僅かなる片蔭に待つ赤信号    久保田 操

僅かなる片蔭に待つ赤信号    久保田 操 『合評会から』(酔吟会) 鷹洋 わかるわかる。片蔭を探して電柱に寄り添って信号が青になるのを待つ。2、3人が密になっていることもある。 水馬 私も影がどんなに細くとも影らしい黒いところに立ちますね。 水兎 私も3メートルくらい後ろの木陰で信号が変わるのを待ちます。真夏は僅かな陰でも違いを感じます。 *       *       *   今回「片蔭」に投句された23人の句のほとんどは視覚的であり、逆に取り合わせの句は二つ三つに過ぎなかったかと思う。目の前にある夏の外界、ことに歩いているとき立ち止まったときの描写が多かった。この句は信号待ちの作者が暑さに耐えかね、ちょっとの木陰に逃げ込む自画像を詠んだものだ。選句者も異口同音に「私もそうです。そうします」と同調している。たとえエアコンが十分利いた車を運転しているとしても、木陰のあるところまで進んで停車するのが人情だろう。まして太陽熱でとろけそうになった歩道にある作者にとって、片陰は砂漠のオアシスにほかならない。「僅かなる」が切実さとちょっぴりの情けなさを一語で表して実に効いている。 (葉 21.07.30.)

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三伏やたてがみ光る競走馬   加藤 明生

三伏やたてがみ光る競走馬   加藤 明生 『季のことば』  句を見て「そうだった」と思い出した。競走馬・サラブレッドの発汗はもの凄い。特に酷暑の時期、走り終えた時のたてがみや体毛が真っ白に見えるほどなのだ。かつて競馬に凝り、競馬場に通っていた頃は「体から塩が噴き出している」などと思っていたが、そうではなかった。ネット情報によれば「汗が気泡になり、白く見える」のだという。  ネット情報をさらに紹介する。競走馬が一つのレース(二千㍍前後か)を走ると、特に夏の発汗量はすごく、総重量は三キロほどになる(ある情報によると冬の七倍)。走り終えたばかりの馬はしばらく興奮さめやらず、首を振り、後ろ足で立ち上がろうとしたりする。このような時も、かつての私の心にあったのは「馬券が当たった」「外れた」ばかり。  「三伏」とは極暑の期間のこと。夏至の後の第三の庚(かのえ)日を初伏、そして中伏を経て、立秋後の第一の庚の日を「末伏」というのだという。何だかよく理解できない面もあるのだが、ともかく酷暑の侯、レース後の馬のすごい発汗もまた「三伏」のもたらしたものだ。かつての私は一体、馬の何を見ていたのだろう、と現在は反省している。 (恂 21.07.29.)

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遠雷や化粧落とせし我が素顔   田中 白山

遠雷や化粧落とせし我が素顔   田中 白山 『季のことば』  「遠雷」という季語とその響きには、多少の抒情と忍び寄る不安の影が籠っている。筆者の感覚だが、遠雷を聞きながら行く末や心配事をふと思うことがある。だれも雷が好きだという人はいないだろう。はるか遠くで鳴っている分には夏のひとつの風物にすぎない。ところがそれがだんだん近づいて来るとなれば、さまざまなおののきが生れる。ことに深夜であれば格別の思いがするだろう。近所あるいは最悪自分の家に落雷するのではなかろうかと。  この句の作者のことである。化粧を落としている最中というからまず就寝前か。遠くで雷鳴が聞こえる。「ああ、遠いな。心配ない」と実感し、稲光(これは秋の季語)がしてから雷鳴までの間を指折り数えるまでもない。ところが作者は驚いた。化粧を落とし終えた自分の素顔にである。急に年を取ったなと感じたのか、はたまた皺や染みが増えたのを発見したのか。もちろん寝る前に化粧を落とす習慣をもつのは女性であろうから、この句はとうぜん女性の作とみた。が、なんと名乗り出た作者は男性であり、しかも八十なかばのお方であった。みごとに騙された。化粧などするはずのない人がこんな句を作るとは一体なぜ。 「なりすましの句」の最たるものである。ブラックユーモア?いやはや、お若いです。 (葉 21.07.28.)

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初めての家庭菜園花胡瓜     池内 的中

初めての家庭菜園花胡瓜     池内 的中 『季のことば』  「花胡瓜」というのは、花を付けたまま可愛い実を成らせた胡瓜のことで、初夏の季語である。六月になり七月になっても相変わらず胡瓜は次々に花を咲かせ秋になるまで続くのだが、五月に初めて咲いたときの印象が実に感激的なので初夏の季語になった。 「花つき胡瓜」あるいは「花丸胡瓜」とも呼ばれ、日本料理の前菜や刺身のツマとしてよく登場する。ほんとにちびっこい2、3センチの緑色の胡瓜の先に鮮やかな黄色の花がついていて、演出効果満点なのでよく用いられる。  この句の「花胡瓜」は懐石膳ではなく、実際の菜園で生きている花胡瓜だ。作者は一念発起、家庭菜園を始めたのだろう。どこの家も大概は庭を耕してみると気づくのだが、土が固く締まり、石ころが意外に多いものだ。これを丁寧に拾い捨てながら土塊を崩し、園芸店で買い求めた堆肥などを入れて菜園の基礎を作る。そこに胡瓜の苗を植える。 最初はいかにも貧弱なひょろひょろ苗で、果たしてこれが実を結ぶのかと案じていたら、いつの間にか伸びてきて、支柱を立ててやるとそれに蔓を絡ませ、さらに伸びて、可愛らしい黄色の小花を咲かせた。その花の元にはなんとちっちゃな胡瓜が出来ているではないか。このワクワク感が「花胡瓜」の一語に生き生きと現れている。 (水 21.07.27.)

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向日葵が迎へてくれし無人駅   前島 幻水

向日葵が迎へてくれし無人駅   前島 幻水 『合評会から』(番町喜楽会) 白山 昔、こんな風景の所に吟行に行ったことを思い出し、懐かしい景が浮かんできました。 可升 「また無人駅かぁ」と思い、採るのを躊躇したのですが、絵になるいい句だなと思い直し採りました。使い古された素材を使っていても、いい句はやはりいいですね。 光迷 「向日葵が迎へてくれし」で、無人駅になって寂しいけれども、なんだか暖かい感じがする。 水兎 無人駅にも、心遣いがあるのが嬉しいですね。 幻水(作者) 枕崎での実景です。            *       *       * 七月の番町喜楽会で最高点を得た句である。無人駅と桜など花を取り合わせた句は多い。向日葵も珍しくないかも知れないが、この句は「迎へてくれし」の七音から作者のいろいろな思いを読み取ることで、向日葵の印象がより鮮やかになる。誰もいないと思った無人駅に大きな向日葵を見つけた驚き、「ようこそ」と笑いかけるような花に感じる親しみ。向日葵に元気をもらった作者は、花を植えて旅人を歓迎しようという地元の人々の温かい心も感じたに違いない。 作者のコメントを少し補えば、この無人駅は薩摩半島の枕崎線にある西大山駅であろう。日本最南端のJR駅として知られ、雄大な開聞岳を望む畑の中にある。春先の菜の花が知られているが、近年は向日葵畑と開聞岳の写真も有名になっているという。 (迷 21.07.26.)

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ひるがへるシャツよパンツよ梅雨晴間 大澤水牛

ひるがへるシャツよパンツよ梅雨晴間 大澤水牛 『合評会から』(酔吟会) 双歩 このあっけらかん加減がいいですね。夏は洗濯物もTシャツやパンツくらいしかないでしょうし。 可升 シャツやパンツが翻るのはきっと目の錯覚でしょう。やっと晴れたぞ、と思う嬉しさがこう表現させたのでしょう。「よ」の繰り返しが効果的です。 光迷 梅雨時は洗濯物がたまってたまって、家の中に干せば湿気が籠って。だから、たまに快晴の日が来れば、物干しは満艦飾に。衣類はやっぱり乾燥機じゃなく日に当てないと、ね。           *       *       *  何とも気持ちのいい、爽やかな一句である。昔々、小学生のころ、洗濯物が青空にはためく様子を思い出した。竹竿にシャツ、パンツ、体操着、割烹着などを通し、乾かすのだ。高く掲げられたそれらが太陽を浴び、喜んでパタパタと音を立てている様子が想像された。  昔は下着は白がほとんどで素材は綿が中心だった。最近は色も柄も豊富になり、女性用のステテコまで登場した。リラックスステテコ、略称「リラコ」は部屋着にも重宝なのだとか。素材は合繊が主流になり、速乾性など機能強化も目覚ましい。だがやはり、干すのは外がいい。 (光 21.07.25.)

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ウイグルの断種かなしや花柘榴   金田 青水

ウイグルの断種かなしや花柘榴   金田 青水 『季のことば』  医学のあまり進んでいなかった昔、恐ろしい遺伝病を根絶するために「断種」(不妊手術)とか隔離という非人間的なことが行われていた。ハンセン病が代表的なものとして取り上げられることが多い。20世紀まで欧米で盛んに行われ、日本にも伝わった。 もう一つは、これはもう狂信的な行為としか言いようがないが、ナチス・ドイツの「ユダヤ人撲滅」と「黄禍論」である。優良人種に禍をもたらす劣等人種は根絶やしにせねばならないという恐ろしい考えである。 それが今、中国の新彊ウイグル地区で行われているとの話が全世界に伝わって大問題になっている。この地域に住む人たちは漢民族とは異なる歴史文化を持ち、独自の生活スタイルを持っている。だから、時には北京の下す指令に従えぬことも出てくる。それが因となり長年いざこざが絶えなかった。 党中央と北京政府が下した結論は、まつろわぬ種族を絶やすために治安維持法違反などで検挙した人物に対して強制的に不妊手術を行うことだという。そんなことが実際に行われているとは信じられないのだが、今の中国中央政府の姿勢を見ると、もしかしたら本当に行われているのかもと怖気を振るってしまう。権力者は得てして狂信的な振る舞いをする。 子沢山・豊穣のシンボルである花柘榴との取り合わせが、何とも言えない悲しさを醸し出している。時事句の傑作と言えよう。 (水 21.07.23.)

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はたた神街を一喝してゆけり  玉田 春陽子

はたた神街を一喝してゆけり  玉田 春陽子 『この一句』  俳句を作るようになって、それ以前には知らなかった言葉に出会うことがたびたびある。例えば、「地震」のことを「ない」と読ませることなど、俳句をやらなければまったく無縁だったと思う。この句に使われている「はたた神」は雷のことであるが、この言葉も今や俳句でしか使われない言葉のような気がする。「はたた神」は漢字では「霹靂神」と書くらしい。「霹靂」と聞けば「青天の霹靂」しか思い浮かばないが、なるほどあれは雷のことかと改めて思う。余談だが、最近の小学生は『鬼滅の刃』のおかげで「霹靂」が読めると聞く。  語源を調べると「はたた」は「はたたく」から来ているらしいが、この和語と漢語の「霹靂」はどうも無理矢理くっつけた印象がある。ちなみに、秋田名物の「はたはた」は、この「はたた神」に由来しており、漢字では魚偏に「神」とか「雷」で表記されている。  ところでこの句、やはり「一喝して」が効いている。戦争や紛争のこと、コロナ対応やオリンピックのこと、異常気象のこと、高齢化社会のことなど、街ならずとも、家庭にも、国にも、世界にも問題は溢れている。雷様がそういう我々の世の中のゴタゴタに喝を入れてくれているのだという警句になっている。天空と下界をつなぐ構図は、どこか蕪村の名句「月天心貧しき町を通りけり」を思い出させる。切れ味の良い一句である。 (可 21.07.22.)

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雨止んで迷いミミズを蟻が引く  杉山 三薬

雨止んで迷いミミズを蟻が引く  杉山 三薬 『季のことば』 「蚯蚓鳴く六波羅蜜寺しんのやみ」(川端茅舎)という有名な句があるが、「蚯蚓鳴く」は秋の季語。実際には鳴かない蚯蚓が鳴いているように感じる、という秋らしい心象的な季語だが、単に「蚯蚓」といえば夏の季語だ。蚯蚓は土を食べ、糞を出すことで土壌を豊かにしてくれる。見慣れない漢字には丘を作る虫の意味があるという。蚯蚓は皮膚呼吸なので、土中に雨が染み込むと呼吸が苦しくなり地上に這い出す。雨脚が激しいと路上に流され、溺れたり舗道で迷い土に戻れなって死んだりする。  掲句は、雨上がりに路頭に迷い、瀕死の蚯蚓が蟻の餌食になってしまった情景を鮮やかに掬い取った一句。このような自然界の摂理は誰しも見たことがあるはずだ。「あるある」という景を実に魅力的に詠んで、句会では最高点だった。  ところで、「蟻」も夏の季語。この句の場合、蚯蚓の方が物語を多く孕んでいるものの、主役はやはり蟻だろう。作者があえて漢字を遣わず「ミミズ」とカタカナにしたのも、主従をはっきりさせる配慮だと思う。  小林一茶に「出るやいなや蚯蚓は蟻に引かれけり」という句があるが、出てきたばかりのまだ元気な蚯蚓が簡単に蟻に引かれるとは考えにくい。写実ではなく何かの喩えならともかく、掲句の方が写生眼はうわてだと思うが、贔屓目だろうか。 (双 21.07.21.)

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麦秋や一直線の畑道       髙石 昌魚

麦秋や一直線の畑道       髙石 昌魚 『合評会から』(日経俳句会)  水牛 一見ありきたりな俳句のようだが、このようにストレートに詠むのはなかなかのものだと思う。見はるかす麦の秋の景色がすっと浮かんで来る。自然に両腕を高く挙げて深呼吸だ。 朗 一直線という言葉選びが素晴らしいと思いました。麦畑の広さをどう表現するか、腐心するところですが、一直線の道によって麦畑のイメージに奥行きが出ています。この道は空まで続いている感じですね。 三代 黄金色を貫く一本道の風景が気持ちよさそうです。 道子 微風吹く田園風景が目に浮かびます。             *       *       *  選句した時に述べた上記の言葉で言い尽くしているのだが、作者が分かってみると「やはりなあ」と思う。私より七ツも八つも上の卒寿を越された大先輩なのに、こうして若々しい精神を持ち続けていらっしゃる。「いつごろか忘れましたが、北海道の美瑛に行った時の麦畑を思い出して作句したものです。一直線の長く細い道が印象的でした」と言われる。はるか昔の記憶の映像にすら一点の曇りも無い。酒浸りの咎めが出て、五感鈍磨せる己を恥ずかしく思うばかりである。 (水 21.07.20.)

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