防人の旅立ち歌に建国祭     田村 豊生

防人の旅立ち歌に建国祭     田村 豊生 『この一句』  三四郎句会の投句にざっと目を通した際、「建国祭に防人(さきもり)?」と思ったが、すぐに次の句に目を移してしまった。そして候補の数句を選んだ後、改めて句を読み直すうちに、深い内容が詠み込まれていることに気づいた。作者は大陸からの引揚者であり、帰国後は小学校の教科書に自ら墨を塗った世代だ。戦前の紀元節と同日(二月十一日)に定められたこの日への思いは複雑なはずである。  作者は建国祭への思いを表すために「防人の歌」を持ってきた。例えば「わが妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えて世に忘られず」(万葉集)。遠国に徴用された夫が、水鏡に浮かぶ妻の面影への思いを詠んでいるのだが、その気持ちの深さはもちろん妻も劣らない。この夫婦は、再び抱き合うことはなかったかも知れない。  大陸の強大国・唐の襲来を恐れ、東国から北九州にまで徴兵された防人たち。彼らの旅は非常に長く、特に帰路では流離や死没の憂き目に遭う人が多かったという。戦前の紀元節に防人の旅立ち歌を重ねた掲句には、ずしりとした重みを感じるが、一点だけ添削させて頂く。「旅立ち歌に」の「に」を「や」とし、句の「切れ」をここに置きたいのだ。これによって生まれるような余韻こそ、俳句という短詩の本領だと私は思っている。(恂 22.02.28.)

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湾内に響く吹鳴春の雪      谷川 水馬

湾内に響く吹鳴春の雪      谷川 水馬 『この一句』  「吹鳴」という言葉を久し振りに聞いた気がした。手元の古い広辞苑を引くと、簡潔に「ふきならすこと」とある。してみれば、漁協のサイレンの音でもいいし、桟橋で吹く下手なトランペットでもいいし、岸壁まで逃走車を追い詰めたパトカーでも良い。けれども、これは船の汽笛に違いないと思った。ついでに言うと、この句を読んで、なぜか寺山修司の「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし」の歌を思い出した。「海」以外に共通性のない俳句と歌なのに、子供のビデオゲームじゃないけれど、どこかにある隠しボタンに触れると、ピンボールが跳ねるようにこの歌が連想されるのである。  この句には水牛氏から、わざわざ「吹鳴」なんて使わずに「湾内に響く汽笛や春の雪」とした方が情景が素直に伝わるのではないか、との指摘があった。そして、作者の初案はまさに指摘通りの句だったらしい。でもなぜか、作者は「吹鳴」を選び、筆者は「吹鳴」に惹かれてこの句を採った。水牛氏の指摘は、反論しようのないくらい正論なのに。  たぶん、「汽笛」ではなく、「吹鳴」だから、その人固有の隠しボタンに触れる何かがあるのだろう。いずれ、甘っちょろく、センチメンタルなものに違いないだろうが、言葉にはいつもそんなものがつきまとっている気がする。 (可 22.02.27.)

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胸薄き少女マネキン春を着る   中沢 豆乳

胸薄き少女マネキン春を着る   中沢 豆乳 『この一句』  「春を着る」の五音の響きに心を掴まれた。読んだ途端に明るい春の装いの少女マネキンが浮かび、心弾む思いが伝わる。ありそうだが、見たことのない斬新な表現だ。独身男性の作者が婦人服売り場に行くとは思えないので、街角のショーウインドーで目にした光景であろう。冬の間はコートなど厚い洋服を着ていたマネキンが、ある日薄い春物に着替えていた。隠れていた少女の胸が見えるようになり、鮮やかな色柄の春服が映えて、春の日差しまで感じられる。 ショーウインドーの飾り付けは、季節に先駆けて変わる。作者もまだ肌寒い頃に春満開のウインドーを見て、その驚きを句に詠み止めたのであろう。百貨店のショーウインドーや展示会場の飾り付けをする専門職をディスプレーデザイナーと呼ぶ。美術大学や専門学校を出た人が多く、人気の職種らしい。国家資格である「商品装飾展示技能士」試験もあるという。  一年ほど前に別の句会で「マネキンの胸の膨らむ春の服」(谷口命水)という句が出され、このコラムで取り上げたことがある。作者はどちらもデザイナーの“演出”にはまり、女性マネキンに目を惹き付けられている。まるで表裏のような二句だが、ともに街角のショーウインドーに春を見つけた感性が光る。 (迷 22.02.25.)

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命継ぐ草の芽歩道の亀裂より   野田 冷峰

命継ぐ草の芽歩道の亀裂より   野田 冷峰 『この一句』  草の芽の生命力に心打たれた作者の眼差しが浮かんでくる。ハコベ、ナズナ(ぺんぺん草)、イヌフグリ、スズメノカタビラ、オヒシバ、メヒシバ、オオバコ等々、春先の空地や道端には大雑把に“雑草”と片付けられる草の芽が続々と生えて来る。毎朝毎夕の散歩では伸び具合に気づかないが、雨に降り籠められたり、風邪気味で二三日外出を控えたりした後だと、これが同じ道かと思うばかりに緑が濃くなっている。  ことに目につくのが歩道の敷石の継ぎ目やアスファルトの割れ目に生えた草の芽だ。よくぞこんなところにまで芽生えたものよと思う。しかしこれは自然の摂理とも言うべきもので、草の芽はまずこういう所に芽生えるのだ。生い茂って花咲き、実った草は種を四方に飛ばす。種は雨風に吹かれ流され、自然に落ち着く所に落ち着く。大概は水分補給に最も有利な溝や岩の割れ目、都会ならば舗装の石の隙間やアスファルトの亀裂である。そこにわずかな土があればしっかり根を張り芽を生やす。太った根が時には道の亀裂を押し広げ、翌年には子孫を増やす。こうして野の草は命をつないで行く。  作者は一昨年来体調を崩し、最近は立ち居振る舞いが不自由になってしまったと、ご家族から連絡があった。ひと一倍行動力盛んで日本全国飛び回っていた作者にしてみれば、さぞかし無念なことに違いない。しかし、そのような状態であればこそ、こうした小さな芽生えに目をとめることができたのであろう。 (水 22.02.24.)

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眼鏡掛け眼鏡を探す朧月     久保田 操

眼鏡掛け眼鏡を探す朧月     久保田 操 『合評会から』(日経俳句会) 方円 私も同様の経験があります。一時間もかけて探したけれど見つからない。あした新しいのを買えばいいやと割り切って寝ようとベッドに倒れたら……。 明生 高齢者にはしょっちゅう出てくる話題なので迷いましたが、「朧月」をもってきたのが面白いと。 ヲブラダ まさに「あるある」ですね。「朧月」がオチになっています。 水馬 よくあるテーマと思いましたが、「朧月」を付けたのがなんだか可笑しくて。 愉里 掛けているはずなのに触って確かめるのが年中です。季語が心情に合っています。           *       *       *  後期高齢者ならずとも、この経験をしたことのない人はまずいまい。探す眼鏡が自分の頭にあったり、甚だしいのは現に掛けているのに「どこだ」と探し回ったりする。この句は後者で、定番とも言えそうな句ながら〝同病〟相哀れむ句友から支持を得た。年を取るとともに記憶力の減退はしかたがない。だが哀しい老年の現実を句にするにはなにか新奇性がなければ陳腐のままである。この句の肝は、選句者たちが口を揃えて言うように「朧月」に尽きる。月に暈がかかったような自分の目を嘲りながら、反面笑い飛ばす雰囲気をもたらし、この季語がそれを助けている。 (葉 22.02.23.)

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春きざす金平糖の甘さほど    中嶋 阿猿

春きざす金平糖の甘さほど    中嶋 阿猿 『この一句』  金平糖は不思議なお菓子だ。あの独特の形、突起がなぜできるのか、今だに定説がないという。老舗の金平糖専門店のサイトによると、金平糖のレシピはなく作り方は一子相伝の技という。カラフルで愛らしく、口に含むと自然の甘さが広がる。皇室を初め慶祝の引き出物としても使われることが多い。16世紀にポルトガルから伝わり、織田信長も食したといわれ、歴史の古い菓子だ。  そんな金平糖はときおり、俳句にも詠まれてきた。季節はいつでも合いそうだが、可憐で華やか、なんとなくワクワク感もあり、特に春が合いそうだ。掲句もしかり。金平糖に春の兆しを見た作者の感受性は素晴らしい。とはいえ、この句はなかなかに一筋縄ではいかない。金平糖そのものを詠まずに、「甘さほど」と尺度として表現している。省略された言葉を補うと、金平糖の甘さほど(淡くほんのりと)春が兆してききました、と読める。ともあれ句会では、人気を集め堂々の一席に輝いた。  先日、和菓子店で桃の造花をあしらったピンクの金平糖を見つけた。この句の影響もあり、早速買ってきた。そういえば桃の節句が近い。 (双 22.02.22.)

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汁物にとろみをつけて春の雪   星川 水兎

汁物にとろみをつけて春の雪   星川 水兎 『この一句』  「こんな寒い晩は餡掛豆腐がいいね」なんて言ってるのかも知れない。春雪の晩ごはん時が浮かんで来る。ほのぼのとした温かい気分になる句である。  日本料理の汁、中華料理の湯(たん)、西洋料理のスープ。いずれにも澄んださらりとしたものと、とろみを付けたものとがある。どちらも四季を問わずに供されるのだが、寒い冬場はとろみのついたものが好まれる。日本料理の懐石膳は冬場でも汁はお清ましで、煮物にとろみを付けたものが登場することが多いが、それも「冬場のとろみ汁」の一種と言っていい。  冬のとろみ料理と言えば真っ先に上がるのが加賀の「治部煮」であろう。鴨肉に小麦粉をまぶして椎茸や筍、加賀名物の簾麩などとの炊き合わせである。とろんとした甘辛だれがまとわりついた鴨肉を噛むと、じゅわっと湧き出す旨味がなんとも言えない。簾で巻いた痕がぎざぎざついている簾麩の噛みごたえがまたとてもいい。北陸の冬は一度行っただけでもうたくさんという感じだが、食べ物だけは何度でも結構である。  水牛の好きな餡掛け豆腐。これには絹ごし豆腐が似合う。さっと湯通しした豆腐に葛餡を掛けるごく単純な料理だから、良い豆腐でなければ話にならないが、餡の素になる出汁で勝負が決まる。いい昆布を三時間ほど浸し、それを沸騰寸前まで沸かして昆布を引き上げ、削り節を入れて沸騰させ、すぐに火を止める。漉した出汁に酒、みりん、醤油を入れ、水溶き片栗粉を入れてとろみをつけて出来上がり。これには冬場で…

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灯のともる砂町銀座春の雪    廣田 可升

灯のともる砂町銀座春の雪    廣田 可升 『この一句』  滝田ゆうという漫画家がいた。二十年前ほどに亡くなったようだ。昭和の世相や暮らしを独特の朦朧としたタッチで描いて好きな作者だった。昭和三、四十年代から五十年代までが全盛期だと記憶しているが、着物に坊主頭丸眼鏡のいで立ちを思い出されて懐かしい。庶民の生活とはこういうものだ、そう言いたいような漫画を読むたびほのぼのとした。また下町・下谷の生まれらしく、怪しげな美女が裏路地から手招きするような漫画も得意中の得意。  この句の舞台、砂町銀座は下町銀座の代表格だ。砂町はもともと江戸時代の開発者・砂村新左衛門一族の名にちなむ。昔から陸の孤島のような不便な土地で今もアクセスはよくない。そこに下町人が愛してやまない小店が二百近く軒を並べていつも繁盛している。夕飯の総菜ならおまかせ、ことにおでんや焼き鳥が好評で近隣からの主婦らであふれかえる。  夕方ともなればポツリポツリと灯がともり、情緒満点の昭和が出現する。「春の雪」をもって来て、ずるいくらいのいい景色である。筆者が滝田ゆう漫画を思い浮かべたのは、とうぜんの成り行きだ。この句は「砂町銀座」でなくてはいけない。都内第一号の銀座と名の付く商店街とはいえ「戸越銀座」では興趣が失われるに違いない。 (葉 22.02.20.) 

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梅の香をマスクずらしてそっと嗅ぐ 山口斗詩子

梅の香をマスクずらしてそっと嗅ぐ 山口斗詩子 『合評会から』(番町喜楽会) 二堂 この句は科学的に言うとおかしい(笑)。マスクなんかスース―だから、外さなくても梅の香はちゃんと嗅げる。でも、マスクを外したらもっといい香りが嗅げるだろう、ということで句になったのでしょう。 愉里 最近はずっとマスクをしているので、思わずマスクを外したくなる時があります。そんな瞬間を詠んだ句でしょうか。 水馬 皆さんとは逆で、梅の香はあまり強い香りではないので、マスクを外さないと嗅げないように思える。この人は、まわりに人がいないのを見計らってマスクを外したのでしょう。           *       *       *  「梅が香」は万葉時代から歌材にされてきた。身の引き締まる寒気を縫ってほのかに漂って来る梅の香りは、凍てつく心をほぐしてくれるようだ。「探梅」という冬の季語がある。早咲きの梅をたずね寒中に厚着して梅見することを云うのだが、これも梅に香気があればこそである。「夜の梅」という歌語もある。暗闇で見えない梅の花を「香り」で探すという粋な振舞いである。浮世絵師鈴木春信の代表作にもなっている。闇夜の渡り廊下を歩いている振袖の乙女が良い香りに振り返り、手燭をかざすと白梅が浮き上がったという図である。  二堂さんの言うように、梅が香はマスク越しにも気づくかもしれないが、やはりマスクをはずしたくなるのが人情というものだろう。 (水 22.02.18.)

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円墳の形のままに草芽ぐむ    中村 迷哲

円墳の形のままに草芽ぐむ    中村 迷哲 『合評会から』(番町喜楽会) 喩里 冬の間はあまりはっきりしない円墳が、草が芽吹いて緑が濃くなり、くっきりと現れてくる光景を思い浮かべました。 水牛 若緑のまあるい小山が見えます。実にのどかでおおらかな感じの句です。           *       *       *  私事ながら、筆者は堺市の大山古墳(仁徳天皇陵古墳)のすぐ側で生まれ、古墳と言えば巨大な前方後円墳が当たり前であった。ところが、その全容は映像でしか見たことがなく、ただ濠と森や遥拝所が見えるだけで、視覚的にはまったく味気ないものであった。  その点、ここに詠まれた円墳は全国でもっとも多く作られ、小ぶりであるために全容が手に取るように見え、よく手入れされた古墳は実に姿かたちが優美で、なかには古墳に登れるようになっているところもある。実にフレンドリーな古墳である。  この句は、なんと言っても「形のままに草芽ぐむ」の表現が秀逸である。この表現によって、動かないはずの円墳が若緑の塊となって浮かび上がってくるような錯覚すら覚える。余計な説明などしないからこそ、柄の大きな秀句が誕生したように思う。 (可 22.02.17.)

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