銀座の名残す駅裏秋暑し   杉山 三薬

銀座の名残す駅裏秋暑し   杉山 三薬 『この一句』  「○○銀座」という商店街は北海道から九州まで全国に三百以上あるという。日本一の商店街である銀座にあやかろうと名乗ったものだが、あやかり組の最初は東京都品川区の戸越銀座だという。ネットの情報で出典もはっきりしないから正確かどうかわからないが、関東大震災(大正十二年・1923年9月1日)で壊滅した銀座通りの焼け跡整理で出たレンガを引き取って、雨が降ればドブ泥になる道に敷き詰め、戸越銀座商店街の誕生となった。その後、東急池上線も通り、地下鉄もできて大発展、今では全長1.3kmの堂々たる“銀座通り”になって結構な賑わいを見せている。  しかし、こういうのは近頃珍しい方で、各地の銀座通りはさびれるばかりである。高度成長時代が過ぎ、平成令和時代になると、郊外型の大規模商業施設に客を奪われ、さらに近年は通販全盛となって、零細小売商店が立ち行かなくなっているのだ。アーケードの屋根はあちこち穴があいて雨漏りし、軒灯は消えたまま、シャッターを閉めっぱなしの店が出来て歯抜けのようになった情けない「銀座」も多い。  この句はそうしたうらぶれた銀座を詠んでいる。昭和時代には活気のある町だったのに、あれよという間にこんな具合になってしまった。○○銀座の看板文字もペンキが剥げてしまっている。そこに西日が容赦なく当たってまことに暑苦しい。しかし、こうしたうらぶれた「銀座」には捨て難い味がある。 (水 21.09.19.)

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町を裂く稲妻見たり羽田便    須藤 光迷

町を裂く稲妻見たり羽田便    須藤 光迷 『合評会から』(番町喜楽会) 百子 飛行機が飛び立った時だと思います。やっと飛び立ったら眼下に稲妻、作者の心細さや怖さが思いやられます。 春陽子 こんなふうに上空から稲妻を見た句を読んだ覚えがありません。作者の視点のユニークさに一票投じます。 命水 雷が落ちる様子は、かつて操縦士だった時に何度か見たことがあります。自分の機体内部に光が走ったこともあります。自然の力におののく一瞬です。        *       *       *  みなさんの句評を聞いていて、なぜこんな佳句を採らなかったのだろうと思った。おそらく「町を裂く」が少し大仰な表現だと思い、嫌ったのではないかと思う。  作者によれば、これは浜松上空を通過している時に見た光景で、自ら「怖いものですよ、下に稲妻が走るのは」と吐露されている。自衛隊機を操縦されていた命水さんの経験談にも迫力がある。「自然におののく一瞬」であれば、「町が裂ける」がごとく稲妻が走ったと見えるのは、少しも大仰ではないと思える。ようするに、自らの想像力の欠如からこの句を見逃したのだと思う。残念なことをした、と恥じている。 (可 21.09.17.)

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油壷帆に遊びをり赤トンボ   池村 実千代

油壷帆に遊びをり赤トンボ   池村 実千代 『おかめはちもく』  油壷は東京近辺では知られた地名だが、全国的に有名というわけではない。無論、その情景や雰囲気を知る人はそれほど多くないだろう。俳句に固有名詞を詠み込む場合、この知名度ということが問題になる。聞いただけで誰もがその辺りの景色を思い浮かべる地名だと、季語以上の働きをする。しかし、そうした名所は既にたくさん詠まれているから、安易に用いると古臭い陳腐な句になってしまう。と言って、誰も知らない地名では読者が何の感慨も抱かず、役立たずの言葉になってしまう。さてこの「油壺」はどうであろう。微妙なところである。  神奈川県の三浦半島突端の三崎にある油壷は、その名の通り湾口がすぼまり湾内はまるで油壺のように年中波一つ立たない海だ。両岸切り立った崖で鬱蒼たる森。実に静か。岬の上は戦国時代に栄えた豪族三浦氏の新井城があった。油壺湾と新井城の岬を隔てたもう少し大きな湾は小網代湾。両方とも絶好の船着場で、素晴らしいヨットハーバーが三つ四つある。作者はそこに自家のヨットを係留していて、しばしば通う場所のようだ。それですっと「油壺」と詠んだに違いない。慣れ親しんだものだと、ついこうした用い方をしてしまう。  油壷のヨットハーバーには赤蜻蛉が手でつかめるほど舞い、帆や綱に止まる。秋晴の湾内のヨットハーバーののんびりした感じが「帆に遊びをり」によく現れている。というわけで、この句は語順を入れ替えただけでがらりと変わるのではないか。「赤蜻蛉帆に遊びをり油…

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薄紅を武骨に齧る新生姜     今泉 而云

薄紅を武骨に齧る新生姜     今泉 而云 『季のことば』  実りの秋は様々な作物が収穫され、初物が食卓にのぼる。新米をはじめ、新大豆、新胡麻、新蕎麦、新酒など「新」のつく秋の季語は多い。新生姜もそのひとつ。生姜は春に植え付けて、夏から秋に収穫する。出回りの頃の新生姜は繊維が柔らかく、辛さも控えめで、いろんな料理で食卓に登場する。秋到来を告げる味覚の一つである。  年を越したひね生姜は濃い黄色だが、新生姜は白っぽく、付け根に赤みがあり、緑の葉とのコントラストが鮮やかである。掲句はその新生姜を「薄紅」と表現する。嫋やかな女性が白い肌を染めているかの如き新生姜を、武骨な(男が)齧っているのである。薄紅と武骨の言葉の組合せが、嫋やかさと荒々しさのイメージの対比を生み、句の面白みとなっている。  新生姜のレシピを検索すると、甘酢漬けからシロップ、天ぷら、きんぴら、佃煮などたくさん出てくる。しかし水洗いしたものを皿にどんと盛り、味噌でも付けて丸齧りする食べ方が、一番おいしく、旬を感じられるように思う。  作者の自句自解によれば、句会の仲間と久しぶりに飲んだ時の句という。時節柄、感染対策のしっかりした安心安全な店を探し、昼間に集まった。柔道部出身者の句会なので、「武骨」というのが話の落ちだが、気の置けない句友との弾む会話と生姜を齧る音が聞こえて来そうだ。 (迷 21.09.15.)

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窓開けて虫の音聞きて長湯かな  澤井 二堂

窓開けて虫の音聞きて長湯かな  澤井 二堂 『合評会から』(番町喜楽会) 白山 「開けて」と「聞きて」の重なりが少し気になりましたが、雰囲気はよくわかります。 迷哲 私も「開けて」「聞きて」が気になりましたが、そのことにより句にリズムが生まれたという効果もあるような気がします。いずれにせよ、いい場面が見えてきます。 幻水 典型的な日本的情緒を上手く詠んでいる。 斗詩子 マンション入居時、風呂に窓が無いのが悲しかったです。ちょっと風を入れて涼んだり、秋には虫の音も聞こえ、なかなか良いものでした。ついつい長湯もしたくなりますね。          *       *       *  評にあるように、これが日本の初秋の余情と思える。酷暑から爽やかな気候に移り変わるころは暑さの名残りがあり、風呂の窓をちょっと開けると虫の音に気づく。心地よさについつい長湯になってしまったという情景。外の爽気を感じる皮膚、虫の音に聞き入る脳の内、加えてぬる湯のまったり感が合わさって、作者をほんのささやかな陶酔境に誘ったのだろう。たしかに「開けて」「聞きて」の動詞の反復が俳句的には気になるけれど、「これしかない」という作者の表現意図もうかがえる。 (葉 21.09.14.)

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じゃがいもの地中つらなる小惑星  深瀬 久敬

じゃがいもの地中つらなる小惑星  深瀬 久敬 『合評会から』(三四郎句会) 石丸  小惑星という表現が効いている。 印南 小惑星とは粋な表現。ジャガイモ掘りを楽しんでいるようだ。 後藤 小惑星が素晴らしい、 渡邉 掘り起こしてみれば蔓には大小様々な芋が付いています。確かに夜空を見た時に星の大きさは同じ様にしか見えないが連なってるとの情景を詠んだのは素晴らしいですね。           *      *      *  この句を見たとき、すぐさま江戸時代の星図や天体図が浮かんだ。太陽や月や星が線で結ばれている図である。  筆者も長いこと家庭菜園をやっており、馬鈴薯も再三作った。しかしかなり場所を取る作物である。八百屋では一年中かなり安く売られている。コストパフォーマンスからすると、素人園芸家にとって馬鈴薯はあまり魅力的ではない。  しかし、作ってみるとジャガイモはとても面白い。なんの難しさも無い。ジャガイモを切って灰をまぶして、適当な間隔で植え付ければ、あとは成長途中に土寄せをするくらいで、放って置けばいい。ほんとにこの句の通り、掘ってみると水金地火木土天海冥といったぐあいに連なっている。  ベランダのプランター栽培でも「水・金・地」くらいまでは出来る。ただし、スーパーなどで買ってきたジャガイモでは芽が出ないことがある。「芽出し防止」の薬剤処理が施してあるからだ。 (水 21.09.13.)

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肉ジャガや又大谷がホームラン  石黒 賢一

肉ジャガや又大谷がホームラン  石黒 賢一 『この一句』  ざっくばらんな人柄のメンバーが多い句会(三四郎句会)だけに、不可解な句もたまに出てくるが、掲句にはさすがに「?」と、思考が停止した。選句評に「肉じゃがとオオタニサーンとの組み合わせの是非は?」(有弘)というのがあった。「そうなんですよね」と頷きつつ、首を傾げざるを得ない。  しかし句を眺めているうちに具体的な状況が浮かび上がってきた。肉じゃがは特に子供たちの大好物と言えるだろう。ある家庭の夕食時、小学生の兄弟が肉じゃがにぱくついていると、つけっぱなしのテレビが嬉しいニュースを伝えた。「大谷が44号ホームランを放ちました」。兄弟が「やった!」と声を合わせているのだ。  かつて「配合」「取り合わせ」「二物衝撃」などという、句づくりが流行した時期があった。二つの概念をぶつけるように並べ、読む側に何らかのイメージを、またショックを与えようとする意図を持つ。作者は「オオタニサーン」の人気を借りて、令和の「二物衝撃」を試みたのではないだろうか。  なおこの句、無季のようだが、句会の兼題「じゃがいも(秋)」を詠んだもの。ご了解頂きたい。 (恂 21.09.12.)

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夕刻のコロナの数字秋暑し    高石 昌魚

夕刻のコロナの数字秋暑し    高石 昌魚 『この一句』  高齢者のワクチン接種が8割方終わり、やれ安心と思っていたら、今度は若者と働き盛り世代の感染者・重症者が激増した。死者も著増し、即入院がかなわない自宅やホテル療養者が日ごとに増え不安はまさるばかりである。一部には「制御不能、災害レベル」と専門家のコメントも出る始末。ほんとうにコロナ禍の終焉が見えない現況である。  ところで、以前は午後3時に東京都の直近感染者数を発表していた。それが5月末からは夕方5時前の発表となっている。理由は感染者の激増により集計に時間がかかるせいなのか、あるいはなんらかの思惑があるのかよく分からない。いずれにしても昼下がりの発表から、夕方のあの嫌なピンポン音がテレビから流れるようになった。  子どもの医療関係に長年携わってきた医師の作者は、人一倍このコロナ禍を憂慮されているに違いない。国民全体も毎日毎日の感染増にうんざりしている。そのへんのうんざり感を「夕刻のコロナの数字」と平板的な言い回しで詠んでいる。それが「秋暑し」という情感のある下五につながって、なるほど今年はことに暑い秋だと思わせる。  余談ながら、この句をキーボードに打ったら最初に「憂国のコロナの数字」と画面に出てきた。パソコンも現状を嘆いているようで思わず苦笑したことだ。(葉 21.09.10.)

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踊り終へ生身の人となりにけり   宇佐美 愉

踊り終へ生身の人となりにけり   宇佐美 愉 『合評会から』(三四郎句会) 賢一 ああ、疲れた。あまり無理をしないように。早くこんな光景が戻ってきて欲しい。コロナめ! 有弘 法悦から現実へ戻る瞬間をとらえた。 豊世 人の身の神仏に近づくか、又帰る。お疲れ様でした。 信  踊りは神に捧げる行動であったから一心不乱踊った後の快感が何とも云えぬ心地良さ、神では無かったと汗を拭き拭き思ったのでしょうね。           *       *       *  「一心不乱に踊っている時と踊り終えた時とでは、踊り手の雰囲気は大きく変わり、子どもながらとても不思議な感じがしました」と作者は子供時代の盆踊風景を思い出す。  盆踊は平安時代の空也上人の念仏踊りが元になり、鎌倉時代には一遍上人の踊念仏が一世風靡、やがてお盆行事に取り入れられていったという。祖先の霊と一緒になって踊り、忘我の境を舞狂う。へとへとになり、倒れる寸前まで踊る。そうすることによって祖先の霊は慰められ、いつのまにか自分の悩みも消えてすっきりする。  寝て起きて、働き詰めに働いて日曜日も無く娯楽もない、極端に言えば昭和三十年代までの日本人の暮らしはそうだった。盆踊は庶民にとってまさにRecreationだったのである。 (水 21.09.09.)

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盆踊り野球キャップのまねっ小僧  新井圭子

盆踊り野球キャップのまねっ小僧  新井圭子 『この一句』  俳句を始めて間もない人の作。「真似っ子」はよく聞くが、「まねっ小僧」は造語だと思う。意味はよく分かるので、目くじらを立てず、とりあえず認めることにしよう、と思ってしばらくしたら、野球帽を被った小学校低学年あたりの元気な、生意気な少年の盆踊りの姿や動きが浮かんできて消えない。困った、とまでは行かないが、少し困った。  ともかくそんな風のまねっ小僧が盆踊りの列に加わり、踊っているのだ。本人は面白おかしく踊ろうなどとは考えていない。一生懸命か、ふざけているのかも分からないが、見ている大人にはなかなか面白く、この句自体が、そんな雰囲気を持っているようだ。  念のため電子辞書の「複数辞書検索」で調べてみたら、広辞苑などの各辞書に「真似っ子」の項目がないのはどうしたわけか。確か「真似っ子真似ちゃん真似してる」という童謡があったはずで、世の中の常識的な言葉だと思われる。掲句は何らかの素質のなせる業か、偶然に生まれた一打なのか。この人の句をしばらく注目して行きたい。 (恂 21.09.08.)

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