卒業の投げたる帽子風に乗る   水口 弥生

卒業の投げたる帽子風に乗る   水口 弥生 『季のことば』  卒業とは小・中・高・大学の学業をそれぞれ終えることで、日本では卒業式が三月に行われることから春の季語となっている。水牛歳時記によれば、卒業が春の季語として詠まれるようになったのは、学制が四月新学期となった大正以降という。例句には「校塔に鳩多き日や卒業す」(中村草田男)や「直角に曲り卒業証書受く」(真下耕月)などがあげられている。  掲句は、士官学校や大学の卒業式で帽子を空に投げ上げる光景を詠んでいる。アメリカ映画などでよく目にするが、日本でも防衛大学の卒業式の恒例行事である。防衛大は室内だが、アメリカの卒業式はほとんどが校庭で行われる。卒業生が青い空に向かって一斉に帽子を投げ、我先にと走り去る。空に舞った帽子が折からの風に乗って遠くまで飛んで行く。卒業の解放感とともに、これからの人生が順風満帆であれとの思いも感じられる句である。  帽子投げ(ハット・トス)は米国のアナポリス海軍兵学校で110年前に始まったとされる。規律ずくめで厳しい訓練が終わる喜びと達成感から、制服を脱ぎ捨て帽子を放り投げたという。その後、陸軍士官学校や大学に広がり、欧米では卒業式の記念行事として定着している。  卒業式の形式や内容は時代とともに変わってきている。昔は「仰げば尊し」、「蛍の光」を歌ったが、今は「友~旅立ちの時」や「旅立ちの日に」といった合唱曲が定番になっているという。儀式優先で解放感とは遠かった自分の卒業式を思い出した。 (迷 22.…

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三月や人去りし部屋広き部屋   伊藤 健史

三月や人去りし部屋広き部屋   伊藤 健史 『合評会から』(日経俳句会) 鷹洋 何回かの引っ越しの経験のある身としては、実感の湧く俳句です。 愉里 気づかなかった広さを掬い上げている。部屋のリフレインが気に入りました。 朗 子どもなのか、夫人なのか。いなくなった部屋の広さを強調していていい句だ。 水兎 部屋の繰り返しが効果的です。なにがしか深く思う事があったのでしょう。 青水 句の解釈の広さを読者にゆだねつつも、しっかりとした措辞で成功している。 水牛 就職、結婚、死亡。なんでもいいが、こういう情景が生まれる。とてもいい句なのだが、「人」ではなくて、例えば娘とか息子と具体的に言うべきではなかったか。 而云 人が去ったので広いのか、もともと広かったのか。「部屋」の使い方が良くない。           *       *       *  感覚的によく分かると共感する句評が多かった。「部屋」のリフレインも効果的と評価している。三月とは人生にあって、実にさまざまな事を経験する月日であろう。「人去りし」と距離を置いた表現だから、これは肉親ではないように思える。筆者は人事異動を想起した。机を並べた同僚、後輩が去って部屋にぽっかり穴があいたような感覚を詠んだのだと思う。もともと広い部屋なのか、狭い部屋でも人ひとりいなくなって広さを感じたのか、そこらがちょっと不明瞭なのが惜しいと思う。句会司会者に聞いたら本人が異動になったということで、作者自身の事であった。 (葉 22.03.3…

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三月やインクの色を替へてみる  横井 定利

三月やインクの色を替へてみる  横井 定利 『この一句』  三月は、ようやく春を実感する月。雛祭に始まって彼岸を迎えると、やがて桜の便りが聞こえてくる。卒業式や転勤、入学準備、引っ越など身辺も何かと慌ただしくなってきそうだ。掲句はそんな期待と不安の綯い交ぜになった心情と、春本番のウキウキした気分を「インクの色を替えてみる」行為で表現した、とても感じの良い一句だ。確かに万年筆のインクを別の色に替えるのは、気分転換にぴったりだ。  筆者はかつて、太字の万年筆で原稿用のマス目を埋める、というスタイルに憧れて太字の万年筆を使っていた。太字ゆえなのかインク漏れがあって、使うと指が汚れた。やがてワープロ全盛になり、万年筆の出番は少なくなってお蔵入り。あるとき、万年筆の手入れの仕方という記事を見て、抽斗から出して試してみた。ペン先を水に浸け2、3日、水が透明になるまで水を取り替える、しっかり乾かして新たなインクを入れる、という方法だった。確かにインク漏れがなくなり、描き味も蘇った。  万年筆のインクを替える場合、薄い色から濃い色に替えるのは問題ないが、逆はペン先をよく洗う必要があり、結構手間がかかりそうだ。あるいは、付けペンなのだろうか。その方が手軽でおしゃれかもしれない。ともあれ、この句には何人もの句友が共感の手を挙げた。 (双 22.03.29.)

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火の鳥ぞはばたくように山焼くや  久保道子

火の鳥ぞはばたくように山焼くや  久保道子 『合評会から』(酔吟会) 春陽子 山焼きの炎を火の鳥に見立てているのですね。今日の兼題は「鳥帰る」で、その中に「火の鳥」の句があったので、目立って飛びつきました。 木葉 「火の鳥ぞ」の「ぞ」の強調に惹かれていただきました。 愉里 火の鳥にたとえられて、山焼きの光景がよく見える句だと思いました。 水牛 僕は木葉さんと逆で、「ぞ」と最後の「や」の組合せがよろしくないと思いました。「火の鳥のはばたくように山焼くや」でいいのじゃないかと思いました。 作者 「火の鳥ぞ」と強調したかったのですが、最後「山焼く」で字足らずになってしまい、思わず「山焼くや」にしてしまいました。           *       *       *  手塚治虫の「火の鳥」を山焼きの光景としてとらえた珍しい句。漫画のなかで不老不死の火の鳥は、己が身で周りを焼き尽くす。秋吉台などの山焼きを見ると、火の鳥とはそんな感じがする直喩である。「はばたくように」という表現も合っている。とはいえ上五の「ぞ」と下五の「や」で賛否が分かれた。上五の終わりは「てにをは」や最強の「や」がふつう。この句の「ぞ」は作者が言うように、火の鳥の強烈なイメージを強調したかったのだが、「ぞ」はたしかに効果的。ただ下五の「や」は着地に失敗した体操選手のようだ。「ぞ」にしたのなら「山を焼く」でよかったのではないだろうか。 (葉 22.03.28.)

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雛納め今日の新聞敷き込みて   向井 愉里

雛納め今日の新聞敷き込みて   向井 愉里 『季のことば』  「雛納め」とは、文字通り雛祭の終わった後、雛人形を仕舞うこと。雛祭りが終わって、すぐに人形を仕舞わないと婚期が遅れるとも言われるが、だらしなさを戒める道徳的意味合いもあったとか。「飾りつけた日から奇数にあたる日を選ぶというが、そこまで神経を働かせる人がいるのかどうか。蕎麦をそなえ、食べてから納めるとも、ものの本には書いてある」――先日、亡くなった清水哲男という詩人が運営したウェブサイト『増殖する俳句歳時記』(2016年8月で終了)に載っていた「官女雛納め癖なるころび癖 岡田史乃」の句評の一部だ。人形には、どうしても魂を宿らせたくなるので、納める時も「ご苦労さま。また来年もよろしく」などと懇ろに扱う。儀式めいた雰囲気のある季語だ。  掲句は納める時に、湿気を取ったり防虫のため(効果のほどは微妙だが)新聞紙を敷き込んだ、という〝雛納あるある〟の一コマで、句会で人気を集めた。「今日」より「今朝」の方がいいのでは、との指摘があったが、作者によれば「さすがに今朝の新聞を使うのはちょっと」とリアルな反応。実は筆者も、まったく同じ作業をしたばかりなので、真っ先に採った。特に今年は、ロシアのウクライナ侵攻が連日、紙面に暗い影を落としていて、来年また飾るころは果たして情勢はどうなっているのだろうか、などと気遣いながら仕舞った。作者も同じ気持ちで〝今日(こんにち)〟の新聞とともに雛を納めたのだろう。 (双 22.03.27.)

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雛祭次女が彼氏を連れて来た   旙山 芳之

雛祭次女が彼氏を連れて来た   旙山 芳之 『この一句』  娘が付き合っている相手を連れてくるという、家族にとっての〝大事件〟を詠んだ愉快な句である。彼氏とは単なるボーイフレンドか、あるいは結婚を考えている恋人なのか、想像は膨らむ。「連れて来た」という口語体の放り出すような語調が効果的で、家族、特に父親のあたふたぶりが浮かんでくる。添えられた雛祭の季語の華やかな雰囲気も加わり、春らしい一句となっている。日経俳句会の三月例会で最高点を得たのもうなずける。  句会では「次女が効いています。雛祭と次女、いいですね」(双歩)など、雛祭・次女・彼氏の組み合わせに新鮮味を感じ、点を入れた人が多かった。  作者は三人の娘の父で、これまでも娘のことを詠んだ句を寄せ、高点を得ている。三年前の「雛納め三人娘に会えぬまま」の句を皮切りに、「夜勤明けナース二年目初夏の風」、「娘らが帰ってこない晦日蕎麦」などと続く。いずれの句も娘の成長・自立を喜びながら、残される親の哀歓が漂う佳句である。  次女は看護師になって二、三年の働き盛りと聞いている。どんな彼氏を連れて来たのか、父親ならずとも気になる。詠まれた句を通じて作者の家族や人生が垣間見えるのも、句会俳句の味わいのひとつではなかろうか。今度は長女や三女を詠んだ句を期待したい。 (迷 22.03.25.)

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鳥帰る沖に白き帆うたせ舟    谷川 水馬

鳥帰る沖に白き帆うたせ舟    谷川 水馬 『この一句』  「鳥帰る」の兼題に作者が出したもう一つの句は「不知火の海で風待ち鶴帰る」で、高得点を得た。「不知火の海(熊本八代海)」の持つイメージと語感が選句者のこころをつかんだようである。いっぽうの「うたせ舟」は馴染みが薄かったか、筆者ともう一人だけの点にとどまった。漢字で打瀬舟と書く小型漁船は一枚か四、五枚の帆を掛け、内海や湖で漁をする。四百年前からの古い漁法のようで、不知火海、霞ヶ浦や北海道野付湾に現在も残っている。風のまにまに潮の流れにまかせ、網で小魚やエビを獲る今風に言えばエコな漁法である。  「不知火」と「うたせ舟」の句を見たとき、筆者は作者が同一人物であろうと直感した。同じ不知火海の情景である。甲乙つけがたく思いどっちを選ぼうかと迷ったが、結局うたせ舟を採った。「鳥帰る」の鳥というのは鹿児島・出水のナベヅルであろうと想像できる。ナベヅルは目の周りが赤く、羽根の先は薄墨色だが、鶴はうたせ舟の白い帆によく似合う。  熊本のうたせ舟は海の貴婦人とも呼び、遠見には大型帆船日本丸のミニチュア版のような存在だ。不知火の海に浮かぶ白帆の群れ、空にはシベリアに帰るナベヅルの群れという兼題季語を配し堂々の句となっている。余計な詮索になるが、この句を「鶴帰る」としなかったのは鶴と白帆の付き過ぎを嫌ったとみたが。 (葉 22.03.24.)

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春愁の午後もて余しかりん糖   金田 青水

春愁の午後もて余しかりん糖   金田 青水 『季のことば』  春愁は「春の物憂い気分を言う」(水牛歳時記)季語である。よく秋の「秋思」と対比されるが、「秋思が厳しい冬を迎える寂寥感が根底にあるのに対し、春愁は春の華やかさの裏にひそむある種の暗さ、倦怠感を伴った『もの思い』である」(同)。  掲句は春の日の午後、けだるいもの思いに身を浸しながらかりん糖をつまんでいる景である。「もて余し」の措辞が物憂い気分と所在なさを伝え、付けあわされた「かりん糖」が絶妙に響き合っている。句会でも「春愁には所在なさが付きまとい、所在なき午後にかりん糖が良く合う」(春陽子)、「ちょっとつまんじゃうかりん糖がいいですね」(愉里)と同感する人が多く、春愁の兼題句で最高点を集めた。  かりん糖は小麦を練って棒状にし、油で揚げて黒砂糖などの蜜をかけた和菓子である。奈良時代に遣唐使が持ち帰ったとする説が有力だが、長崎を経由した南蛮渡来説もあるという。老舗の高級菓子というよりも、庶民のおやとして好まれてきた駄菓子である。所在ない春の午後に、何ともなしにお菓子をつまみたくなる。ケーキや饅頭ではしっくりこない。やはり気楽に手の伸びるかりん糖であろう。 (迷 22.03.23.)

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剪定にアップテンポのリズムあり  塩田命水

剪定にアップテンポのリズムあり  塩田命水 『この一句』  庭木は剪定しないと野放図に伸びて、収拾がつかなくなってしまう。見た目が悪くなるだけではない。枝が重なって葉が密集し風通しが悪くなると、病虫害が発生する。とりわけ花の木や果樹は剪定作業が必須である。  しかし、樹木によって剪定の時期がある。常緑樹のマサキ、つげ、ひばなどの生垣なら、いつでも刈り込むことができるが、花木の場合は花芽が育つ時期に枝を切り込んでしまうと、翌年、開花期が来ても咲かなくなってしまう。この剪定時期を見定めて手入れをするのが、植木屋や園芸家の腕の見せどころとなる。俳句では花木や果樹の花芽ができる前の初春・仲春に合わせ、「剪定」を春の季語にしている。  熟練の植木屋の剪定作業は半開きにした窓越しに聞いていても心地よい。最初は乱れた枝を切り落とすなど、間を置いたゆっくりとした感じで始まり、やがてチョキチョキと並足のリズム、そして仕上げはシャカシャカと軽快な音を響かせる。  あたかもニューオーリーンズ・ジャズを聞いているようだ。最初は亡き人の棺を墓地に運ぶ葬送行進曲であり、ゆっくりした荘重な調べとリズムのブルース。そして、埋葬後の帰途は「ああ友は晴れて天国に行ったのだ」と、打って変わった軽快なアップテンポの「聖者の行進」になる。  「剪定」というものを鮮やかに、軽快に詠んだ。カタカナ言葉が効いている。 (水 22.03.22.)

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蟇出でて地域デビューのゴミ当番  中村迷哲

蟇出でて地域デビューのゴミ当番  中村迷哲 『合評会から』(酔吟会) 三薬 この「蟇」は自分のことを詠んでるのでしょう。カエルのようにへばってないで、ちゃんと仕事してよとカミさんに言われたのでは。 鷹洋 引っ越したばかりでしょうか、亭主がカミさんに言われて動く姿が目に浮かびます。「蟇出でて」が面白いです。 木葉 なぜ「蟇出でて」なのかよくわからなかったのですが、三薬さんの作者自身のことだという解釈で納得しました。           *       *       *  作者には自然の景観を美しく詠んだり、昔の思い出の断片を五七五に表現する作品が多い。例えば前者は「奥久慈に氷花(しが)流るるや春隣」、後者は「摘果終へ父と並んで冷し汁」など、佳句ばかり。ところが掲句は、同じ作者とは思えないほど句風が異なる。自然の景色でもなく、昔の記憶でもない。いわゆる身辺雑記なのだ。身近な句材だけに、ややもすると報告調に陥りやすいが、読者の共感もまた得やすい。この句は自身をヒキガエルと称し、ゴミ当番でご近所デビューしたという。実に俳諧味たっぷりだ。  身辺雑記といえば、水牛さんは「日常茶飯句」と言い換えて「これからは臆面もなく日常茶飯句を作っていく」と当ホームページの「水牛のつぶやき」というブログ(3月10日付)で、宣言していた。  そういえば、一茶も子規も身辺雑記がほとんどではないか。 (双 22.03.21.)

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