ラヂオより昼の憩ひや冷し汁   金田 青水

ラヂオより昼の憩ひや冷し汁   金田 青水 『季のことば』  「冷汁(ひやじる)、冷し汁」は夏の季語。食欲の落ちる暑い季節に、味噌や醤油で仕立たてた冷たい汁をご飯やうどんなどにかけて食べる。昔は、農家が忙しい時期に、冷たい井戸水で味噌を溶かし胡瓜などの夏野菜を刻んで麦飯にぶっかけて食べていたらしい。調べてみると、似たような習慣が全国に形を変えて残っていて、秋田、山形、埼玉、愛媛、広島など各地で郷土料理として親しまれているという。  殊に宮崎の冷汁は有名で、農水省のホームページにも宮崎県の郷土料理として紹介されている。日本経済新聞宮崎支局長のコラムでは、「鎌倉時代に僧侶が各地に広めたのが発祥とされ、時代とともに姿形は変わったが、宮崎県の冷や汁が原形にもっとも近いという」と紹介されていた。筆者も福岡で勤務していたころは、宮崎の冷汁にはずいぶんお世話になったものだ。  一方、「ひるのいこい」は、1952年に始まったNHKラジオを代表する長寿番組。全国各地から寄せられる季節の便り、生活に密着した俳句や短歌を、ゆったりとしたアナウンサーの語り口で歌謡曲などとともに放送する癒やし系の番組だ。  冷汁の素朴な味と「ひるのいこい」の醸しだす雰囲気とが絶妙にはまり、月例で人気を集めた。冷汁を懐かしむ筆者も一推しの一句である。 (双 21.05.31.)

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白牡丹折り目正しく咲きにけり  塩田 命水

白牡丹折り目正しく咲きにけり  塩田 命水 『この一句』  「牡丹」の句には擬人の句が多かった。メールで集まった四十弱の牡丹の句のうち、実に半数近くが擬人の句、あるいはそれに近い句であった。俳句を作る際に、擬人化は少し警戒するのが普通なのに、この多さは何としたことだろう。牡丹のあの大輪ですっくと立つ姿が、人の立ち姿に似ていて、詠む者をおのずと擬人化に走らせるのかもしれない。  句の中に、「楊貴妃」、「女王」、「熟女」などの言葉が散見され、女性、それも成熟した身分のある女性に喩える句が多い。また、その振る舞いに目を転じれば、「闇を抱える」、「泰然と風に頷く」、「妖しく揺れる」のような表現が続く。いずれも女性の妖しくも堂々とした姿を想起させる措辞である。かく言う筆者も、「待つごとく誘ふがごとく白牡丹」と、やはりこの傾向に近い句を詠んでいる。  そんな句が多い中で、掲句は「折り目正しく」という措辞により、同じ擬人化ではあってもずいぶん印象の異なる表現になっている。この措辞は、清楚でなおかつ凛とした姿を想起させ、妖艶さのようなことからはほど遠いイメージを読む者に与える。この句を念頭において改めて白牡丹を見ると、なるほどこの表現もまた、写生句として正鵠を射ているように見えるから不思議だ。写生するとは、つまり、見る者の心中を写す作業に過ぎないのかもしれない。いずれにせよ、他の擬人の句とは一線を画す、斬新でユニークな一句である。 (可 21.05.30.)

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村祭助役の亡父の酔ひ加減    大沢 反平

村祭助役の亡父の酔ひ加減    大沢 反平 『季のことば』  「祭」という五月の兼題、句中に詠みこめる対象はかぎりなく広い。たんに祭と言えば夏の季語となるが、秋の「秋祭」は別ものとしても「祭」と付く季語は多い。歳時記には「祭髪」「祭衣」「祭囃子」「祭太鼓」「祭提灯」「祭笛」「祭舟」などと並ぶ。その他、掲句のように「村祭」とか「祭膳」「御旅所」「水祭」「宵祭」と詠む手もあるし、「葵祭」という固有名詞をじかに持ってくることもできる。ちなみに上記歳時記に載っている以外のものは、今回の投句者それぞれが季語として使ったものだ。ことほどさように祭の句は自由自在に作れると言ってもいいだろう。  作者は村祭を持ってきた。八十路の作者だから古い昔の思い出である。この句からはさまざまな情報が読み取れはしまいか。作者は筆者の会社時代の大先輩であり、同じ句会で席を並べている。といっても私事にわたることは詮索できない。そうか父君は村の助役であったか。謹厳だがおそらく酒好き。村の名士であり、祭りの時には神輿の先導役でもやられたのかとも想像する。祭の直会の席の父君を垣間見たら、役目を終えた満足感で気持ち良く酔っていた、という情景とみた。大昔の父親を回想し、ほのぼのとする作品と思う。作品から作者の来し方まで見えてくるのも俳句だろうか。 (葉 21.05.28.)

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夕闇の包み忘れし白牡丹    玉田 春陽子

夕闇の包み忘れし白牡丹    玉田 春陽子 『この一句』  一読して「包み忘れし」という措辞に魅せられた。夕闇に浮かぶ白牡丹を巧みに表現し、場面が鮮やかに浮かんでくる。番町喜楽会の5月例会で群を抜く高点を得た。  白牡丹の句はその白さや姿をどう表現するかがポイントになる。例句を見ると高浜虚子の「白牡丹といふといへども紅ほのか」や杉山杉風の「飛ぶ胡蝶まぎれて失せし白牡丹」などがある。  掲句は白牡丹を夕闇の中に置くことで、白さを際立たせている。「包み忘れし」という詩的な表現によって、他の花が闇に沈む中で、白牡丹の白だけが浮かび上がってくる。夕闇と白牡丹のコントラストが鮮やかで、明暗のくっきりした初夏の夕暮の気配も感じられる。 夕闇を擬人化した表現は、好き嫌いが分かれるかも知れないが、句評を見ると「きれいで優しい表現。牡丹の白が際立ってくる(水馬)」、「包み忘れしという表現がうまい(満智)」などそこを前向きに評価する声が多い。 作者の自句自解によれば、熊谷の実家の近くの寺まで出かけ行って詠んだ句という。本人は吟行の大切さを改めて実感したと語るが、コロナ禍の中をわざわざ遠出して得た実作と知ると、句の趣きが一段と深まる。                          (迷 21.05.27.)

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遺影持て神輿見送る漁師町    廣田 可升

遺影持て神輿見送る漁師町    廣田 可升 『この一句』  「漁師町」はなかなか魅力的な言葉だ。漁業という生業に町をつけただけだが、内包するイメージがとても豊かで響きも良い。土地柄を表すこんな例は、ほかにあるだろうか。例えば発音は同じだが、猟師町とは聞いたことがない。農家が集まっていれば農村だが、あまりにも漠然とし過ぎていて焦点が定まらない。「港町ブルース」ではないが、全国津々浦々にある漁師町。例えば、青森・大間、宮城・石巻、和歌山・太地、熊本・水俣などなど、それぞれ物語がありそうで大いに想像力を掻き立てられる。「なるほどなぁ、と頷きつつ、一句を鑑賞した。これはやはり、漁師町が一番似合いそうな風景だ」と而云さんの言うように、この句の漁師町は、季語よりも雄弁かもしれない。  主語はないけれど、漁港での夏祭を遺影に見せている漁師の女房、という映像が浮かぶ。「板子一枚下は地獄」の漁師だけに水難事故はつきものだろう。あるいは津波にのまれた犠牲者なのだろうか。読者はそれぞれ想いを馳せる。「遺影手に」としそうなところを「遺影持て」と表現したきめ細やかさも見逃せない。「持て」で遺影の“重み”が伝わってくるのだ。メール句会で最高点を取ったこの秀句を、うかつにも見逃した筆者は、ただ恥じ入るばかりだ。 (双 21.05.26.)

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骨折の足伸ばす先緑さす     山口 斗詩子

骨折の足伸ばす先緑さす     山口 斗詩子 『合評会から』(番町喜楽会)   可升 骨折して身動きがとれず、縁側で足を伸ばしてみると、いつの間にか庭がすっかり新緑に包まれていることに気付く。楚々と詠まれた良い句だと思います。 満智 縁側でしょうか。骨折した足と緑の組み合わせが新鮮。骨折してしまって大変だけれど新緑を味わっている感性が素敵です。 水兎 骨折ですか!お気の毒です。緑が美しくても、歩けない無念さが忍ばれますが、ステイホームの実践と思って。 *       *       *  独り暮らしの作者は最近骨折したという。老境で足を折って不自由な生活には同情するほかない。他人事ではなく骨密度の低くなった我々老人は転んだら大てい骨を折る。ことに骨盤と足が怖い。寝たきりになってしまえば文字通り寿命が縮まる。同情のあまり老齢者の句会で高点を取ったのは当然だ。 ところが足を折ったのに、この句には暗さがない。ひとえに「緑さす」と結んだせいで、むしろ前向きな気持ちが出ている。松葉杖にすがりながらコロナ禍の生活をしのいでいるのだろう。ペタンと足を投げ出す先には新緑があり、明るさが見える。逆境を乗り越える気持ちがこめられたこの句に声援の一票を入れた。(葉 21.05.25.)

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マヨネーズ付けてどうなる柿若葉  杉山三薬

マヨネーズ付けてどうなる柿若葉  杉山三薬 『この一句』  いやぁ、本当に吃驚しましたよ、この句を見たとき…。そして思わず笑っちゃいました。柿の葉を噛んだ(?)作者の顔を想像して。それにしても、よくこんな発想をし、そのうえ堂々と投句したもんですな。その大胆不敵さには頭が下がります。   「全く同じことを考えたバカ(失礼)がいるのだと嬉しくなりました。私が作った柿若葉とマヨネーズの句はボツにしました」(双歩)とか「食べることなど想像だにしませんでした。発想の豊かさに一票」(百子)という声も聞かれましたけど…。  もとより柿の葉寿司は知ってますよ。笹の葉に包んだ寿司も食べた覚えがあります。だけど、柿若葉をマヨネーズで、とはね。サラダ替わりですかね。色艶のいい柿の若葉は柔らかそうで、美味しそうだけど…。どんな味だったのか話してほしいですな。  しかし、こういう一瞬ギョッとさせられる作品はいいもんです。乙に澄ました花鳥諷詠ばっかりじゃつまんない。いまや俳句にもソウゾウリョクが必要なんです。そう、創造力と想像力。写生ばかりじゃ「第二芸術」に黴が生え「第三芸術」になっちゃいますよ。 (光 21.05.24.)

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蕉翁の柳に風や澄みし天     吉田 正義

蕉翁の柳に風や澄みし天     吉田 正義 『この一句』  「蕉翁の柳」とは何か。芭蕉は柳の句を7,8句詠んでおり、「八九間空で雨降る柳哉」「からかさに押わけみたる柳かな」がよく取りざたされるが、この句の柳はやはり、『奥の細道』に出て来る「田一枚植て立去る柳かな」であろう。  ただし、この那須野が原の田んぼの真ん中にある柳は、西行が行脚の折に立ち寄って「道のべに清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ」(新古今集)と詠んだ柳であり、謡曲「遊行柳」によっても有名になった柳である。爾来、歌詠みや俳人にとっての歌枕・俳枕になったわけだが、そこからすれば「遊行柳」「西行柳」とすべきところだ。  西行を崇敬し、「旅を友」とした芭蕉にしてみれば、念願の奥の細道行脚で是が非でも行くべき所と定めていた場所であり、柳であった。そして、芭蕉を崇敬し、日光にも平泉にも山寺にもと芭蕉のたどった道を歩む作者にとっては、この那須・芦野の里の柳は「蕉翁の柳」でなければならなかったのだ。  「田一枚植えた」のは誰か、「立ち去る」のは誰か、毀誉褒貶さまざまな難解句も、この作者には何の疑問もなくすんなり呑み込めるのだろう。作者は西行に思いを馳せ、芭蕉を偲び、それこそ田一枚植え終わる時間、心ゆくまで柳陰に腰を下ろしていたのだろう。夏隣の頃合いの空は青々と澄み渡り、爽やかな風がそよいでいる。 (水 21.05.23.)

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焼くだけの男の料理風薫る    廣田 可升

『合評会から』(番町喜楽会) 水牛 本当の料理好きの男の料理は、とてもこんなもんじゃない、もっとちゃんとしたものなのですが、「風薫る」という初夏の気分の良い季語と合わさって、良い句になりました。 青水 季語を信じ切って、設定を言い切っているところが良い。特に上五が良い。 春陽子 大学のゼミで渓谷のバーベキューが恒例行事だった。金串にさし焚火で焼くだけの料理だが、その時の味は今でも記憶に。風薫るの季語もぴったりと思います。 水兎 バーベキューまたは、お休みの日の手料理でしょうか。美味しそうですね。            *       *       *  「男の料理」なる言葉が出てきたのは昭和40年代後半ではないかと思う。檀一雄が産経新聞に連載していた「檀流クッキング」をまとめた本が昭和45年に刊行され、人気を集めた。その後、小学館から「男の料理」と題したムック版の料理本が出たので、ともに買った記憶がある。これらの本を見て、カツオの叩きや豚骨にチャレンジしたが、どの料理も素材にこだわり手間を惜しまずに作るレシピだった。  作者によれば、子や孫が集まった時のバーベキューを詠んだものだという。本来の「男の料理」とは違うが、目くじらを立てる話でもない。むしろ妻の家事を積極的に助け、家族に喜ばれる令和の「男の料理」があってもいい。和気藹々のバーベキューを風が爽やかに吹き渡って行く。 (迷 21.05.21.)

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通りにも裏表あり燕来る    玉田 春陽子

通りにも裏表あり燕来る    玉田 春陽子 『合評会から』(酔吟会) 木葉 裏と表のある通りといえば、かなり広い通りでしょう。燕が来て、表通りにも裏通りにも飛び回っているという句意かと思います。燕の勝手ながら、コロナ禍の町で自由を謳歌するのは羨ましい。 双歩 確かに。木枯らしとかでもいけそうですが、燕は似合いますね。 光迷 表通り・裏通りに関して言えば、姫街道なるものも存在しました。また裏表のあるものでは、紙(紙幣)、情報、人柄(表の顔・裏の顔)などか頭に浮かび、いろいろ考えさせられました。 *       *       * 双歩さんの「木枯らしとかでも」という感想は、かなりの人が持つのではないか。一読した時、自分は「猫の恋でも」と思った。つまり、季語が動く、必ずしも燕でなくともよいのである。で、読者は夏では、秋では…と、季語を入れ試してみてほしい。 それはともあれ「裏表あり」という言葉によって、この句は奥行き、含蓄を増した。スポーツではサッカーなどにコイントスの裏表があり、政治の世界にはコロナの緊急事態宣言などをめぐる裏表がある。一筋縄ではいかないのが世の中とはいうものの…。 (光 21.05.20.)

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