秋立つや新顔ずらり和菓子店   金田 青水

秋立つや新顔ずらり和菓子店   金田 青水 『この一句』  「和菓子」と呼ぶのは戦後のことらしい。いっきに欧米化した生活のなか、ケーキなどの洋菓子に対置するためとわかる。練り菓子、干菓子の区別はあるが、室町期以来茶の湯とともに発展したのも当然と言えば当然か。そして本家本元は京都。最古の店は千年の歴史をもつといい、京都から全国の和菓子職人に広まった和菓子は数多い。茶道と切っても切れない和菓子は季節を大事にし、四季折々を表現する。店先を覗けばいつでも季節感いっぱいの菓子が並んでいる。  掲句は立秋の和菓子店である。この景は立春でもよく、季が移るのではないかという声もあったが、栗や小豆その他材料の新物が出回る秋がよいという結論になった。作者がある日店頭に立つと、寒天や葛粉を使った盛夏の定番水羊羹などに代わって秋らしい和菓子をショーウインドーに見つけた。立秋を和菓子から受け取ったというのがこの句である。甘党の作者なのか、左党なら新酒や新走り(立秋にはちょっと早いか)で感じる季節感を和菓子で表現し、左党の多い句会で賛同を得た。ただ「新顔ずらり」の「新顔」の措辞が惜しいとの意見から、「新作ならぶ」あたりがいいのではないかとの雰囲気もあった。ともあれ「立秋」と「和菓子」の組み合わせがよかったと思う。 (葉 21.08.31.)

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すれ違い日陰譲りて残暑かな   荻野 雅史

すれ違い日陰譲りて残暑かな   荻野 雅史 『合評会から』(日経俳句会) 昌魚 残暑の日の街の様子が眼に浮びます。作者の優しさに感心しながら。 静舟 暑さの中にも礼儀あり?奥ゆかしき日本人。 二堂 暑い日は日陰を歩く。しかし人とすれ違うと日陰を譲り合う。日本人のいいところだ。 ヲブラダ ちゃんと譲れる人間になりたいです。 芳之 日陰を譲るとはすてきな方です。我先に日陰を渡り歩く自分が恥ずかしくなりました。 ゆり 暑さの峠を越えて、ちょっと余裕がでてきたのでしょうか。さりげなくて素敵です。 美千代 言葉にはあらわさなくても優しい気づかいが伝わります。残暑も爽やかに感じます。            *       *       *  残暑の街角で、すれ違った人にさりげなく日陰のある側を譲る。その奥ゆかしさに感じ入った人が多く、句会で高点を得た。残暑の句でありながら、涼風の通り抜ける心地がする。  「江戸しぐさ」という言葉がある。江戸庶民の日常マナーを言葉遣いや所作で表したものとされる。雨の日のすれ違いで相手が濡れないよう傘を外側に傾ける「傘かしげ」や、込み合った場所で少しづつ詰める「こぶし浮かせ」などが代表的なものだ。後世の捏造説もあるが、日本人のメンタリティーに響くものがある。句会では若手に属する作者が詠んだ思いやりの心。江戸しぐさの存在を認め、「日陰ゆずり」を加えたくなった。 (迷 21.08.30.)

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扁額の傾きしまま夏座敷     高井 百子

扁額の傾きしまま夏座敷     高井 百子 『この一句』  漢字辞典によると、扁額の「扁」は、戸に冊(書き物)を合わせ、門戸に署したる文の意とある。また「平たい」という意味もあり(扁平足など)、一般的に扁額は、神社仏閣などの高い所に掲げられた額を指すことが多い。もっとも『広辞苑』によると、「門戸・室内などにかける細長い額」とあっさりしている。  作者宅の座敷には、立派な扁額が鴨居の上に飾られているのだろう。作者は書道部に属していると聞く。額にはさぞや達筆が認められているに違いない。その額がいつの頃からか傾いたままになっている。踏み台を使って直せばいいのは分かっているが、毎日見ているとさして気にもならず、ついそのままになってしまった。  季語「夏座敷」は、襖を取り払って風通しを良くしたり、簾を掛けたりして夏向きに設えた座敷のこと。エアコンが普及した今では、意味が伝わりにくい季語かもしれない。作者の住む信州では、朝晩は爽やかな風が渡って「夏座敷」そのものなのだろう。和室に通された客が外の景色を愛でていると、ふと室内の扁額が目に入った。何て書いてあるのだろう。このくらい読める素養が欲しいな。などと眺めていたが、やはり傾きが気になり出した……。  作者によると、帰省した息子さんが直してくれたそうだ。 (双 21.08.29.)

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エレベータ晩夏の街へ急降下  玉田 春陽子

エレベータ晩夏の街へ急降下  玉田 春陽子 『合評会から』(番町喜楽会) 水牛 スカイツリー、東京タワー、あるいは都心の高層ビル。空調完備の高層階からあっという間に濁世に急降下です。実にうまい。ただし、エレベータのこういう句には類句がありそうだ。 木葉 高速エレベータが降りて行く晩夏の街は、いまは新型コロナで緊急事態宣言が発せられている街でもある。降下ではなく、真っ逆さまに落ちて行くという感もある。 可升 デパートかホテルか、ガラス張りで外が見えるエレベータを想像する。スピード感のあるいい句です。           *       *       *  どこの町だろうか?どんなエレベータなのだろうか?作者は何のためにこのエレベータに乗ったのだろうか?近頃、説明したがる俳句が多いなかで、作者はそんなことは一切語らず、読み手の想像をたくましくさせる。  急降下する先は、「熱暑の街」でも、「コロナの街」でも良かったのかもしれない。だが、作者は「晩夏の街」を選んで詠みきった。そのことが間違いなく、この句を奥行き深く詩情を感じさせるものに仕立て上げているように思う。ガラス張りのエレベータを想起したのは筆者だが、そういうエレベータの多くは「急降下」はしない。作者の作った幻想のエレベータではないかという気がする。もちろん、それで良いのだと思う。 (可 21.08.27.)

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物忘れしない日はなし夏深む   和泉田 守

物忘れしない日はなし夏深む   和泉田 守 『合評会から』(日経俳句会) 明古 今日も物忘れをしたと思いながら、深まる夏の万緑を背に立っている、タフそうな作者。 迷哲 酷暑の夏は、年寄にとって体の衰えを実感させられる季節でもあります。「夏深む」の季語が利いており、晩夏に潜む秋の気配が寂寥感を深くします。 青水 身に詰まされる日々です。頑張りましょう、ご同輩! 十三妹 現実を直視したくないとは思えども…です。           *       *       *  我が家は夫婦してまさにこの通りで、選句表にこの句を見つけて、同志を得た気分になって真っ先に採った。他に上記四人が採ったのだが、皆さん程度の差はあるものの同じようなご様子だ。  作者は「自句自解」で「今さっきメガネを置いた場所や考えていた事が全く頭から飛んでしまう、いわゆる短期記憶の低下というやつですね。もうこれが日常と思って、メモをこまめにとったり忘れないうちに直ぐやったり、あるいは忘れたら忘れたでいいやと居直っているうちに、あまり腹も立たなくなったような気がしています」とおっしゃる。素晴らしい心がけだし、そう出来ているうちは全く心配は無い。むしろ嫌な事やつまらない事をどんどん忘れてしまえる、“健康的物忘れ”段階である。 (水 21.08.26.)

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折鶴のひとつひとつの原爆忌   水口 弥生

折鶴のひとつひとつの原爆忌   水口 弥生 『この一句』  広島・長崎に投下された原爆の犠牲者は20万人を超える。被爆後に放射線の後遺症に苦しみ、その後亡くなった人も多い。惨禍から76年を経ても続く苦しみ。その一方で核廃絶の動きは遅々として進まない。8月の列島には鎮魂、祈り、悲しみ、怒り、決意など様々な思いが交錯する。  作者は千羽鶴から被爆者に思いを寄せる。「ひとつひとつ」の言葉が胸に響く。一瞬にして奪われた20万人の命には、ひとり一人の暮らしと人生があった。そして折鶴のひとつひとつには、全ての被爆者への鎮魂の思いと平和への祈りが込められている。  原爆と折鶴といえば、本や映画になった「サダコの折り鶴」の物語がよく知られる。2歳で被爆し12歳で白血病を発症した佐々木貞子さんは、8か月後に亡くなるまで病床で千羽鶴を折り続けた。貞子さんの悲しみを忘れないようにと同級生の呼びかけで、広島平和記念公園に「折鶴の少女」の像が設けられた。  作者は慰霊祭を伝えるテレビ映像に毎年手を合わせるという。折鶴の少女像も見知っているであろう。「被爆を背負った折鶴のひとつひとつから声が聞こえるような気がした」という自句自解からは、被爆者に寄り添う優しい気持ちが伝わってくる。慰霊祭の挨拶を読み飛ばす首相があろうとも、国民ひとり一人がそれぞれの「原爆忌」を語り継ぎ、詠み継ぎ、後世に伝えていかなくてはならない。 (迷 21.08.25.)

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残暑を傾いで歩く最後尾     大平 睦子

残暑を傾いで歩く最後尾     大平 睦子 『季のことば』  残暑の候。夏が果てて暦の上では秋なのだが暑熱地獄は容赦ない。異常気象とは言っていられないこの夏の暑さと、ここ旬日にわたって続く豪雨禍。さらにコロナの感染者、重症者が激増するするさなかの「残暑」を詠むのが今月の兼題である。とにもかくにも不自由な日常生活下である。「一枚も出さず貰わず残暑見舞い 光迷」という句も選句表に並び、残暑見舞いどころじゃない空気が支配している。  掲句は何か気になった一句であった。残暑の中を作者は歩いている。歩いているとはどのようなシチュエーションの中なのか分からない。単なる公園散歩や街歩きではない気がする。それなら場所はどこか。だいぶん疲れて歩いている雰囲気がうかがえる。トレッキングの最中か、作者にはありえないかもしれないが、五輪競技の連想で競歩なのかもとも思ってしまった。傾いでいるのは頭か上半身かと考えは続いた。なおも想像をたくましくすると、時節柄コロナワクチン接種の行列に付いているのかもと思った。「残暑を傾いで歩く」という措辞が今を象徴しているようで意味深長だ。ここでは「傾いで」がいい働きをして、「最後尾」という後ろに誰もいない心細さを強調した。 (葉 21.08.24.)

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さりげなく団扇で換気立ち話  旙山芳之

さりげなく団扇で換気立ち話  旙山芳之 『合評会から』(日経俳句会) 水馬 コロナ伝染はやはりエアロゾルだそうですから、外での立ち話でも気になりますね。話の最中に相手が扇子や団扇を使い出したら、即、話を切り上げましょう。 守 同感。思わずこうしたくなる時が、私もあります。 静舟 コロナ禍の笑えぬご近所さんとの危うい?立ち話。 実千代 わかります、わかります、この情景。 三薬 道で出あった話好きのおばちゃん。マスクなし、距離も近過ぎ。もっと離れてと言いたいが、それもできない。で、さりげなく団扇で風を送る。この機微、さすがですね。江戸川柳を思わせる味わい。立ち話は屋外だから、換気というのは如何か、なんてヤボは申しません。 雅史 コロナ禍が終わり「令和三年の夏はこうだった」と思い出話になるといいですね。           *       *       * 作者の話だとこれは社内風景だという。お互いマスクはしているが、擦り寄って話しかけてくる人や声の大きな人に対しては団扇が活躍しているのだそうだ。雅史さんが言われるように、まさにこれは「令和三年夏」の年代記に添える一句だ。 (水 21.08.23.)

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蝉しぐれまとひて山の郵便夫   中嶋 阿猿

蝉しぐれまとひて山の郵便夫   中嶋 阿猿 『この一句』  『郵便配達夫ルーラン』というゴッホの絵がある。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』というジェームズ・M・ケイン作のミステリーがある。『イル・ポスティーノ』というイタリア映画は、亡命した詩人と彼に郵便を届ける島の青年との交流譚だ。郵便物という私信を人々に届ける配達員には、何かしらの物語性を帯びているのだろう。様々なジャンルで主人公に選ばれている。  掲句は、郵便配達員が蝉しぐれを浴びながら山の奥を走り回っているという景を描き、句会では一二を争う人気だった。それにしても「郵便夫」とは、何とも古めかしい響きだ。この句を採った人も「どことなくノスタルジアを感じさせる」(水馬さん)や「古い言葉を持ってきたもんですなあ」(水牛さん)と気になった様子。「夫」には「労働に携わる男」という意味があるが、今はほとんど遣われなくなった。  作者によると、芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を詠んだ山形県の立石寺での吟だという。山寺とも呼ばれるこの寺は山の上に聳え、参道は千段を超える階段だ。途中には芭蕉を偲ぶ「せみ塚」もある。その階段を作者があえぎながら登っていると、郵便配達の男性が平然と追い越して行ったという。「郵便夫」が醸し出す物語性と、芭蕉へのオマージュも込めたであろう〝蝉〟しぐれが、絶妙な効果を発揮して味わい深い。 (双 21.08.22.)

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うなだれて片蔭を行く老いにけり  大沢反平

うなだれて片蔭を行く老いにけり  大沢反平 『この一句』  何とも切ない、哀しみに襲われた。やるせない気持ちになった。うなだれた作者の姿が思われた。だが、評者にも「こうなってしまったのか」という記憶がある。肩を落として前屈みになり、とぼとぼ歩く姿。商店のガラス戸に映ったそれは、まぎれもなく自分のものだった。「若いと思っていても…」という現実を突き付けられた。  だが、この一句には救いがある。「老いにけり」と言い切ったことで、自分をごまかそうとしない潔さ、現実を認める姿勢に、清々しさがあるからだ。古希を過ぎ、喜寿も過ぎれば、電車やバスで席を譲られるようにもなる。この清々しさは、そのような人々の好意を素直に受け入れ、前向きに生きて行く心に通じているのではないか。  少年時代はカンカン照りの中でも平気で走り回っていた。片蔭を求めるなど思いもつかなかった。それが…なのである。誰しも老いたくはないだろう。不老不死の薬を求めて…という話は世界中に散らばっている。遺伝子工学に望みをかける向きもある。だが、まだそれは見付かっていない。それにつけても、晩年を美しく、というのは難しい。 (光 21.08.20.)

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