老鶯や讃岐は円き山ばかり 須藤 光迷
老鶯や讃岐は円き山ばかり 須藤 光迷
『この一句』
私事ながら、筆者が昭和五十六年に三十歳で転職した時の、最初の赴任地が高松営業所であった。香川、徳島、高知の三県を担当する営業所で、おもに高松から坂出、丸亀などの地域を営業車で回る生活が始まった。その時、最初に目にした光景は、まさにこの句に詠まれているとおり、「讃岐は円き山ばかり」だった。
讃岐平野でいちばん目立つ山と言えば飯野山だろう。お椀を伏せたような形をしていて、讃岐富士とも呼ばれる山である。地元の人たちは飯山(はんざん)と呼びならしていた記憶がある。讃岐平野では、この山を筆頭にあちこちに似たような山が見える。合戦で有名な屋島は、決して円き山ではないが、これも、お椀ならぬ皿を伏せたような台地状の低い山である。この句は「老鶯」と「円き山」の取合せが絶妙で、のんびりしたのどかな雰囲気を醸し出している。
住んでみると、讃岐は風景のみならず言葉つきなどもおっとりしたところで、対岸の中国地区の「仁義なき戦い」とも、土佐の「なめたらいかんぜよ」とも少し違う、小市民にはとても居心地の良い場所だった。だが、この高松駐在はたった八ヶ月で終わりを告げた。最初は「ええっ、高松かあ」とややネガティヴだったが、瀬戸内海の鯛もおこぜも、土佐の皿鉢料理も存分に食べたとはいえず、未練たらたら東京に転勤した。この句は誰が読んでも名句であるが、筆者にとっては、それに加えて郷愁をかき立てる句である。
(可 22.06.24.)