勝って伊勢崎冷やうどん  杉山 三薬

熊谷に勝って伊勢崎冷やうどん  杉山 三薬 『この一句』  選句表で見て思わず大笑いし、埼玉県民として迷わず点を入れた。今年の異常な猛暑を当意即妙に詠んだ時事句であり、リズムも楽しく、「冷やうどん」の季語がぴたりはまっている。  日本の最高気温は長い間、1933年に山形で記録した40.8度とされてきたが、2007年に埼玉県熊谷市と岐阜県多治見市で40.9度を記録、74年ぶりに更新した。熊谷はその後も記録を更新、2018年に観測した41.1度が日本最高となり、日本一暑い町として全国的に知られている。  これまでの猛暑記録は7月、8月に観測されている。ところが今年は6月下旬から猛暑が続き、関東では6月27日に史上最短で梅雨が明けた。群馬県伊勢崎市では6月25日に40.2度を記録、6月として史上初の40度超えとなった。実はこれまでの6月の最高気温は、熊谷で2011年に記録した39.8度。伊勢崎が日本一の熊谷に「勝った」形となった。  掲句はこうした気象ニュースを踏まえたものだが、下五に「冷やうどん」を置いたところが心憎い。熊谷も伊勢崎も北関東のうどん文化圏に属する。古くからの小麦の産地で、祝い事や寄り合いの際は、うどんを打ってもてなす風習がある。猛暑記録で勝った負けたと揶揄しつつ、冷たいうどんで熱気を鎮めて仲を取り持つ。この夏しか賞味期限のない時事句かも知れないが、冷やうどんの味わいが心に残る句だ。 (迷 22.07.22.)

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水撒いて胡瓜と茄子に声かける  大澤 水牛

水撒いて胡瓜と茄子に声かける  大澤 水牛 『季のことば』  「季語が三つもありますね」と合評会で声が出た。「水撒き」「胡瓜」「茄子」は言わずと知れた夏の季語。複数の季語が句中に存在すれば、季語同士が喧嘩をして何を詠んでいるのか分からない、俳句の態をなさないというのは初心者の俳句心得。ところが掲句はそんな心配を軽くいなして、涼やかな夏の一場面を切り取った。庭の花々や畑の作物に水を遣るのは、朝夕の気温が高くない時間帯と決まっている。筆者も少しばかりの庭の花々に朝か夕方に水を遣るのが日課だ。  作者の畑づくりは俳句会仲間に周知のことである。実に丹念に季節の野菜を育てていると聞く。小松菜が虫に食われて無残な姿になったとか、作り過ぎた胡瓜が大きく育ちすぎて糸瓜みたいになっちゃたとか、日ごろの失敗談まで聞いている。作者と畑仕事は不可分のようである。  「季語三つ」にもどると、この三つはいずれも整理できない。ひとつ欠けても物足りなさが残る気がする。しかも季語同士が喧嘩して収拾のつかない句になっているわけではなく、むしろ三位一体の感じをもたせる。季語の重複も時にあっていいのだという見本のような句である。「声かける」と収めた下五も動かない。作者の野菜に対する愛情そのものだからだ。「生きているものには声をかけたくなるんですね」「気持ちがよくわかる」との評の通りだ。作者は「水撒きは日課だし、胡瓜茄子も事実だし省けないんですよ。この句の季語は『水撒き』でしょう」の弁に異議はない。 (葉 22.07.2…

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幼子の両手突っ込む金魚鉢    田中 白山

幼子の両手突っ込む金魚鉢    田中 白山 『合評会から』(番町喜楽会) 的中 三歳か四歳の子でしょう。思わず金魚を獲ろうと両手を突っ込んだのですね。そしたら水が冷たくて、びっくりしたのでしょうか。夏らしい可愛らしい句です。 水牛 我が家でも息子が二歳の時にやりました。僕も女房もあっけにとられました。勢いのある詠み方に好感が持てます。 斗詩子 親がちょっと目を離したすきに、動く金魚に興味津々の幼児がやる風景ですね。 光迷 ちなみに、我が家の息子は二歳の時に縁日に行って、あの金魚掬いの水槽に落ちてしまったことがあります(笑)。           *       *       *  幼児がいて、金魚を飼っていたことのある家庭なら、どこでも一度は経験したことのある光景ではないだろうか。この句の良さはやはり「両手突っ込む」にあるような気がする。子供が実際に両手を突っ込んだのかどうかは別にして、「両手突っ込む」と表現したことで、子供の天真爛漫さが加わり、とても勢いのある佳句になっている。  ところで、この後はどうなったのだろうか?金魚鉢がひっくり返って、リビングが水浸しになったのだろうか。もちろん大人は叱れないだろう。子供の手の届くところに金魚鉢を置いた大人が悪いのに決まっている。 (可 22.07.20.)

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