激浪を見たいといふ妻青嵐    大沢 反平

激浪を見たいといふ妻青嵐    大沢 反平 『この一句』 大きく立ち上がり、岩礁などに打ち寄せては砕ける激浪。そんな大波を見たい、と奥さんは言った。句の最後に「青嵐」という季語がぽんと置かれている。青嵐が家を揺るがすように吹き抜けて行った後、奥さんはその風音に促され「激浪」を口にしたのだろうか。句からさまざまな思いが浮かぶが、奥さんの心理や激浪に関わることの推理は「この際、不要」と考えたい。  この句を選んだ後、私は「永井龍男の短編を思わせる」とか「俳句の枠を少々超えた句」などという短い感想を述べている。それ以上のことを詳しく説明するのは非常に難しく、「これもまた俳句なのだ」くらいのことでお茶を濁したいのだが、付け加えたいことが残っていた。会社では私と同期、八十歳を超えている作者の「やる気」にまず、拍手を送ろうではないか。  世界一の短詩とされる俳句は、読み手にさまざまなことを考えさせ、頭を捻らせる「小さな文の塊」と言えよう。ところが句会に投句する作品になると、結果(得点)のことが頭に浮かび、なるべく多くの人に理解されるような句作りをしてしまう傾向も否めない。俳句作りの主流を占める中高年者の一人として私はいま、自分に対し「もっと冒険を」と気合を掛けている。 (恂 21.06.18.)

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独り居やきゅうり一本持て余し  山口斗詩子

独り居やきゅうり一本持て余し  山口斗詩子 『合評会から』(番町喜楽会)    満智 よくわかります。実感です。 命水 単身赴任時、似たようなことがしばしばありました。味噌をつけつまみにするにしても一本は多すぎます。かといって他に料理するすべを知らず、結局、悪循環で味噌とウイスキーが減るだけでした。 百子 確かに、胡瓜をそのまま食べるには大きすぎる場合がありますね。塩揉みならすぐに食べられますけど。最後の「し」が気になりますが、独り身の心情に納得。 斗詩子(作者) 取り立てて味もなく青臭かったり苦かったりする胡瓜を、私はあまり好みません。けれどサラダには無いと寂しい。スーパーなどではまとめて売っており、仕方なく二本買ってしまう。新鮮な内にと思うものの半分がやっと。後はぬか漬けと明日回し。お一人様はきゅうり一本でもゴミにしないよう苦労しています。           *       *       *  その苦労、よく理解できます。ゴミにしないように頑張っている姿に頭が下がります。汁物や煮物は一人前を作る気になりません。手間ばかりかかって、おいしくできないから。インスタント食品が受けるのも分かります。お一人様の悲哀しみじみ、です。 (光 21.06.17.)

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雨上がり虹の傘さす観覧車    岡田 鷹洋

雨上がり虹の傘さす観覧車    岡田 鷹洋 『合評会から』(日経俳句会) 昌魚 雨が上がって観覧車の上に綺麗な虹。美しい景ですね。 光迷 「コロナなんか、飛んでけ」と叫びたくなります。 操 しっとりとした空気の中に虹がわたる。青空が戻り爽やかな情景が広がる。 雅史 想像するだけでもワクワクする光景です。 二堂 大きな虹が、観覧車を登場させてよく表現されています。           *       *       *  「五月初め、緊急事態宣言の禁を破り都内から横浜へ越境。みなとみらい・万国橋SOKOのベランダから見たコスモワールド観覧車の上空に見事な虹、千載一遇の感動」というのが作者の自句自解である。  戦時中、横浜駅から桜木町駅の先までの横浜港一体は高い塀で囲まれ、「軍事機密」地帯として一般人は近づけなかった。戦後も占領軍の命による立入禁止時代が続き、解除後も長らく「汚らしいヘドロの海」だった。それが今や「みなとみらい」というピカピカの街になり、超高層ビルが立ち並び、飲食・娯楽施設が各所に出来て、日本有数の観光都市に様変わり。作者が感激した近代アートの殿堂「万国橋SOKO」なるものも、ついこの間まではカビ臭い古倉庫で、ネズミとそれをねらうアオダイショウやイタチが駆け回っていた。つい先日、このすぐそばに「日本初の都市型ロープウエイ・YOKOHAMA AIRCABIN」が運行開始。コロナ禍もものかわ若いカップルの嬌声が空中にこだましている。 (水 21.06.16.)

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竹の皮さてもみごとな脱ぎっぷり  谷川水馬

竹の皮さてもみごとな脱ぎっぷり  谷川水馬 『季のことば』  「竹の皮脱ぐ」は仲夏の季語。例句も少なく、わりとユニークな季語だ。  筆者の散歩コースには竹林が何箇所かある。暖かくなってくるとあちこちに美味しそうな筍が顔を出す。筍の成長は早く、ぐんぐんと伸びてゆく。背丈は伸びるが、太さは変わらない。つまり、店頭に並ぶ筍の底の太さがその竹の太さだそうだ。筍の皮は成長しないので、竹の成長に追いつかずはち切れてしまう。喩えが特殊で恐縮だが、「超人ハルク」が巨大になるときの衣類のような感じだ。今年竹の根本に茶色い皮がへばりついてる様はなかなか面白く、幾何学的な形が絵になるので、写真に撮ったり句を作ったりもした。  この句を読んで、作者の散歩コースと筆者のそれは、つくづくよく似ているのだと感じた。以前、このブログで同じ作者の「渾身の一日花やオクラ咲く」を紹介させてもらったが、そのときも筆者は、自身の散歩コースでオクラの花を見た感慨を書いた。今回もまた同じ光景を見ていながら、ろくな句を作れなかった筆者と、やすやすと佳句を物した作者のさてもみごとな詠みっぷりに脱帽である。(双 21.06.15.)

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菖蒲湯につかり背筋の少し伸び  向井 ゆり

菖蒲湯につかり背筋の少し伸び  向井 ゆり 『合評会から』(日経俳句会) 光迷 うぅ~んと背筋も伸ばすと若返った気分、体が軽くなったようにも。 反平 風呂上がりにしょっちゅう背中が丸いのに気づかされて、閉口しているから、この句の作者のほっとした気分がよくわかる。 三代 気持ちよさそうに菖蒲湯につかっている姿が浮かびます。いくつになっても菖蒲湯は霊験あらたか。 水馬 風呂に浮かんだ菖蒲の葉を握るとまるで竹刀を持った気になりますよね。 二堂 確かに香りが鼻から抜けて、背筋の伸びるような気がします。 雀九 菖蒲湯が好きです。菖蒲が香り、強くピンとした菖蒲に背筋も伸びる。 早苗 お湯につかると気持ちが緩むものですが、菖蒲のすがすがしい香りには逆に気持ちが引き締まるのですね。 正市 この渋さは、人生の達人の域に達した方にしか作れまい。           *       *       * 作者は巣篭りのゴールデンウイークに菖蒲湯目当てに起き抜けで近所の銭湯に出かけた。邪気を払いちょっと精気を取り戻せたような気がしたという。私も菖蒲湯が大好きで、庭の片隅に菖蒲を植え、それで毎年菖蒲湯をたてている。しかし新暦の五月五日では庭の菖蒲はまだせいぜい15センチくらいで細っこい。そこで旧暦五月五日の本日6月14日、今年二度目の菖蒲湯に入ろうと、13日夕方鮮やかな緑の剣をすっくと伸ばしたのを刈り取った。旧暦端午未明の菖蒲湯にゆっくり浸かって、また寿命が延びた。 (水 21.06.14.)…

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陽をはじく大地の鏡田水張る   徳永 木葉

陽をはじく大地の鏡田水張る   徳永 木葉 『この一句』  作者のコメントによると、掲句は自宅から商業施設(スーパーマーケットか)に車で向かった時の体験を詠んだのだという。目的地への道路は、両側に水田の広がる農道のように思える。田に水を張ったばかり。時間は午前十時前か午後三時過ぎだろうか。陽光が田植え前の水田に斜めに当たって撥ね返り、車を運転する作者の顔へまともにギラリと襲ってきたのだ。  普通の運転者なら「まぶしいなぁ」と顔をしかめるところだが、作者は「この状況を句にどう表すか」と考えたのだろう。そして家に帰ってからしばらく、例えば晩酌の際にでも「陽をはじく大地の鏡」という素晴らしい惹句に思い至ったのだ。私はこの句を見た途端、「凄いなぁ」と感嘆した。体験者でなければ絶対に思いつかないフレーズだと思った。  田水を張ったばかりの田が車のすぐ真横にあるからこその「大地の鏡」との出会いであった。国道などから見下ろす田んぼではこうはいかない。この句の示す状況は、五七五を逆転させた方が分かり易いが、「田水張る」を敢えて最後に置き、中七と下五の間に「切れ」を作った。これによって田植えがすぐに始まり、一帯がたちまち青田に変わっていくことが示されている。 (恂 21.06.13.)

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段ボールに籠りて生きる日は遅し 髙橋ヲブラダ

段ボールに籠りて生きる日は遅し 髙橋ヲブラダ 『季のことば』  「日は遅し」とは日の暮れるのが遅いということ。俳句では「遅日(ちじつ)」という春の季語で、同類の「日永」とともに、俳人にこよなく愛されている。「日永」は春になって温みを増して来るにつれ、昼間がずいぶん長くなったなあという嬉しさを表すことに重点が置かれている。これに対して「遅日」は「暮れるのが遅くなった」ことを強調している。  「段ボールに籠りて生きる」は言うまでもなく、公園や河原や橋の袂などにブルーシートや段ボールで囲いを作り、籠居している人たちである。この人達にとって夕暮れから宵の口は目当てとしているゴミ捨て場などを巡回する潮時であろう。日暮れが遅くなるのも良し悪しということがあるようだ。  「『用なしだけんど死ねんもんね』日向ぼこ 熊谷愛子」というどきっとする句もあるが、掲出句にはこれと相通ずるところがある。ただ「段ボール」句の方は見たままを何の造作も加えずに、そのまま詠んでいる。どちらがいいと比べる必要は無く、どちらも読むものの心を打つ。  感情の迸りに駆られて、人はいとも簡単に命を断つことがあるが、一旦立ち止まれば、そう易易と死ねるものではない。「何が面白くて・・」などと言う人間がいるかも知れないが、ただ「生きる」ことが目的の人生だってあるのだ。そんなことを思わせる句である。 (水 21.06.11.)

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宙に富士一万本の花みかん    廣上 正市

宙に富士一万本の花みかん    廣上 正市 『この一句』  雄大な景色を詠み込んだ気持の良い句である。最初に「宙に富士」と言い切ることで、晴れた空に浮かぶ富士山を強く印象づける。その後に視線を「一万本の花みかん」に転じさせる。句の切れが間を生み、遠景から近景へ無理なく切り替わる。「一万本」の修辞も巧みで、広いみかん畑に白い花が咲き揃っている光景が鮮やかに浮かんでくる。  みかんは5月、6月に香りのある小さな白い花をつける。蜜柑は冬の季語だが、青蜜柑は秋の季語、花蜜柑は夏の季語となる。みかんの花と言えば、童謡「みかんの花咲く丘」が良く知られている。この歌は、締め切りに追われた作曲家の海沼實が伊東行きの列車の中で作曲したとのエピソードが残る。  掲句の作者は二宮在住なので、小田原から湯河原にかけてのみかん園で詠まれたのではないかと考えた。東海道線からもよくみかん園を見るが、箱根山が邪魔になり、意外に富士山は望めない。「富士の見えるみかん園」でネット検索するといくつか候補が浮かんできた。足柄上郡松田町の農園は大きな富士の姿を見ながらみかん狩りができる。沼津市西浦では、駿河湾越しに富士を遠望する高台にみかん園が広がる。作者に聞いてみたい気もするが、場所の詮索などやめて、読者がそれぞれ抱いているみかん畑と富士山のイメージを重ねて句を味わえば良いのであろう。 (迷 21.06.10.)

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ブラウスの袖の膨らみ初夏の風  髙石 昌魚

ブラウスの袖の膨らみ初夏の風  髙石 昌魚 『合評会から』(日経俳句会) 鷹洋 初夏の涼風を袂に入れて行き交う女性。細かいところに着眼したのが素晴らしい。モネの印象絵画を想起しました。 弥生 「初夏の風」の措辞が触覚を刺激してきます。ブラウスの袖が膨らむのはまさにこの時期の風、と実感させられる一句です。 二堂 初夏の風をブラウスの膨らみに感じたのが面白い。 *       *       * 「気持ち良い外歩きのシーズンとなりました。街ですれ違った素敵な女性の袖が膨らんでいた実景です。採りあげて頂き感謝いたします」とは作者からのメール。 いつも背筋を伸ばし、颯爽と歩む。卒寿をとっくに越えたお方と聞けば誰もが驚くほど、身も心も若々しい。街歩きが大好きで、眼に止まった情景をそのまま素直に詠む。その目の付け所がまた実に若々しく、好奇心に溢れかえっている。 この句を選んだ時にはてっきり現役世代の作品だと思っていたのだが、作者名が明らかになって、びっくりした。と同時に「見習わなくちゃ」と、密かに心のネジを巻直すのであった。 (水 21.06.09.)

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月を喰む地球の影の遠さかな   池内 的中

月を喰む地球の影の遠さかな   池内 的中 『合評会から』(番長喜楽会) 満智 月食を「月を喰む」と表現しているのがうまいなあと思いました。 二堂 東京では見えませんでしたが、米国ではよく見えたそうです。月と地球の距離を確かに感じますね。 命水 かつては、地球外の世界に夢を持ったものです。しかし、家族ができ、孫達に囲まれていると、この地球こそかけがえのない世界だとつくづく思えます。 百子 時事句ですね。うまいです! *       *       *  去る五月二十六日のスーパームーンの皆既月食を詠んだ句である。この句の中にある季語らしき言葉は「月」だが、秋の季語だから六月の句会には相応しくない。番町喜楽会は有季定型を旨としている句会なので、無季の句にお目にかかることはほとんどない。筆者はこの句は時事句でもあり、無季でもまったく問題なしとして一票を投じた。 最初、作者は「地球の影の暗さかな」と詠んだが、凡庸で説明的だと考え、「遠さかな」に変えたという。それが正解だったと思う。「遠さかな」によって、この句は無季ではあっても豊かな詩になったと思う。作者はこの日、高得点句を連発した。メール句会であるため、句友の喝采が聞けなかったのは残念である。 (可 21.06.08.)

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