託されし畑打つ腕若きかな   水口 弥生

託されし畑打つ腕若きかな   水口 弥生 『季のことば』  「畑打つ」は「耕(たがやし)」という春の季語の派生季語。いよいよ種蒔きシーズンが近づいて、固くなっている耕土を鋤き返し、柔らかくする作業が「畑打ち」だ。今は農協や近隣の共同作業で、農機を使っての耕しがもっぱらだが、そういうのはある程度の広さのある田畑に限られる。兼業農家の小さな畑では、やはり昔ながらの鋤、鍬による耕しである。これが重労働で、寄る年波のジイチャン・バアチャンにとっては大変な負担だ。こうしてやむを得ず放置された「耕作放棄地」が年々増えている。  しかし、この句は若者が帰って来てくれたという、明るく、前途の開ける感じである。老親を慮って帰郷し、農家を継ぐ決心をした若者か。あるいは早期退職し地方の農村に移り住み、打ち捨てられて荒れ果てた畑を買ったか借り受けて開墾し始めた元気な中高年か。とにかく元気一杯、やる気十分な様子が伺えて、読む方も元気づけられるような句だ。「若きかな」と無造作に詠んだところが効果を発揮している。  「はたうつかいな」と読むのか、「はたけうつうで」と読むべきか、どちらかなと読者に考えさせる、仕組んだとも思えない仕掛けが面白い。 (水 22.03.08.)

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名残り日を病夫生き抜き春の雪  藤野十三妹

名残り日を病夫生き抜き春の雪  藤野十三妹 『季のことば』  「名残り日」とは珍しい言い方である。「なごり雪」という昭和から歌い継がれているフォークソングがあるほか、「名残の折」と言って歌仙を書きつける最後の一折のことを言うその「名残」でもある。辞書をひくと名残とは万葉集の昔から様々な場面で使われ、ただその本意は物悲しさのなかに、そこはかとない余韻を含んでいる語のようだ。「余波」とも書き、波の残りの約で名残に。作者は元コピーライターであることが句友に知られている。名残り日という一見造語風の言葉も作者の手にかかれば造作もなく一般語になる。  さて、この句である。作者の夫君はのっぴきならぬ病状にあるようだ。作者自身も痼疾を持っていると告白している。とすれば夫婦そろって闘病中の状況にある。句からうかがうかぎり、夫君の病状のほうが篤いらしい。「生き抜き」とあるから生死の境をさまよって、今は小康を得たとみる。しかし作者は安心してはいない。  名残り日という措辞を使うことで、遠くはない危急の日が訪れようとも覚悟はできていると言いたいのかも。その日まで精一杯ともに生きようという心構えが受け取れる。「春の雪」とは絶妙な季語である。先日東京に降った雪という現実はさておいて、夫婦の雪明りのような未来を見せている句だ。 (葉 22.03.07.)

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耕して耕し続け日の暮るる   流合 水澄

耕して耕し続け日の暮るる   流合 水澄 『合評会から』(日経俳句会) 双歩 鬼城の「生きかはり死にかはりして打つ田かな」を思い出しました。リフレインが効いています。 水牛 耕しても耕してもまだ耕し切れない。日が暮れて来た。という農作業の大変な様子をそのまま詠んだ句なのだろうが、もっともっと深い意味も感じさせる。何か一生の仕事と決めた宿題があって、励んでも励んでもなかなか完成に至らない。もう私も年だ。日暮れが近い、ということを「耕」という季語に託した句なのかなあと思った。 明生 田畑を耕している農夫の力強さ、忍耐強さなどがひしひしと感じられる句だと思いました。下五の「日の暮るる」に農夫の哀愁みたいなものを感じた。 睦子 開拓時代の開墾の様子を想像しました。           *       *       *  私の合評会での発言は、自分勝手な深読みかも知れない。しかし、とにかくそんなことまで思わせる句である。若い若いと思っていたこの作者も今やいわゆる「実年」。職場でも家庭でも、こなさねばならないことが山積する時期であろう。さすれば私の句解もそれほど的を外したものでもなさそうだと思えるのだが・・。作者はこの句会を機に「水澄」と名乗るように決めた。「流れの合う処、やがて水澄む」と。この句と俳号とが響き合う。 (水 03.06.)

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春暁や鉄路点検影二つ      高井 百子

春暁や鉄路点検影二つ      高井 百子 『季のことば』  春暁(しゅんぎょう)という季語の本意を踏まえた、印象深い句である。水牛歳時記によれば、暁(あかつき)は夜の範疇に入る。夜明け前の最も暗い「暁闇」の時刻がそれで、暁の後に曙が来て朝となる。現在では区別があいまいになり、どちらも「夜明け頃」を指す。したがって、春暁は春の夜明けの意となるが、時間経過順に並べれば、春の暁、春の曙、春の朝となる。  掲句は夜明け前の線路で保線にあたる作業員を描写する。保線作業は終電から始発までの限られた時間に夜を徹して行われる。春とはいえまだ冷え込みは厳しい。空が白みかける頃、黙々と働く作業員の影が暁闇に浮かぶ。「鉄路点検」の韻を踏んだ硬質な表現が効果的だ。ハードな作業内容を表すとともに、交通インフラを守る大事な仕事にきっちり取り組んでいる気概もにじむ。  保線の仕事は重要だが、深夜作業が敬遠され、なり手が減っているという。団塊世代のベテランの引退時期とも重なり、人手不足が深刻化している。最近、鉄道各社が終電時間を早めている背景には、保線の作業時間を確保する狙いもあるとされる。  多くの人がまだ眠っている春暁。保線区員のほかにもたくさんのエッセンシャルワーカーが働き、社会を支えている。句を読んで、ふだん見過ごしている当たり前のことに気づかされた。 (迷 22.03.04.)

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三渓園はずむおしゃべり梅見酒  新井 圭子

三渓園はずむおしゃべり梅見酒  新井 圭子 『季のことば』  「梅見」(観梅)は初春の季語である。水仙や福寿草、菫など早春に咲く草花はいくつかあり、猫柳や蠟梅など春早くに花を付ける木々が無いではないが、なんと言っても初春の野山を彩る代表選手は梅である。万葉時代から平安初期には春の花と言えば梅であった。桜がもてはやされるようになったのは平安時代中期以降のようだ。ともかく、枯れ色一色の野山に、廩として香る花を咲かせるから、誰も彼もまだ寒い中を我先に梅見に出掛け、日溜まりに座をしつらえて梅花を愛でながら酌み交わした。  この句の「三渓園」は横浜・本牧にある明治から昭和初期にかけて活躍した豪商原三渓の邸宅跡の名園。二月から三月初旬にかけて500本以上の白梅紅梅が次々に花を咲かす。中でも名物が「臥竜梅(がりょうばい)」。三渓の庇護を受けていた日本画家の下村観山は園内の三渓の自宅に寄宿し、臥竜梅を写生し、大作「弱法師(よろぼし)」(重要文化財)を描き上げた。今では臥竜梅はすっかり老木になっているが、まだまだ懸命に花をつけている。  梅林の近くに三渓が作らせた待春軒という建物があり、今は茶店になっている。三渓が考案した具を上に散らした「三渓そば」が名物。この句は、気の合う仲間とうち連れて、おでんと三渓そばを肴に梅を見ながら一杯やっている情景だろうか。「梅見酒」と固有名詞「三渓園」が響き合う、長閑でとても感じの良い句である。 (水 22.03.03.)

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小さき子言いわけ顔の春灯下  宇野木 敦子

小さき子言いわけ顔の春灯下  宇野木 敦子 『合評会から』(三四郎句会) 信 幼い子が何か悪い事をしたのを春の灯の下で「あのね、あのね」と泣きべそをかいて言い訳している。その雰囲気が何とも言えないですね。幼い頃の自分を思 い出しました。 而云 この子は「遅くならないように」と母親に言われていたのかもしれない。しかし「春灯下」という場面設定によって、他のさまざまな言い訳も思い浮かびます。           *       *       *  「春灯下」という語に、なまめかしい雰囲気を感じてしまうのは大人の悪い習性だろう。しかし掲句を見つめ、じっくり思い起こせば、幼児の頃の、様々な春灯下の状況が浮かび上がって来て「そうだ。自分にも・・・」と呟きたくなる。遠い昔の懐かしい、そして少々悲しい思い出である。  句の詠み方ついて二つほど指摘させて頂きたい。まず「小さき子」の読みは「ちいさき子」だが、この場合は読みの短縮形を用い「小さき(ちさき)子の」としたい。そして中七に「言いわけ顔や」と「や」による“切れ”を入れるのだ。    小さき子の言いわけ顔や春灯下  母親に一生懸命言いわけをしている幼児の顔がクローズアップされてくるのではないだろうか。 (恂 22.03.02.)

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教科書を消した記憶や紀元節   河村 有弘

教科書を消した記憶や紀元節   河村 有弘 『合評会から』(三四郎句会) 信 日教組のせいで歴史教育がないがしろにされた。本当の歴史を教えるべく努力しなければならないと思っています。 而云 敗戦後、教科書に墨を塗った根源に紀元節(建国記念日)があった、と作者は訴える。この記念日の背負った深くて重い記憶である。 久敬 敗戦直後の驚天動地の強烈さ。 賢一 昭和十五年前生まれの人でないとこの経験は無い。一枚の新聞紙ほどの紙を渡されて、切ったり貼ったりして教科書にしたことも思い出します。貧しい時代だったが、子どもたちは元気一杯だった。 雅博 時代をうまく表している。 進 終戦直後の悪夢。教科書の墨塗り、壊された奉安殿の瓦礫運び、教師の左翼化、教頭のマッカーサー崇拝・・・。           *       *       *  昭和20年になると毎日毎晩空襲で東京横浜辺では登校しないまま夏休み。そして敗戦、秋の新学期。もう空襲の恐れのない学校に行くと、最初にやらされたのが教科書の墨塗り。その翌年、昭和21年2月11日には「紀元節」は法律上は残っていたのだが、誰も祝う人は居らず、23年、新しい祝日法制定の折にGHQ(連合軍総司令部)の命令で紀元節は抹消された。  建国記念の日(紀元節)が巡って来るたびに、教科書塗りつぶしという強烈な体験を思い出すよと作者は言う。孫・ひ孫世代にはこうしたことを経験させたくないとつくづく思う。 (水 22.03.01.)

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