息災の二文字の重さ年暮るる   中村 迷哲

息災の二文字の重さ年暮るる   中村 迷哲 『合評会から』(日経俳句会) 方円 コロナとか色々あったけど、何とか今年も乗り切った。よかったなという、今年を代表しているという意味で。 可升 高齢化とかコロナ禍の中でよくぞ息災であった。「二文字の重さ」がひじょうに上手いなと思った。 三代 自分も年を取ったなと思っていて。「年暮るる」の季語が実感だなあと。 正市 「年暮るる」はこんな感じで、息災のイメージと一致する。           *       *       *  今年最後の句会で最高点を取った一句だ。二年にわたり翻弄され続けているコロナ禍生活の今年も「数え日」近し。ところで「息災」の二文字をどこで見たのだろうか。最初、受け取った手紙の中かなとも思ったが、作者の句意を聞くとそうではないようだ。作者によれば、「女房と二人で一年間コロナやワクチンの話をしていた。健康で生き延びたということです」と言う。ともあれ今年が暮れるにあたって誠にふさわしい俳句と思える。息災という古めかしい言葉が生きている。ためしに「息災」を「健康」と、より易しい言葉に置き換えたとしたら句の優劣は歴然とする。やはりここは息災を使うしかない。年の終わりにはその年らしい秀句が飛びだすと常々思っているが、今年の句会もその通りだった。(葉 21.12.31.)

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冬の日の動物園は尻ばかり    廣田 可升

冬の日の動物園は尻ばかり    廣田 可升 『合評会から』(日経俳句会) 方円 ユーモラスで面白い。 鷹洋 動物たちは日向ぼこで忙しい。がっかりした子ども連れの姿が見えます。 静舟 冬の日だまりの動物たち。観客の向きは尻を見る位置に。ユーモラスな句。 阿猿 動物たちは巣穴にこもりたくなる寒さ。頭隠して尻隠さずが笑える。 道子 確かにあるある風景でほっこりします。           *         *         *  「お尻」というのは何とも滑稽な存在だ。ましてや動物の尻ならなおのこと。「肩」とか「脛」ではこの味は出ない。この句を採った人は誰もが「ユーモラス」を口にした。  作者は、お孫さんを連れて動物園に行ったものの、ゴリラも象もみな淡い冬の日差しの方を向き、観客席からはお尻しか見えなかったという。鷹洋さんの言うように「がっかりした子供連れ」が目に浮かぶ。  今、上野動物園では事前予約制をとっているので、気軽にふらっとは入れない。何日も前から予約をとって、やっと入った動物園。なのに、見られたのは尻ばかり。孫を喜ばせようとのお爺ちゃんの目論見は、残念ながら外れたようだ。 (双 21.12.30.)

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暖色の白もあるのだ蕪煮る    中嶋 阿猿

暖色の白もあるのだ蕪煮る    中嶋 阿猿 『この一句』  蕪や大根には赤蕪や紅心大根もあるが、まずは白い姿を思い浮かべる。白、青を寒色と呼ぶのは小学生にも常識。雪や海の冷たさを連想する色だから寒い色なのだ。作者はこれに敢然と異を唱え、いやいや白だって暖かい白もあるんだよと言っているのがこの句である。漬物になった大根、蕪はさておき、おでんの大根は醤油出汁が浸み込んで真っ白じゃなくなっている。その点、蕪の煮たのにはまだ白さが残っていると思える。水煮したものにそぼろを掛ける前の蕪などは確かに白いままだ。  冬の夕食に蕪のそぼろあんかけなど食卓に上れば、晩酌の夫は嬉しさとともに暖かさを感じるにちがいない。作者は料理が好きで台所仕事が楽しいのだとも思わせる。「暖色の白もあるのだ」と決めつけた上五中七が面白い。赤塚不二夫漫画「天才バカボン」のパパの決めゼリフ「これでいいのだ!」を連想させ痛快さを感じる。「暖色の白」には合評会で「確かに蕪の白にはぬくもりを感じます」といった声や、「いかにも暖かい感じがする」といった選評があった。  話し言葉を使った句が、私たちの句会でどうも最近流行りのようである。軽快で印象が柔らかくなり、それなりの効果を生むのは否定できない。そうではあっても口語のみの俳句や話し言葉ばかりの俳句が全盛になると、古い頭の筆者などは困るなと思う今日この頃である。 (葉 21.12.29.)

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日記買ふ良い事ばかり書きたくて 嵐田 双歩

日記買ふ良い事ばかり書きたくて 嵐田 双歩 『この一句』  季語は「日記買ふ」。ただの「日記」ではなく、「日記買ふ」の成語で季語となっている。年末近くになると、文具店や書店の店先に日記・手帳・カレンダーなどが山積みされ、それらを買うことが、新年を迎える用意の一つに数えられるからであろう。  それなら「手帳買ふ」も歳時記にあっても良さそうなものだが、今のところ「手帳買ふ」はほとんど採用されていない。手帳がただの小型の帳面だった頃のことで、ダイアリー手帳が主流の今なら、「手帳買ふ」も問題なく季語として通用するのではないだろうか。もっとも、筆者などはスマホとタブレットに頼りっきりで、日記も手帳も使わなくなり、まったく情緒も季節感もない生活に堕してしまっている。  去年も今年も新型コロナに振り回された一年だった。この句は、来年こそコロナが退散して、どこへでも出かけられて、誰とでも気楽に会える、そんな平穏な年であって欲しい、という願いを込めた句ではないかと勝手に解釈した。「良い事ばかり書きたくて」という、口語でやや散文に近い、心情を素直につぶやいただけのような表現が、読み手の共感を引き出すのにとても効果的に使われている。本当にそんな年になって欲しいものだとつくづく思う。 (可 21.12.28.)

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気嵐や立山遠く朝焼ける     岩田 三代

気嵐や立山遠く朝焼ける     岩田 三代 『季のことば』  異常気象や温暖化で全国区になる気象用語がある。「気嵐(けあらし)」などは北海道や東北の気象現象だと思っていたら、ずいぶんと南下して近畿地方にまで見られるようになった。気嵐とは正式には蒸気霧と呼ぶ冬場の気象用語。冷え込みの激しい朝、海面や川面に昇る霧が湯気のように見える現象で、発生には条件がある。夜の気温が放射冷却によって冷やされ、翌朝の天気が快晴ならそうなるとネットの説明にある。北海道育ちの筆者などには見慣れた自然現象だが、それが京都府や兵庫県の日本海側にも起こっている様相をニュース映像で見ると、ここでも日本の気象におかしな変化が起こっていると思わざるを得ない。  気嵐。角川の古い歳時記には載っていない新季語である。季語も世につれ変わりゆくものだから、採用する歳時記もおいおい増えて来るのだろう。筆者はこの気嵐の光景こそ見なかったが、富山の雨晴らし海岸から立山連峰を見たことを思い浮かべた。海の向こうに三千メートル級の山がそびえる光景は世界でも珍しいという。気嵐が立って海を隔てた立山が霞んで見えるのか、いや見えない。作者は気嵐の何十キロ先にはたぶん立山があるはずと心の目で見ているのだと解釈した。「立山遠く」の措辞が見たいけれど見えないもどかしさを表しているようだ。朝焼けのなか、筆者の大自然を讃える表現がいい。ゴルフ旅行をした際に見た実景から出来た句だと言うが、よいお土産をもらったものだ。 (葉 21.12.27.)

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焼芋や女系家族のケセラセラ   向井 ゆり

焼芋や女系家族のケセラセラ   向井 ゆり 『この一句』  「焼芋」と「女系家族」と「ケセラセラ」が、まるで三題噺のように並ぶ。  まず「焼芋」。大阪人は女性の好物を「芋たこなんきん」などと呼ぶ。「芋栗なんきん」というバージョンもある。田辺聖子さんの本のタイトルは「芋たこ長電話」である。いずれの場合も「芋」は外せない。  次に「女系家族」。山崎豊子さんの小説かテレビドラマでしかお目にかからない言葉だが、女性の好物とされる「焼芋」とこの古典的な言葉を並べると何とも言えぬ可笑しさが滲み出す。  そして極め付きは「ケセラセラ」。ヒッチコック監督の「知りすぎていた男」で、主演のドリス・デイが歌った挿入歌のタイトルである。こんな言葉を下五に見つけてきた作者の発想の豊かさに感心してしまう。「ケセラセラ」は歌詞の中で「なるようになるわ」と訳されている。「これを食べたらカロリーオーバーかしら?」「いいわよ、なるようになるわよ」そんな声が聞こえてきそうだ。  いずれにせよ、母、娘、孫娘そろって、おしゃべりしながら湯気の立つ焼芋を頬張る姿が目に浮かぶ。愉快で美味そうな句である。 (可 21.12.26.)

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仁丹が香る亡父の冬背広     中沢 豆乳

仁丹が香る亡父の冬背広     中沢 豆乳 『合評会から』(日経俳句会) 青水 仁丹への郷愁が決め手になっています。下五に背広という古めかしい、懐かしい言葉を持ってきて、今は亡き父を想う。道具をそろえた良い俳句です。 雅史 父の四十九日を終えたばかりだったので、鋭く刺さりました。 水馬 私の父もタバコと仁丹が匂っていました。昭和の親父のイメージです。 方円 昔はポケットに仁丹を忍ばせていました。 明古 仁丹が「ある時代」を呼び起こします。 定利 仁丹で採りました。           *       *       *  私の亡父も仁丹が好きだったし、私自身も常に仁丹をポケットに入れていた。満員電車に乗ると、どこからともなく仁丹の匂いが漂ってきて、人いきれの中の清涼剤になった。合評会でこもごも語られているのは、いずれもそうしたノスタルジーである。仁丹は「昭和の匂い」なのだということを、この句で改めて感じた。  作者は「ハイライトと仁丹の匂う父でした。思い出にある父の残り香を想起して、それを句にしました」と言う。自分ももう老境に一歩踏み込んだ。身辺整理とやらにもかからねばならぬ。捨てなければならない亡父の古背広なのだが・・との感慨がしみじみ漂う。 (水 21.12.24.)

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暗闇にマスクが並ぶロードショー 深田森太郎

暗闇にマスクが並ぶロードショー 深田森太郎 『合評会から』(日経俳句会) 芳之 この通りなんでしょう、ずっと映画館には行っていませんが。 双歩 「ロードショー」なんて今は言いませんが、古めかしさの中に今日の状況を詠ってます。 明古 映画館の暗闇に白いマスクが浮かび上がる。 静舟 気が付くと暗闇にみなマスク。これがコロナ下の新常態なのかとあらためて思う。            *       *       *  ロードショーとは、映画の全盛期には洋画を東京、大阪など都市部で先行上映することを指した。その後、大作映画を全国の特定館で先行上映する「全国ローショー」形式が普及し、今は映画の初公開(封切り)の意味で使われることが多いという。  掲句の作者は往年の映画ファンであろう。話題の新作映画を見ようと久しぶりに映画館に出かけた。ふと館内を見渡すと観客は皆マスクを付け、暗闇に白いマスクが浮き上がって並んでいる。ロードショーの下五まで読み終えると、なにやらホラー映画の場面のような雰囲気が漂う。新型コロナに怯え、息をひそめて暮らすこの二年は、映画であれば救われるが、進行中の現実である。 作者は日経俳句会の古くからのメンバーだが、この二年半ほど投句がなく、体調を崩されたのではないかと心配していた。コロナ社会の断面を鋭く切り取った句の切れ味に、「まだまだ元気だよ」と確かな便りを頂いた気分である。 (迷 21.12.23.)

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帰らざる人あり日あり年惜しむ  斉山 満智

帰らざる人あり日あり年惜しむ  斉山 満智 『合評会から』(番長喜楽会) てる夫 「年惜しむ」という季語に対して、「人あり日あり」というのは洒落た表現だなと思っていただきました。 青水 「人あり日あり」と「あり」を重ねた言い回しが、リズムもよくとても上手いなと思いました。 命水 今頃になると賀状を遠慮するという連絡が多くなり、あゝあの人もかと思う事が多いので、そういう気持ちを詠んだ句としていただきました。           *         *         *  俳句は自分史、とまで言い切る俳人もいる。俳句にはそういう側面が確かにある。連れ合いを失ったり、病と闘う自身であったり、先人はそれら諸々を短詩に昇華させてきた。小林一茶が50歳を過ぎて、やっと授かった子に次々と死なれ詠んだという「露の世は露の世ながらさりながら」という句は、胸を打つ。  作者はこれまでも自分の身の回りに起こった様々な辛い出来事を俳句に託してきた。同じ句会では、掲句の他に「近き人次々逝きし年惜しむ」とも詠んだ。詳しくは語らない作者だが、「帰らざる人あり日あり」という十二文字は、深くて重い。 (双 21.12.22.)

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冬の夜下駄の片方消えた謎    高井 百子

冬の夜下駄の片方消えた謎    高井 百子 『この一句』  朝、起きて庭へ下りようと思って縁側の先を見ると、なんと下駄の片っ方が消え失せていた――夏の夜ならば河童、冬の夜ならば雪女の仕業といいたいところだが、もとよりそんなことがあるはずはない。その下駄が男物か女物かによって、犯人と怨嗟の在り方が…という、ミステリーを展開するのも一興ではあるのだが。  現実には、犯人(?)は狐か狸かアライグマか、というのが常識的なところか。近年ではハクビシンという線も捨てがたい。ちなみに作者の住んでいる所は長野県。とはいっても山の奥ではなく、上田市。庭の先を別所温泉行の電車が走り、線路の向こうには田圃が広がり、果樹園があり、独鈷山が望める「信州の鎌倉」の一画なのだ。  よく「俳句の基本は写生」だという。この一句も、まず「下駄の片方が消えた」事実を写生している。その景色を末尾の「謎」という一語で心情の世界へと転じることで、句は一段と奥の深いものになった。眼前のモノをきっちり描写する作品もいいが、読み手を空想の世界に遊ばせる、ちょっとした物語性のある作品がもっと増えてほしいと思う。 (光 21.12.21.)

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