霜降と聞いて一枚羽織る夜   大澤 水牛

霜降と聞いて一枚羽織る夜   大澤 水牛 『合評会から』(番町喜楽会) 青水 聞きなれない「霜降(そうこう)」という季語に合った状況を素直に一句にまとめている。霜が降るから寒くなる、だから一枚羽織ろうという感じですかね。 春陽子 「霜降」という季語から元禄時代の江戸情緒や時代性を感じました。辞書も引いて勉強させていただきました。 光迷 歳時記の最後の方に二十四節気が載っていますが、あまり読む人はいないでしょう。ましてやいま「霜降」などという季語を使う人も。そういう古い季語を引っ張り出し、日常の何気ない行動につなげたのがすごいですね。 水牛(作者) 二十四節気の季語を順々に詠んでいるのですが、これまで「霜降」の句が出来なくて、やっと初めて詠んだ句です。羽織ったのはカーディガンです。          *       *       *  現代人にとって霜は関心を払うものではなくなった。「霜降」という言葉すら知らない人が多いと思われる。二十四節気には「小雪」もある。もとより女優でもなければ「こゆき」でもない。「しょうせつ」なのだが、これもというより二十四節気そのものが現代の生活から実感の乏しいものになってしまい、もはや遺物に近いのかもしれない。 (光 21.11.08.)

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無人駅秋灯の元文庫棚      渡邉  信

無人駅秋灯の元文庫棚      渡邉  信 『この一句』  この無人駅を利用していた誰かが、ある時、駅構内に書棚を作り、「みなさんご自由に」というような張り紙を添えて置いたのだろう。書棚を利用する人はそれなりの数になったはずだが、やがて借りる人が減り、本も少なくなって行く。ここに至るには、書棚を作った人にも、書棚を認めた鉄道会社にも、それぞれの事情があったに違いない。  今は秋の灯が照らすばかりの元文庫棚。何とも寂しい風景であり、句を選ぶ側はそれぞれの思いを抱いたに違いない。過疎の地に生まれたミニミニ文化が、書物なしの書棚となる。ここに至ったのは過疎が進んだためで、誰の責任でもない。作者も、元文庫のこの現状を悲観したり、問題意識を抱いたりしているわけでもなさそうである。  句会で「視点はユニークだが、リズムが気になる」という指摘があった。「元文庫棚」の「元」が句またがりなので、そのように感じられるのだろうか。ならば、と作り直しを考えてみたが、十七音中に言葉がぎっしり詰まっていて、添削を阻む構えも感じられる。何度か読み直すうちに、元文庫棚の寂しさがさらに浮かび上がってきた。 (恂 21.11.07.)

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秋灯をホームに残し終電車    石黒 賢一

秋灯をホームに残し終電車    石黒 賢一 『この一句』  「映画のシーンのような映像感がある」というコメントがこの句にあった。その通りだ、と頷きつつ考えた。しかし、句の作者の立ち位置はどこに在るのだろうか。ホームに立ち、去って行く終電車を見送っているのか。それとも電車の最後尾に居て、次第に遠ざかっていくホームの秋灯を眺めているのだろうか。  私は句を見た時、何ら疑うことはなく、電車の最後尾に居る自分を思い浮かべた。客室と車掌室の二枚のガラスを通して、ホームの全景が見えている。電車はゆっくりとホームを離れていく。ホームの後方に立つ電柱の灯りがだんだん小さくなる。いま私は、あの灯りをホームに残し、この田舎町を離れて行くのだ――。そんな風に解釈した。  私と違う解釈もあった。「終電車の出た後のホームの余韻がうまく切り取られていると思います」(久敬)。このコメントはホームに居るからこそのもので、言われてみれば「なるほど、これもある」と思う。作者は駅のホームのベンチに座って遠ざかって行く終電車を見送り、ホームに残された秋灯を見つめていることになる。   解釈に二通りがあり、どちらが正しいとも言えない。俳句にはこんなケースもあるのだ、と改めて思った。 (恂 21.11.05.)

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藤袴蝶来ぬままに暮の秋     堤 てる夫

藤袴蝶来ぬままに暮の秋     堤 てる夫 『季のことば』  藤袴(フジバカマ)はキク科の多年草で、大昔から日本人が好んだ秋の草花。『萬葉集』で山上憶良が詠んで以来、和歌、俳諧、俳句の素材になった。憶良の歌は、「秋の野に咲きたる花を指折り(およびおり)かき数ふれば七種の花」「萩の花尾花葛花なでしこの花おみなえしまた藤袴朝顔の花」である。「秋の野原に咲く花をざっと数えてみれば七つありますよ。まず萩の花でしょ、ススキの花も面白い、葛の花、撫子の花、女郎花ときて藤袴、桔梗もいいですね」と、誰にも分かりやすく詠んでいる。初めの歌は現在の短歌と同じ5・7・5・7・7だが、後の歌は5・7・7・5・7・7という、今日では詠まれなくなった旋頭歌(せどうか)という形式。形式の違う二首を並べたところが憶良のアイデアで、以後千数百年二首一組で愛唱され続け、「秋の七草」がすっかり根づいた。  さてその一つ「藤袴」。昔は野山の至る所に咲いていたのに、今では絶滅危惧種になってしまっている。赤紫を呈した白っぽい小花が密集して咲き、全体に芳香がある。この茎や葉を乾かすと桜餅のような良い香りを放つ。古人はこれを「蘭草」と言って珍重し、匂袋にしたりした。  この香りを好む、数千キロの旅をするアサギマダラという蝶がいる。この蝶を愛する作者は、これの飛来を心待ちにして庭に藤袴を植えた。しかし、何としたことか、今年は藤袴が盛んに咲き出したのにアサギマダラは来ない。どうしたのだろう、と思っているうちに秋も終わりになってしまっ…

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鮭来る今日は半どん村役場    谷川 水馬

鮭来る今日は半どん村役場    谷川 水馬 『この一句』  句を見た時に「ホントかな」と思いつつも、笑いを誘う内容と語調の良さに惹かれて点を入れた。句会でも、作った句ではないかなど半信半疑の声が出た。すると釣り好きで全国各地を巡った三薬さんが「新潟の村上なんか半どんにする村役場は本当にありますよ」と明快に肯定。お墨付きを得て句の評価がぐんと高まった。  水牛さんの解説によれば「村上など鮭の遡上する地域では、川のそばに鮭小屋が建てられ鮭番が見張っていた」という。歳時記を見ると鮭小屋も鮭番も季語として載っている。今は日本に帰って来る鮭の大半は洋上の定置網で獲られているが、昔は川に遡上してくる群を網に追い込んだり、こん棒で殴って捕獲した。何しろ大群なので住民総出で取り組むことになる。「鮭が来たぞ」との知らせに、役場も商店街も仕事を放り出して駆け付ける光景が目に浮かぶ。  小学校の頃の思い出だが、農家の子供は田植と稲刈の時期になると「農繁休暇」といって学校を休んで手伝っていた。静岡では茶摘み休暇があったという。全国には様々な産物があり、家族労働頼りの時代にはいろんな休暇があったに違いない。村上の役場は何休暇と呼んでいたのだろう。 (迷 21.11.03.)

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吊るされて土間睨みをる鮭の群  岩田 三代

吊るされて土間睨みをる鮭の群  岩田 三代 『この一句』  鮭の町として知られる新潟県村上市。市街を流れる三面川に遡上する鮭は、市民の食文化に欠かせない存在だ。鮭は土地の言葉で「イヨボヤ」といい、「魚の中の魚」という意味とか。それほど大事にされている鮭だが、江戸時代後期には乱獲もあって収穫量が激減した。そんな折、鮭の母川回帰に着目した青砥武平治という武士が、三面川に人工の分流を作り、鮭が産卵しやすい環境を整備した。世界初の鮭の自然孵化増殖とされ、ほかの地域にも広まったという。  村上名物の塩引鮭は、粗塩をまぶした鮭を寒風に晒し、じっくり発酵、熟成させた独特の逸品だ。鮭の加工品を製造販売する老舗には、店の奥に何百本もの塩引鮭が頭を下にして吊り下げられている。その姿は、一度見たら忘れられないほど印象的だ。その光景を詠んだものと思われる掲句を選んだのは、村上に行き鮭の寒晒しを見たことがある人ばかり。「鮭を家中に吊るして寒風にさらす。その景色を思い出しました」、「その時は雪がいっぱいで、家に鮭が群れていました」、「家々の軒先に吊るされている鮭を思い出しました」などと、口々に印象を語った。作者自らの経験を巧みに五七五に載せたこの一句は、読者の記憶や体験をたちどころに呼び覚ましたようだ。 (双 21.11.02.)

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恋の句を詠むことも無く冬隣  藤野 十三妹

恋の句を詠むことも無く冬隣  藤野 十三妹 『合評会から』(日経俳句会) 百子 なんともさびしいことよ。どんどん詠んでください。どんどん恋をしてください。 定利 来年がありますよ。頑張ってください。 阿猿 恋の季節は終わったという諦観か、もう恋なんかしない宣言か。どちらにしても「冬隣」の季語がしっくりくる。           *       *       *  一見、寂しそうな句に見えるが、実はそうではない。こう詠んで、自分自身をからかう余裕のうかがえる句である。  風の便りでは近頃体調がもう一つで、あまり出歩くことをしなくなったということだが、この作者の精神力の強靭なることは衆目の一致するところである。独特の語り口によって相手を手繰り寄せてしまう話術。若き頃コピーライターとして鳴らした、時に突拍子もない言葉遣いによって読者を引き込む文章術。それらは今以って衰えを見せていない。  この句にしても、“半分ホント”といったところなのではないか。確かにまともに恋歌を詠むことは無くなったかも知れないが、心のうちには烈々たる火を燃やし続けているのだ。いつまでも心の元気なおバアチャンの面目躍如たる句である。 (水 21.11.01.)

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