無駄に慣れ秋の長雨家籠り    大平 睦子

無駄に慣れ秋の長雨家籠り    大平 睦子 『この一句』  メール句会の選句表でこの句を見た時、気にかかって印を付けたのだが、何回読み返しても、「無駄に慣れ」の意味合いが掴めず、やり過ごしてしまった。  これは秋黴雨に閉じ込められた情景だが、令和3年秋だから、もちろんコロナ禍による家籠りと重なっている。コロナ籠りはもう去年の春からずっと続いている。いい加減うんざりしているところに秋の長雨だ。くさくさした気分が積りにつもっている。この句はその鬱陶しさを十二分に伝えている。  そこまではいいのだが、やはり「無駄に慣れ」に頭をひねってしまう。これと家籠りとがどうつながるのか。無駄にお金を使わないで済む家籠りは、無駄を省くことになりこそすれ、「無駄に慣れ」ることにはならないのではないか。そんな理屈をこねくり回していたものだから、この句が分からず仕舞いになった。  はたと気がついた。素直にそのまま受け取ればいいのだ。籠居のために余計なものまで買い込んで腐らせてしまったりするのが「目に見える無駄」だが、籠居にはそれよりもずっと多くの、目に見えない「無駄」がある。何よりも「毎日何もしないで寝て起きるだけの暮らし」が最大の無駄ではないだろうか。  作者はそこに思い至ったのではないかと推察した。だが、何もしないことに慣れてしまうと、それはそれで結構のんきである。“公認の狡休み”だ。しかし、と又考える。やっぱりこれはおかしいなあと。  私の解釈はとんでもない見当はずれかも知れない。晴れて対面句会…

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