試験終えコートの襟に春の雪   池内 的中

試験終えコートの襟に春の雪   池内 的中 『この一句』  春の雪の降る頃の試験と言えば、やはり大学入試であろう。将来を左右する試験に全力で挑み、終わって会場を出ると雪が舞っていた。春の雪は淡雪とも呼ばれ、コートの襟に落ちてもすぐに消えてしまう。暗い空からふわふわ落ちてくる雪は、行方の定まらぬ宙ぶらりんの受験生の身に重なる。作者は大学で教鞭を執っており、そうした場面を実際に目にしたのではないか。この季節特有の情景を素直に詠みながら、読者に若い頃の体験や気持ちを思い起こさせる情感豊かな句といえる。  受験と雪の記憶が結びついている人は多い。これは受験シーズンが雪の季節と重なるためであろう。1月上旬の大学共通テスト(旧センター試験)から始まり、2月に入ると私立大入試、さらに国公立大入試と続く。東北や北陸は雪が降り続く時期であり、関東など太平洋側でも降雪がある。日本気象協会の統計によれば、2000年以降のセンター試験19回のうち東京でも4回雪が降っている。降雪率は21%で、1月の平均9%の2倍以上と知って驚いた。テレビで流れる雪の中の受験風景が脳裏に刻まれ、雪と受験を結び付けて認識しているのであろう。  中国の故事「蛍雪の功」を引くまでもなく、日本人にとって雪と試験勉強はなじみ深い。昭和生まれで「蛍雪時代」という受験雑誌を覚えている人も多いのではないか。掲句は平易な叙景句であるがゆえに、読む人の想像を誘い、受験にまつわる様々な記憶を手繰り寄せてくれる。 (迷 22.02.16.)

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鳥たちと冬菜分け合ふ日和かな  大澤 水牛

鳥たちと冬菜分け合ふ日和かな  大澤 水牛 『季のことば』  寒さの募るこの時季、家庭菜園を楽しむ人たちは痛しかゆしの心境になるようである。冬菜はちょうど食べごろなのだが、餌に事欠く小鳥たちが、早朝から群れをなしてやってくるのだ。菜園の主にとって気になるのは、もちろん食べごろになった冬菜の方である。小鳥も可愛いのだが、時には心を鬼にして、追い払う立場にならざるを得ない。  作者はその状況を「冬菜分け合ふ」と詠んだ。選句側はこの言い回しに反応した人が多く、褒め称える人もあり、句会では高点句の一角に並んだ。しかし意地悪爺さん的な筆者(私)は「本心はどうなのか」と作者に問うてみた。返って来た言葉は「しょうがないなぁ、というところかな」。小鳥は追い払いたいのだが、「私は朝寝坊だから」と実情を述べていた。  我が家の小庭の場合、菜園の余地など全くなく、年中放置の状態だ。それでも小鳥たちが千両の種入りの糞を落として行くようで、実生の千両が赤や黄の実を付けるのだが、やがて小鳥の餌となり、いつの間にか消えていく。この状態を句に詠もう、とは思うが、結構難しい題材だ。「菜園なら詠めそうだが」などと時々、負け惜しみを呟いている。 (恂 22.02.15.)

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見えぬ鬼打つ豆つぶて夜昏し   徳永 木葉

見えぬ鬼打つ豆つぶて夜昏し   徳永 木葉 『季のことば』  鬼を豆で打つとくれば、節分の句であろう。字義通りに解釈すれば、節分の夜にやってくる鬼(邪気)を追い払うために、外に向かって豆をつぶてとして投げた。夜はなお昏い――となる。節分の豆撒を語調よく、やや文学的に詠んだ句と見える。  節分とはもともと「季節を分ける」の意味で、立春・立夏・立秋・立冬それぞれの前日を表す言葉だったが、現在は特に立春の前日をさす。この時季はまだ寒く、病気(邪気)を引き込みやすい。そこで「節分の夜、寺社では邪気を払い春を迎える追儺(ついな)が行われる。民間でも豆を撒いたり、鰯の頭や柊の枝を戸口に挿したりして、悪鬼を祓う」(角川歳時記)。節分行事に関連した追儺、鬼やらひ、豆撒、柊挿すなどいずれも冬の季語となる。  作者は句会の重鎮。清新な感覚で、時代を切り取った作品が多い。この句をじっと眺めていると、今の世相が浮かんできた。見えぬ鬼とは、目に見えぬコロナウイルスのことであろう。それを追い払う豆(手段)は、足りない病床や遅れるワクチン接種など心細く、小さなつぶてに過ぎない。昏い夜とは、2年を過ぎても終息の展望が開けない日本と世界を覆う闇であろう。節分行事を流麗に詠んだ句と思ったが、現代の邪気との戦いを裏に詠みこんだ、二重構造の時事句ではなかろうか。 (迷 22.02.14.)

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薄墨の写経さはさは春の雪    金田 青水

薄墨の写経さはさは春の雪    金田 青水 『この一句』  一読、「おや、懐かしい」と思った。この句は「薄墨の写経」と「春の雪」との「取り合わせ」である。二つの概念がぶつかり合うという意味からかつては「二物衝撃」とか「二句一章」などとも言われた。それらは一句中の「切れ」に関わる俳句の構造論に由来しており、ひと頃は句会後の席などで、しばしば議論が戦わされていたものだ。  そして掲句は「二物」の間に「さはさは」という擬音語を置いた。薄墨の写経は「さはさは」、春の雪も「さはさは」。この擬音語によって二物衝撃のぎこちなさを薄め、いかにも薄墨風、写経風の、春の雪との取り合わせを成立させている。こうしてみると掲句は実に技巧的であり、見事な出来映えの俳句作品と評すべきかも知れない。  近年、句会などで俳句の構造論などを聞くことがない。「二物衝撃」などと言い出せば「何ソレ」という反応が返ってきそうである。そんなことから私は、薄墨の写経と春の雪の間に「さはさは」を置いた句を題材に、どなたかと俳句の取り合わせ論などを語り合ってみたい、と思うのだ。いかがでしょうか、皆様。 (恂 22.02.13.)

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看板なき岩波ホール凍返る    廣田 可升

看板なき岩波ホール凍返る    廣田 可升 『合評会から』(番町喜楽会) 春陽子 残念ながら岩波ホールが閉じるという事ですね。さんざんお世話になりました。季語の「凍返る」がよく効いています。 水牛 バブルはじけて以降の文化置き去りの姿です。神保町の交差点に穴が空いてしまった感じがします。時代を画する一句ですね。 的中 先日、岩波ホールで「ユダヤ人の私」「ゲッベルスと私」という映画を観てきました。よい映画を世界中から発掘してきた歴史のある映画館が閉館することはとても淋しいものです。「凍返る」の季語がぴったりです。  てる夫 ちょっとショッキングなニュースでした。「凍返る」がぴったり。 斗詩子 名画を楽しんだ岩波ホールが看板を下ろすという。コロナも影響したのでしょうか、寂しさもひとしおです。           *       *       *  作者は自転車に乗って都内くまなく走り回る。「岩波ホール閉館」の発表があって直ぐに出かけると、交差点からよく見えていた大きな看板が外され、うたた感慨にふけったようだ。私自身は「岩波臭さ」というか特有の気取りが好きではないので、このホールにも2回しか行ったことがないのだが、それにしても一つの文化を築いた城が崩れてしまうのは寂しい。 (水 22.02.11.)

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全山の音とじ込めて滝凍る    中村 迷哲

全山の音とじ込めて滝凍る    中村 迷哲 『合評会から』(番町喜楽会) 木葉 この滝の響きは全山唯一の音だったのだろう。それが消え去ってしまって・・・ 光迷 厳しい冬の山の様子をよく捉えている。 春陽子 山奥の誰も訪れないような滝が凍ってしまった、という状況がよく分かる。 而云 滝の音の絶えた静寂を、実にしっかりと詠んでいます。 可升 上手いなぁ。作者の代表句になるのではないかな。 双歩 類句がありそうだ、とは思うが、読んで心地がいい、という句ですね。           *       *       *  作者は何年か前、秩父の山奥で凍った滝に出会った時の雰囲気を思い起こし、句にしたという。「全山の音とじ込めて・・・」。実際は樹々の風に揺れる音くらいは聞こえていたはずである。しかし滝が凍り付き、巨大な抽象彫刻の作品となって眼前に屹立しているのに出会い、周囲から全ての音が消え去ってしまったのだ。  私はかつて中国河南省の山奥で、垂直に三百㍍余りも落ちる滝を見上げたことがある。六月のことで、汗を拭きながらであった。掲句を見たとたん、私はごく自然に、あの中国の大滝が凍り付いた様子を思い描いていた。俳句は僅か十七音。たったそれだけの語が、とてつもないスケールを描き得ることに気づいた次第である。 (恂 22.02.10.)

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寒晴やホットレモンの香の尖り  高井 百子

寒晴やホットレモンの香の尖り  高井 百子 『合評会から』(番町喜楽会) 光迷 寒さが厳しい時、レモンを絞って蜂蜜を入れ、熱くして飲むと本当にほっとします。 而云 あのレモンのつんとした香りを「香の尖り」と表現したことに感心しました。 迷哲 寒いからこそ飲み物の暖かさが嬉しい。漂うレモンの香りを「尖り」と表現したのは上手いですね。 水牛 僕は逆に「尖り」はどうだろうかと思いました。人工香料のような感じがして。           *       *       *  コロナウイルス感染防止の手立ては「三密」回避。しかし、家に籠ってばかりはいられない。コロナ太りも気になる。という次第で、人出の少ない場所を選んで散歩をする向きが増えている。それが寒晴れの日であれば、とっても気持ちいいだろう。そして帰宅し、ホットレモンで冷えた体を…と読んだ。  ところが、下五の、香の「尖り」に疑問の声が上がった。成程と思える節もある。レモンの香りが尖っている、フリッシュで爽快なのは絞っている時で、ホットレモンになってしまうと…、だからだ。では、どうするか。「香り立つ」「香の高し」あるいは「香の優し」「香に和む」。適切な言葉を考えて欲しい。(光 22.02.09.)

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しつけ解く祖母の笑顔や針供養  向井 愉里

しつけ解く祖母の笑顔や針供養  向井 愉里 『季のことば』  針供養とは「平素使っている針を休め、折れた古い針を供養する行事」(角川歳時記)。古針を豆腐や蒟蒻に刺して供養し、裁縫の上達を願う風習が各地に残る。テレビのニュース番組で若い女性が神社などで豆腐に針を刺している映像を目にすることもある。関東では二月八日が針供養の日とされ、春の季語となるが、関西は十二月八日に行うところが多く冬の季語となる。針祭や針納、納め針なども同類の季語である。  掲句はその針供養に祖母の思い出を重ねている。おばあちゃんが孫に新しい着物を着せながら、しつけ糸を外している情景であろう。「仕付け」とは着物を縫う時に、本縫の目安となるように白い糸などで仮縫をしておくことをいう。おそらくは自分で仕立てたであろう晴着を孫に着せる嬉しさと、孫の成長を喜ぶ気持ちが笑顔となって表れている。仕付けと針供養が近すぎるのではないか、との指摘もあったが、「なじみの薄い季語を取り上げ、うまく詠んだ」など評価する声が多かった。  句会での作者の弁によれば、着物をたくさん縫ってくれた祖母の思い出とともに、自分も娘のバレーの衣装などを懸命に手作りした体験を思い起こしながら詠んだ句という。作者は娘二人に恵まれ、自ら「女系家族」と称している。祖母から母、母から作者へと伝えられた裁縫の技術と愛情は、作者から娘へと間違いなく伝わっているであろう。 (迷 22.02.08.)

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草の芽やちび怪獣に歯が生えた  谷川 水馬

草の芽やちび怪獣に歯が生えた  谷川 水馬 『この一句』  「ちび怪獣」と聞いてすぐ、絵本の『かいじゅうたちのいるところ』(モーリス・センダック著、神宮輝夫訳)を思い出した。世界で約2千万部、日本でも約百万部売れたというベストセラーなので、目にしたことがある人は多いと思う。絵本の主人公、マックスは大のいたずらっ子。ある晩、狼の着ぐるみ姿で大暴れしたマックスは、お母さんに「この、かいじゅう!」と怒られて、夕食抜きで寝室に放り込まれる。そこから彼の冒険が始まる。怪獣たちの棲む島へ渡り、いろんな怪獣を手懐け王となって遊んだりしたものの、ホームシックになって……、というような内容だ。  そう、洋の東西を問わず、親にとって子供はみんなかわいい「怪獣」なのだ。この句の「ちび怪獣」は作者の孫かもしれないが、幼子に歯が生えてきたらしい。生え始めはむず痒いので「歯固め」を与えたりもする。歯茎からちょっと覗く歯と、土から顔を出したばかりの草の芽とを対比させ、なんとも微笑ましい。有名な「万緑の中や吾子の歯生えそむる」(中村草田男)にも通底する、生命力あふれる一句だ。 (双 22.02.07.)

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動くもの雪のほかなく暮れ落ちる 水口 弥生

動くもの雪のほかなく暮れ落ちる 水口 弥生 『合評会から』(日経俳句会) 迷哲 夕暮れの静かな景色が見えてきます。暮れ落ちる、が気に入りました。 水兎 豪雪地帯は昼間も暗く、暮れるのも早そうです。 而云 ガラス窓の向こうにある光景を詠んでいると見ました。静かな状況が端的に詠み込まれていて。感心しました。 明生 雪国の一日とはこんな感じなんでしょう。よく伝わってきます。 光迷 その場に身を置いていて詠んだような佳句だ。鑑賞していて身に沁みた。 三代 暮れ落ちるがおしゃれ。 オブラダ 降る雪と暮れゆく光景。言葉の対比が美しい。 定利 どんな町か。いろいろ想像できます。 木葉 降っているんじゃない。暮れ落ちているんです。           *       *       *  必ずしも雪国とは限らない。東京でもいい。しんしんと降る雪は四辺を別世界にしてしまう。建て込んだ住宅街の片隅の一戸なのに、まるで奥深き山里の一軒家のような感じになるのが、雪の魔術である。雪が音を吸い取り、光を遮ってしまうからであろう。すべてを眠らせてしまう雪。しきりに降る雪を見つめている作者がシルエットになって浮かんで来る。 (水 22.02.06.)

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