麦秋はほらiPhoneのなかに在る 金田青水

麦秋はほらiPhoneのなかに在る 金田青水 『この一句』  この句は俳句としては問題のある句だろう。「麦秋」が季語であるが、ここには「麦秋」の本意はなにも詠まれていない。「麦秋」のあらわす、刈入れ時の麦畑の広々とした景はどこにも見えない。「iPhoneのなかに在る」という措辞が置かれるばかりである。逆に、iPhoneのなかには何があるか?麦秋のみならず、新緑も、紅葉も、ありとあらゆる画像や映像がiPhoneのなかにはある。この句は「新緑はiPhoneのなかに在る」でも、「紅葉はiPhoneのなかに在る」と変えてもそのまま通用する。「季語が動く」どころではない。  そう思うにもかかわらず、筆者はこの句に一票を投じた。読んで思わず「そうだよなあ」と共感したのと、現代の世相を切り取った一篇の詩として成立していると思ったからである。 自分の知らない兼題が出されると、まずスマートフォンで画像検索してみるというのはわれわれの日常茶飯事である。この句は、そういう句作の実態をユーモアを交えて肯定的に捉えたものとして読める。 一方で、安易にスマートフォンに頼る時代の風潮に対する批判の句として読むことも可能である。そこは、「ほら」の二文字のニュアンスをどう解釈するかによって分かれる気がする。俳句としては疑問符がつくかもしれないが、誰よりもスマートフォンに依存している筆者は、耳に痛い句として読んだ。 (可 21.07.05.)

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