石段を数えて登る薄暑かな    加藤 明生

石段を数えて登る薄暑かな    加藤 明生 『季のことば』  平らな道を歩いていても躓くことは珍しくないという――そんな年頃になった方が句会仲間に多い。なべて高いところにある神社や寺院には石段があり、それも数十段ときには数百段もある。登れば息切れもするし足も上がらなくなる。戦乱の時代には城塞の役割を担ったのだから、長い急傾斜の登り口となるのも当然といえる。筆者は俳句会の「逆回り奥の細道吟行」で行った山寺(山形・立石寺)の石段を思い出す。初秋の頃であったが、曲がりくねりながら延々と続く石段に辟易した。ただ登り切った先、五大堂から見下ろす絶景が途中でかいた大汗を一気に引かせてくれた。  掲句である。ときは「薄暑」の季節。作者はおそらく汗をかきながら石段を登っている。どこの社寺を思い浮かべるのも読み手の思いのまま。石段を登る辛さがそれぞれの経験とともによみがえってくる。一読してなんともないような句とも言えるが、味わいのある句と思う。初夏の暑さのなか、社寺の目くるめくような石段を上がってゆく。あえて上を見ず、慎重に足元の段を数えながらというところに、高みの社寺の本殿や本堂が隠れている。盛夏でない「薄暑」の季語がほどよく効いて足弱になりつつある一人として見逃すことのできない句になったと思う。 (葉 21.06.30.)

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デパ地下に並ぶきゅうりの優等生  塩田命水

デパ地下に並ぶきゅうりの優等生  塩田命水 『この一句』  べつに統計をとっているわけではないが、俳句の素材には、メジャーなものよりマイナーなもの、盛んなものより廃れたもの、出来の良いものより少々出来の悪いものを好む傾向があるような気がする。鉄道で言えば、新幹線よりローカル線や路面電車などが好まれ、廃線跡や無人駅などもしばしば登場する。こういう句材はやはりなにかしら郷愁のようなものを感じさせ、俳句を詠もうとする心持にフィットするところがあるのだろう。しかし一方で、こういう句材はいつも「類句類想多し」と批評される危うさも持っている。  この日の兼題は「胡瓜」。三十余句集まった中に、やはり、曲がった胡瓜や採り忘れて大きくなり過ぎた胡瓜を詠んだ句がいくつかあった。そんな中、この句に詠まれたデパ地下の胡瓜は、どれも真っ直ぐで、見栄えも堂々とした、ケチのつけようのない胡瓜に違いない。曲がった胡瓜の句が多い中に、この句が置かれると意表を突かれた気がする。しかもそれを「優等生」と表現したところが実に面白い。 作者は決して笑いをとろうとしたわけではない。作者は生真面目に正面きって「きゅうりの優等生」ぶりを詠んでいるのである。しかし、その生真面目さこそが、意図せずして微笑を誘う効果をもたらしている気がする。いずれにせよ、類句が思い浮かばないユニークな句である。 (可 21.06.29.)

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秩父連山晴れの日に咲く牡丹かな  野田冷峰

秩父連山晴れの日に咲く牡丹かな  野田冷峰 『この一句』  誰にでも「自分の好きなタイプの句」があるはずで、私にとっては掲句がその一例と言えるだろう。同じような句を何度も選んでしまうので「どこかで見たような気がするなぁ」と思うこともあるが、好きな句なら何度出てきてもいい。作者が類句を知らずに作ることもあるはずだし、それに気づいて句に工夫を加えているなら、それでもいいのではないだろうか。  晴れた日に東京の西部地域から西の方を眺めると、富士山の右手に秩父の山々が連なっている。掲句はそんな大パノラマを眺めながらの作なのだろう。そして作者は、晴れ渡ったその日を選んだかのように「牡丹が開いた」と詠んだ。秩父連山を詠んだ句は無数にあるはずだが、この句は牡丹を配して独特の世界を描きだした。私はためらわずにこの句を選んでいる。  作者が判明した時、私は「なるほど」と頷いた。彼は西武池袋線沿線の住民なのだ。都心から西に向かう下りのJR中央線、西武新宿線、西武池袋線、東武東上線、これらの電鉄の進行方向左側の窓から富士や秩父の山々を望むことが出来る。晴れの日の夕方は窓の向こうの山々を眺めている人をよく見かける。私はそれらの人々を、同志のように思ってしまうのである。 (恂 21.06.28.)

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筒抜けの女湯の声夏来る    玉田 春陽子

筒抜けの女湯の声夏来る    玉田 春陽子 『この一句』  ユーモアに富む愉快な句である。女湯から聞こえてくる賑やかな声で夏到来を感じさせる鮮やかな手腕で、番町喜楽会の6月例会で最高点を得た。 銭湯は天井が高く声が響く。風呂に入ると心が伸びやかになり話も弾む。ましておしゃべり好きな女性が集う女湯であれば、いろんな声が「筒抜け」に響き渡るであろう。筒抜けの措辞からは広々とした銭湯の開放感と、リラックスした女性たちの解放感が伝わる。夏という季節が持つ解放感とまさに響き合っている。飾らないあけすけな会話が聞こえてきそうな臨場感がある。  庶民の暮らしを支えてきた銭湯は、内風呂の普及とともに急減している。厚労省や東京都の資料によれば、昭和43年に都内に2,687軒あった銭湯は、令和2年には510軒まで減っている。その一方でスーパー銭湯など大型の温浴施設は一貫して増えており、これらを含めた施設の総数は2万5,000軒前後で横ばいという。大きな風呂でゆったりと心身をほぐしたいというのは、人間の根源的な願望のようだ。銭湯が減って、南こうせつの「神田川」の世界は遠くなるばかりだが、施設は変わっても女湯の賑やかなおしゃべりが絶える心配はなさそうだ。 (迷 21.06.27.)

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我一人なり六月の書道展     今泉 而云

我一人なり六月の書道展     今泉 而云 『季のことば』  一年十二月、どの月もすべて季語だが、どの月も句を作るのは難しい。六月は特にそう思う。  「六月」を兼題にした水牛さんは六月生まれ。「六月という月はまことに冴えない月である」と嘆く。なんでも、一年で祭日のない唯一の月で、とりたてて特徴のない月だから、らしい。ご自身は「取柄無き六月もわが生まれ月」と自嘲気味に投句した。この句の作者・而云さんは、同じ丑年生まれ。水牛さんと二人でこの「双牛舎」を立ち上げた。七月生まれの作者なら「わが生まれ月」をどう詠むだろうか。  閑話休題、掲句は知り合いの書道展だろうか、それとも王羲之や顔真卿などの古典の臨書の類だろうか。非常事態宣言で閉館を強いられていた美術館や映画館、劇場などは宣言延長に伴い条件が緩和され、六月から再開した施設が多い。この書道展の会場はどういう施設か不明だが、開催できたようだ。この時期、仲間を誘って、というわけにもいかず、一人で訪れたものの展示会場は閑散としていた。梅雨の季節でもあり、雨の影響もあったかもしれない。「我一人なり」の上七にさまざまな詠嘆が込められている。正に令和三年六月の、とある街角の一断面である。 (双 21.06.25.)

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鮎宿の画鋲でとめし時刻表    嵐田 双歩

鮎宿の画鋲でとめし時刻表    嵐田 双歩 『合評会から』(日経俳句会合同句会) 方円 簡素な鮎宿の情景が浮かびます。帰りの時間を気にしながら釣るのでしょう。 反平 阿川弘之に『鮎の宿』なる随筆集がありました。もう古びてしまって黄色くなった時刻表が雰囲気を出している句です。 雅史 色褪せた時刻表が目に留まったその宿は、人情味あふれるところのような気がします。 春陽子 画鋲でとめられた時刻表が、馴染みの宿であること、主人が鮎釣りの名人であること、優しい女将がいること、などを教えてくれます。 迷哲 鮎宿には古びた民宿が多いようです。「画鋲でとめし」に生活実感があります。 *       *       *  この句は実際に見た光景を詠んだのか、あるいは頭の中で想像した光景か、それはわからない。いずれにしても、古びた時刻表を見つけたことが、この句の手柄である。それを季語を含む鮎宿と取合せたこと、さらには、時刻表をとめている画鋲に目をつけたことが素晴らしい。鮎宿の帳場付近の映像が読み手にリアルに伝わってくるだけでなく、宿そのものの外観や雰囲気までが見えてきそうである。過不足がなく、表現の手堅さを感じさせる一句である。 (可 21.06.24.)

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ワクチンを打った帰りに鰻喰う   印南 進

ワクチンを打った帰りに鰻喰う   印南 進 『合評会から』(三四郎句会) 圭子 鰻の大好きな私には気になる句です。 賢一 ワクチンを打って、コロナのプレッシャーから解放された、ヤッター! 蕎麦ではないでしょう、鰻でしよう。こういう際の解放感を鰻で表したのは凄いセンス。 而云 状況や気分はよく分かるが、「鰻喰う」は愛嬌がないなぁ。 *       *       *  「鰻食う」はぶっきらぼうな表現である。俳句も文学、文芸の一つであれば、たおやかな、味わいのある表現が必要のはず。下五は「うなぎ膳」くらいでどうか、と私は考えた。これなら「立派な鰻料理を前にして」という感じが出てくるはずだ。ところがこの原稿を書き始め、(三四郎句会)という表記を見てから、考えが変わった。  この珍しい名の句会は、某大学の柔道部ОBたちが立ち上げた。句会が第三木曜(航空業界では「三、四」で表すという)であるところから、初めは「三四会」としたが、後に姿三四郎にちなんで、と「三四郎句会」と変えた。すなわち句会のメンバーはもともと、食べ物の形式や見栄えなどは気にしない柔道マンなのだ。「鰻食う」が一番似合う、と思い直した。 (恂 21.06.23.)

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新しきビルの緑道夏至の雨   星川 水兎

新しきビルの緑道夏至の雨   星川 水兎 『季のことば』  近ごろ建てられる高層ビルは、都市計画などで空間地を設けることが定められているのだろう、緑道や小公園などが併設されるようになった。逆に、そうした空地を設ければ高いビルが作れる規則になっているので、土一升金一升の土地にこういう空間が生まれるようになったのだという話も聞いた。 法律的なことはさておき、とにかくこれでコンクリートの無様な箱がびっしり並ぶ東京都心部に、せせこましいものではあるが樹木や草花の生えた「地面」が出来た。ビル街散歩もこれでずいぶんほっとした気分が醸し出される。 ところで季語の「夏至の雨」。本来、夏至は一年で昼の時間が最も長い一日なのだが、東海道ベルトラインは梅雨の最中。大概は雨降りかどんよりした厚い雲に覆われている。 昨日6月21日が夏至で、東京近辺は雨こそ降らなかったが、晴時々曇のむしむしと暑苦しい典型的な梅雨の晴れ間だった。しかし、こうして新しく植栽された木々が雨期に活気づき、葉を光らす景色はなかなかのものだ。晴雨兼用のカラフルな傘をさしてオフイスに通う通勤女子の足取りも軽い。この句からはそんな気持の良さが伝わってくる。 (水 21.06.22.)

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あかがねの月欠けて満つ露台かな  徳永木葉

あかがねの月欠けて満つ露台かな  徳永木葉 『この一句』  日本で3年ぶりに観測された月食を風雅に詠んだ句である。今回の月食は地球の影が月をすっぽり覆う皆既月食で、月が最大に見えるスーパームーンと重なることから注目を集めた。  当日は午後6時40分過ぎに月が欠け始め、8時10分頃から皆既食が10分ほど続き、10時前に満月に戻った。皆既食となっても真っ暗になるのではなく、太陽光のうち波長の長い赤色が地球の大気で屈折して届くので、月は赤黒く見える。この赤銅色の月が皆既食の象徴とされる。  掲句は「あかがねの月」が欠けて満ちるという、和歌を思わせる雅な言葉で皆既月食を表現する。配する季語は「露台」である。露台とは建物の外に張り出した床縁で、バルコニーやテラス、ベランダを指す。暑い時季には涼む場所となるので夏の季語となる。  この夜、関東地方は曇り空が多かったが、作者の住む千葉県は晴れ間が広がり、天体ショーを満喫できたようだ。ただ二階のベランダから月を眺めたと考えては情緒がない。露台には宮中の紫宸殿と仁寿殿との間にある渡り廊下の意味もある。平安貴族が露台に佇み「あかがねの月」に心を奪われている場面を想像した方が、句の趣に沿うのではなかろうか。 (迷 21.06.21.)

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胡瓜成る「し」の字「へ」の字に元気よく 澤井二堂

胡瓜成る「し」の字「へ」の字に元気よく 澤井二堂 『合評会から』(番町喜楽会) 的中 自然に栽培された胡瓜は元気に曲がっています。いかにも青々とした胡瓜の様子が表現されています。 満智 胡瓜が成っている様子をひらがなの形になぞらえているのが巧みですね。「元気よく」も効いています。 冷峰 下五の「元気よく」が平凡な句をしっかり支えている。 水兎 確かに色んな胡瓜がありますね。それが自然ですよね。 *       *       * 長年畑をやっている人の句に「水か陽か曲り胡瓜の出来具合」というのが今回同時に出ているので、水の量か陽の当たり加減が影響しているのだろうと推測できる。「し」の字「へ」の字の表現が、なるほどその通りと思わせて納得である。大根や人参などの根菜の形を仮名文字にたとえる表現は珍しくないが、下五の「元気よく」で、曲がっていることなど気にしていない作者のおおらかさが伺えていい。気持ちのいい句である。すなおに胡瓜の成長に満足している作者の姿も目に浮かんで共感できる。つまらぬことが気になっているが、「し」と「へ」のカギ括弧はなくてもいいと思うのだが……。 (葉 21.06.20.)

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