見えぬ鬼打つ豆つぶて夜昏し 徳永 木葉
見えぬ鬼打つ豆つぶて夜昏し 徳永 木葉
『季のことば』
鬼を豆で打つとくれば、節分の句であろう。字義通りに解釈すれば、節分の夜にやってくる鬼(邪気)を追い払うために、外に向かって豆をつぶてとして投げた。夜はなお昏い――となる。節分の豆撒を語調よく、やや文学的に詠んだ句と見える。
節分とはもともと「季節を分ける」の意味で、立春・立夏・立秋・立冬それぞれの前日を表す言葉だったが、現在は特に立春の前日をさす。この時季はまだ寒く、病気(邪気)を引き込みやすい。そこで「節分の夜、寺社では邪気を払い春を迎える追儺(ついな)が行われる。民間でも豆を撒いたり、鰯の頭や柊の枝を戸口に挿したりして、悪鬼を祓う」(角川歳時記)。節分行事に関連した追儺、鬼やらひ、豆撒、柊挿すなどいずれも冬の季語となる。
作者は句会の重鎮。清新な感覚で、時代を切り取った作品が多い。この句をじっと眺めていると、今の世相が浮かんできた。見えぬ鬼とは、目に見えぬコロナウイルスのことであろう。それを追い払う豆(手段)は、足りない病床や遅れるワクチン接種など心細く、小さなつぶてに過ぎない。昏い夜とは、2年を過ぎても終息の展望が開けない日本と世界を覆う闇であろう。節分行事を流麗に詠んだ句と思ったが、現代の邪気との戦いを裏に詠みこんだ、二重構造の時事句ではなかろうか。
(迷 22.02.14.)