父の日のZIPPOいまだ捨てがたし 廣田可升

父の日のZIPPOいまだ捨てがたし 廣田可升 『合評会から』(番町喜楽会) 水牛 まさにこの句の通り、僕もまだ持っています。ジッポーはよく出来たライターで、火屋(ほや)の穴が左右互い違いになっていて強風でも風が吹き抜けず、火が消えないようになっている。こんな細かいところまで工夫している。大したものだと思いました。昭和25年頃、焼け跡時代の思い出です。 水馬 ジッポーへの愛着と、いまだ時折煙草が吸いたくなること、その両方を詠んだんじゃないかな。 而云 洒落好き、アメリカ好きの親爺が、いつもにこやかに煙草を吸っていたことの思い出でしょうか。親を思う子供の気持ちも表れています。 木葉 「父の日の」の「の」をどう捉えるかで句意が変わってきますね。自分が子供からもらったジッポーとも父親が持っていたジッポーともとれます。           *       *       *  作者によれば「ジッポーは息子からもらったもの」とのこと。現在では考えられないが、かつてライターは格好の贈答品で、海外旅行のお土産に買って来た人も多かった。もとより百円ライターなどなかった時代の話。それが煙草は体に悪いと目の敵にされ、評価が一変。「禁煙がストレスの素になるなら吸ってもいいですよ」といってくれるお医者さんは少数派に。世の中は変わるものではあるけれど…。 (光 22.06.19.)

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飛魚さばく小さき出刃や島の店  星川 水兎

飛魚さばく小さき出刃や島の店  星川 水兎 『合評会から』(日経俳句会) 双歩 あごは小さい出刃でさばきます。よく特徴をとらえていて素晴らしい。どこでこの光景を見たのか。詳細をぜひとも作者に聞いてみたい。 三代 小さい出刃包丁とはと、ネットで調べたらありました。臨場感がよく出ているなと。 朗 島の魚屋の大将の太い指まで見えてくるようだ。小さい出刃が良い。 三薬 皆さんの指摘と一緒です。 而云 出刃は何十年も使っているとちびてくる。島の魚屋ならなおの事そうだ。 迷哲 臨場感がある。島で目撃した光景なんでしょうね。説得力がある。 百子 飛び魚は三角形でさばきにくい魚なので、小さい出刃が必要です。 水馬 飛魚は日持ちしないので、現地でないと味わえません。舞台設定が良い。 てる夫 近所の魚屋の親父が刺身包丁でさばいてくれたのを思い出しました。           *       *       *  20年ほど前、俳句仲間と神津島へ行って、鯵を二百匹も釣って、民宿のおばさんに小さな出刃を借りてさばいて干したのを思い出した。この「小さき出刃」というのに実体感がある。「いいな」と感心して採った。そうしたら何たること、「はい。私です。見て来たようなウソをついてしまいました!すみませーん!」と名乗りを上げて、参加者一同爆笑。みごと一杯食わされたのだが、まんざら嘘の句ではあるまい。どこかで似た情景を見たか、やったかしているに違いない。 (水 22.06.17.)

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白骨も不意に出てくる夏の山  藤野 十三妹

白骨も不意に出てくる夏の山  藤野 十三妹 『この一句』  選句表でこの句を見た時、句会で議論を呼ぶだろうと思いながら、ちょっと不気味な味わいに惹かれて点を入れた。句会では意外にも二点にとどまり、合評の対象とならないまま終わった。一見すると、山梨で三年前に行方不明となった女児の骨が見つかったニュースを踏まえた時事句と取れる。しかし何度か読むと、もう少し奥行きのある句ではないかと思えてくる。  手掛かりは「も」である。「白骨の」とすると、単なる時事句で終わってしまう。作者があえて「白骨も」としたのは、夏の山には、白骨以外にいろんなものが不意に出てくると言いたかったのではないか。例えば蛇や蛙、スズメバチあたりは結構現われる。突然の豪雨や山崩れだってある。冬山に比べ、安全で開放的といわれる夏山も、思いがけない危険をはらんでいるのだ。「不意に出てくる」のは人知の及ばない自然の力や運命であり、それに翻弄される人間社会を表現しているように思えてくる。  作者は現役の頃はコピーライターとして活躍したキャリアウーマンだが、近年は病気がちで句会への出席もままならない。さらに入院中の家族を看護する日々と聞く。人生の山谷にも思いがけない苦難が襲ってくる、そんな感慨が込められた「も」ではなかろうか。 (迷 22.06.16.)

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朝摘みの茨の花や牛乳瓶     金田 青水

朝摘みの茨の花や牛乳瓶     金田 青水 『合評会から』(酔吟会) 双歩 茨の花を牛乳瓶に活けたのでしょうか。ずいぶんリアリティのある句ですね。 愉里 散歩か何かの途中に見つけて摘んできたのでしょうか。そういう花は、牛乳瓶のようなものに無造作に入れる方が、かえって似合う気がします。 迷哲 すごく生活感のある句です。「茨の花」で視線を切って、下に視線をずらすと「なんだ、活けてあるのは牛乳瓶じゃないか」という、そういう効果かなと思いました。 水牛 僕は茨の花だからこそ、もうちょっとましなものに活けてくれよと思いました。できれば信楽、せめてマグカップにして欲しかったなあ(笑)。           *       *       *  この句を見ているうちに妙なことを思い出した。「やはり野に置け蓮華草」というフレーズだ。昔、大臣に抜擢された政治家が我田引鉄の所業のため辞任した。そのとき政界雀の名言がこれ。政治家は味のあることを言うものだと変に感心した覚えがある。ところで大昔の原句は「手に取るなやはり野に置け蓮華草」といって、遊女を身請けしようとした友人を諫めた句だといわれる。ものには適所があるとの謂いだが、この句の「茨の花」を挿す「牛乳瓶」はどうだろうか。合評会のとおり意見の分かれるところだ。牛乳瓶が身近にない今、茨の花との親和性について作者に聞いてみると、「牛乳瓶が家庭にあった頃の俳句と思って読んでいただければ嬉しい」と、これも過ぎし日のこと。 (葉 22.06.15.)

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ピースといふ薔薇のつぼみは固きまま 大澤水牛

ピースといふ薔薇のつぼみは固きまま 大澤水牛 『この一句』  5月の酔吟会の兼題に「薔薇」が出た。気候も良いので幹事の呼びかけで、5月5日に都電荒川線の沿線に薔薇の花をたずねる吟行に出かけた。ちょうどこの日は立夏。汗ばむほどの初夏の陽気となり、参加した12人は沿線の名所旧跡と薔薇園をめぐり、充実した一日を過ごした。  荒川線は軌道に沿って沿線住民が植えた薔薇が並び、終点の三ノ輪橋駅にはちょっとした薔薇園が設けられている。作者は庭いじりが好きで、植物にも造詣が深い。満開のバラの花を、愛おしむようにじっくりと鑑賞している姿が印象に残った。  薔薇はギリシャ、ローマや中国など古代から栽培されてきたが、ナポレオン時代のフランスで人工交雑手法が開発されてから、ヨーロッパを中心に様々な新種が生み出されてきた。このため名前も圧倒的に横文字が多い。三ノ輪橋の薔薇園でも「ダイアナプリンセス」や「クイーンエリザベス」、さらに「マリア・カラス」「イングリット・バーグマン」など有名女性を冠したものが目を引いた。  作者の自句解説によれば、掲句は三ノ輪橋から少し戻った町屋駅で見かけた薔薇を詠んだものという。開花時期をずらすためか、この駅の薔薇はまだつぼみのものが多かった。作者はその中に「ピース」という名の薔薇を見つけ、開戦から3ヵ月経っても和平の展望が全く見えないウクライナに思いを馳せたのであろう。薔薇の名を一つひとつ確かめた作者の観察眼と、80歳を超えてなお衰えないニュース感覚が生んだ佳句といえる。 …

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薫風や湯浴みのあとのジンライム 高井 百子

薫風や湯浴みのあとのジンライム 高井 百子 『この一句』  初夏の夕暮れ時、野山を渡って来た風に吹かれつつ、ロックグラスを片手に、茜色に染まり始めた空を眺めている――そんな光景が目に浮かぶ。ゆったりした寛ぎの時だ。早目に湯浴みしたのは、庭仕事に精を出したからなのだろうか。信州は塩田平の、目の前を電車が通り、その先には独鈷山という作者の家を想って、そんな想像をした。  それにしてもジンライムとはお洒落な飲み物を手にしたものだ。聞いてみると「これ美味しいよ」と、ご主人に舶来物のジンを教えられたのがきっかけだとか。ジンライムを作るのは難しくはない。よく冷やしたグラスに氷を入れ、ドライジンとライムジュースを3対1の割合で注ぎ、スライスしたライムを添えれば出来上がりだ。  「薫風」は青葉・若葉や草花の薫りを含んだ優しい風で、「風薫る」という使い方もする。その風を受け、ライムの香りにも包まれ、さぞ爽快な気分になったことだろう。「口当たりがいいので、ちょっと酔っ払って」という言葉ももれた。それはアルコール度数によるのではないか。日本酒やワインは15%程度だが、ジンは40%はあろうから。 (光 22.06.13.)

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ストローをのぼる空色夏来る  玉田 春陽子

ストローをのぼる空色夏来る  玉田 春陽子 『この一句』  5月の「酔吟会」で一席に選ばれた一句。「飲み物がストローをのぼって行って空に広がる視線の移動がいいですね」(迷哲)、「ソーダ水などとストレートに詠むと平凡な句になるところを、『のぼる空色』とは実にうまく詠んだものです」(水牛)などなど。句会では、その叙述の妙に感心しきりだった。作者は読者の関心を引くフレーズを巧みに操り、高点句を連発している実力者。掲句も一読するや、情景がまざまざと浮かぶ素晴らしい作品だ。  ところで、不特定多数からの郵便投句を集めての句会などは別として、普通の句会は、参会者の投句、清記、選句、披講、講評という流れで行われる。具体的には、会場で短冊をもらい短冊の数だけ自句(無記名)を書いて裏返しに出句する。集まった短冊をシャッフルして参加者に配り直す。配られた短冊の句を清記用紙に書き写す(筆跡などによる作者判明を防ぐため)。清記用紙に通し番号を入れ右隣へ回し、回ってきた清記用紙の句から選句し、自分の選句用紙に写す。  その後、一般的な句会では披講係が選句結果を読み上げ、指導者の講評を受けるケースが多いようだが、全くの互選である日経俳句会の場合は、各人が披講し、得点の多い句から順に合評している。しかし最近は、参加者が増えて月例会では事前投句で前段を省き、披講、合評会のみの句会になってしまった。  ところが、唯一「酔吟会」のみは本来の句会形式を忠実に踏襲している。どんな句に出会えるのか、会場に行くまでわからな…

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薔薇一輪活けてたちまちレストラン 嵐田双歩

薔薇一輪活けてたちまちレストラン 嵐田双歩 『合評会から』(酔吟会) 百子 薔薇の花は華やかだから、たちまちレストランになるけれど、これが菊の花だとそうはいきません(笑)。 迷哲 ごく普通の家庭の食卓でも、薔薇を一輪飾ると、たちまちレストランに早変わりするという句ではないでしょうか。 三薬 私も同様に解釈しました。我が家も昨日牡丹を食卓に飾りました。生活感のあるいい句です。            *       *       *  世界に二十万種あると言われる花の中で、薔薇ほど華やかさと気品に満ちた花はあまりない。色も豊富で長持ちし、贈り物に最適のため、いつも花屋の店頭を飾っている。まさに花の女王であり、園芸種としても人気が高い。掲句はそんな薔薇の特質、イメージをウイットを交えて上手に詠んでいる。薔薇とレストランをつなぐ「たちまち」が実に効果的で、たった一輪で食卓の雰囲気を明るく、豪華に変える薔薇の魅力がストレートに伝わってくる。  コロナ籠りで、朝昼晩と家族だけの食卓が続く。気分転換に花を飾れば、暮らしに潤いが生まれる。作者は句会で「今朝も薔薇を一輪置いて、ご飯と納豆の朝食を食べてきました」と笑いを取ったが、こんな時代だからこそ、その心のゆとりを見習いたいと思った。 (迷 22.06.10.)

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薫風を大きく入れて阿弥陀堂   須藤 光迷

薫風を大きく入れて阿弥陀堂   須藤 光迷 『季のことば』  「薫風とよく呼応している」、「季語が生きている」、「薫風を大きく詠んだ」との句評が出たとおり、いかにも初夏の気持ち良い風を感じる句である。「阿弥陀堂」だからいいので、これが閻魔堂じゃ雰囲気は出ないだろうと言った人にもうなづく。「薫風」は文字どおり薫る風。青葉の中を吹き抜けるすがすがしい風を形容した言葉と歳時記にある。だから周りに青葉がなくてはならない。阿弥陀堂はまさしく寺の樹々に囲まれたなかにある。正面扉は大きく開け放しており、薫風が堂の奥まで突き抜ける。  阿弥陀堂といえば、大伽藍ではなくふつう小ぶりな堂宇をイメージする。吟行で行った福島いわき市の国宝・白水阿弥陀堂などが代表例だろう。阿弥陀堂は平安貴族の浄土信仰の具現と、僧の修行の場としての二つの起源があるそうだ。この欄にコメントを書こうとすれば、多少は調べなければならずそれがまことに勉強になる。阿弥陀如来を本尊にして堂を建立したものだとばかり思っていたが、平等院鳳凰堂も中尊寺金色堂も、あまた各寺の五重塔も阿弥陀堂であるとは今回初めて知った。この句は白水阿弥陀堂風のお堂を詠んだものと思う。  ところでここでちょっと無駄話。アミダくじなるものがある。阿弥陀仏との関係について気になっていた。現在のアミダくじは梯子状の線になっているが、当初のそれは蜘蛛の巣のような放射状になっていたという。阿弥陀仏の光背に似せて作ったのが阿弥陀籤だと。いやあ、これも勉強になった。 (葉 2…

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田を植ゑて米一粒の重さ知る   工藤 静舟

田を植ゑて米一粒の重さ知る   工藤 静舟 『合評会から』(日経俳句会) 健史 裸足で田植えをした子どものころを思い出します。労働の大変さを感じていました。「米一粒の重さ」に共感します。 雅史 子どものころ「お百姓さんを考えて食べ物を大切にと言われました。農業体験を通じての実感でしょうか。 明生 子供のころ「一粒残さず食べないと罰が当たる」と言われたものです。農家から見てもその通りなんでしょう。 反平 今時は全部田植機だから、昔の思い出だろう。子供の頃、一粒でも残したらよく叱られたものだ。 てる夫 果たして、田植えの時に一粒の米の重さを感じるものか?           *       *       *  この句について私は「教訓が前に出てしまって、詩情を損ねている」とくさして採らなかった。しかし、句会では高点を得て、合評会ではとても好意的な、素直な受け取られ方をしたので少なからず驚いた。素直に受け取れば良かったのに、感受性がしなびてしまった偏屈老人の、何にでも難癖をつけたがるクセが出てしまったらしい。  もう80年近い昔になるが、第二次大戦末期に千葉の田舎に疎開して、米や芋を売ってもらうために傲慢な百姓ジジイのご機嫌取りに、田の草取りに駆り出され泣いたことを思い出す。慣れない田草取りは稲の葉先の棘で目を突かれ、アブや蚊に攻められる。そうして手に入れた米はまさに重いものだった。飽食時代に馴れ、いつの間にか己が傲慢になっていることに気付かされた。 (水 22.06.08…

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